その4 生における
「プレスター・ジョンの国とは、中世ヨーロッパのキリスト教徒が信じていた伝説の国家のことだよ。当時圧迫されていたキリスト教世界に、東方にはまだ見ぬキリスト教徒の理想国が存在し、プレスター・ジョンという修道士が王を務めている――そんな伝説が広まったんだ。強大な軍隊をもち、たいへんに栄えているといわれた幻の国さ」
いつものように川辺で釣りをしながら、モノクルをかけた猫紳士が語った。隣の折りたたみ椅子に腰をかけた亜美は感心したように聞き入っている。
「じゃあ、あたしの会ったメルカッセはその国からやってきたんだ」
「そうだろうね。このリタ・ツマクはあらゆる幻想地から繋がっている。現実世界では幻や空想の産物も、幻想世界では確かに存在あるいは誕生するものなのだ」
「そっかぁ……あれ、でも、それなら危険なものもこっちに入ってきたりすることはないの? たとえばプレスター・ジョンの国が軍隊を送り出してきたら?」
その心配はないよと猫紳士が断言した。リタ・ツマクを訪れることができる者は、大きな混乱や害をもたらさない存在に限られているのだと。
だからここでは凶悪事件が発生しないんだと、なるほど納得の亜美である。
「キリスト教は死後の幸福を第一に考えているから、そのメルカッセ嬢の思想をおまえさんが理解するのは難しいだろうね。まあ、死というものが本当はどんなものか知っていれば、誰も死を恐れることはなくなるのだろうが」
「あっ、そうだ。おじさんにききたいことがあるんだけど、もしあたしがここで死ぬようなことになったら、今度はどうなるのかな」
「その場合はお嬢ちゃんが本来逝くべきだったところへ旅立つことになるだろうね。もっとも、それはまずありえない話といえる」
「どうして?」
「おまえさんが望んでいないからさ。これ以上は何も答えられないよ」
そうして、猫紳士は釣りに集中し始めた。こうなるともういくら話しかけても無駄だ。
このネコおじさんはいったい何者なんだろうと思いながら、亜美は川辺を後にした。
リタ・ツマク月の出通り商店街を出てすぐの右手に、一見して廃屋としか思えない小さな店がある。幽霊が現れてもおかしくなさそうなボロボロの外観だ。
薄汚れた店先の看板には『ツマクコーヒ月の出通り店』とレトロな文字で書かれてある。
近寄りがたい雰囲気が全体から発散されているその店の前に軽やかに立つと、亜美はスライド式のドアをガタゴトと開けて、なんの躊躇もなく中に入った。
「おばあちゃん、ホットネーポンひとつー」
「あいよ」
長い歳月を閲した店内に足を踏み入れるや、さくさく注文する常連客の少女に、エプロン姿の猫老婆が淡々と応じる。ネーポンというラベルが貼られた、オレンジ色の液体が詰まった透明な瓶を鍋にかけて暖めはじめた。
ネーブルとポンカンの合成語であるネーポンとは、この店の名物メニューで、果汁十パーセントのオレンジ味の飲料のことだ。
古びたイスとテーブルが申し訳程度にひしめきあっている狭い店内をぐるりと見渡した亜美は、隅の薄暗い一角に腰かけている知人を発見して、すたすたスパッと近寄った。そして敬礼仕草の笑顔で元気よく挨拶。
「HPL先生、こんちわー」
「おや、これは亜美君、ご無沙汰だね」
針のように細い声で挨拶を返したのは、やや痩せ気味の長身で、長い鼻と下に突出したあごが特徴的な、グレーのスーツを着た年輩の男。肌は色白で、目は褐色、髪は鉄灰色になりかかっている褐色。アメリカ人らしいが陽気なイメージとは程遠い風貌だ。
彼は亜美の知人であるHPL先生。幻夢境のイレク=ヴァドという都市からやってきており、リタ・ツマクでは怪奇小説専門の作家として活動している。
「先生はまたお仕事のこと考えてたの?」
「うむ。この店でくつろいでいると創作のイメージが浮かびやすくてね。こう、名状しがたい、冒涜的な、慄然たるアイディアが」
「いつもながらよくわかんないけど」
「私の小説をしっかり読めば理解できるようになるよ」
「うぅ〜、それはちょっとムリかも……」
HPL先生の小説は日本語訳の本も出ているが、文字がびっしりで改行が少なくて難しい漢字が多いうえに、非常に読みにくい。かつて亜美は一ページで断念してしまったのだ。そもそも子供向けの内容ではない。
とりあえず正面の席に座ると、亜美はふと先日のKENjIとの会話や今朝の猫紳士とのやりとりを思いだした。
「ねえねえ、HPL先生は、生きるってことをどう考えているの?」
「突然だね。それは、人間の生について、でいいのかね」
亜美がこくこくとうなずくと、HPL先生は暫し宙を見上げた。壊れかけた電球がゆらゆら揺れる様は彼にとって明滅する宇宙のように思えた。
試験管の中の宇宙。水槽の中の宇宙。そんな風にもイメージが拡がってくる。
「まず、大切なのは宇宙的視野。その観点だな」
「宇宙?」
「そうだ。宇宙から見れば人間などちっぽけなものに思える、それはわかるね?」
「うん。宇宙はひろくておっきいもんねー」
「さて、問題はそこだ。結論から言うと、我々の生には何の意味も無いということだ」
「ええっ、ないのっ!?」
身を乗り出してびっくりする少女を、HPL先生は真剣に見据えた。
「人はよく夢と現実に優劣をつけたがるが、どちらも同じ価値しかない虚ろでくだらないものなのだ。物事の価値観は絶対的ではなく、さらにいえば、もともと大したものではない。人間は自分たちの虚構にすぎない価値観をわかったような顔で過大評価してありがたがっているだけだ。人間の存在意義や道徳、倫理といったものは、宇宙的観点から見れば無価値にして取るに足らないものである。現実世界における鼻高々の科学の進歩がそれを証明しているだろう。科学の進歩によって真実が明らかになると、人間は発狂するしかない。何故なら、科学の進歩が価値観の否定を人間に向けさせ、人生がもはや無意味であるということを突きつけてくるからだ。……幸いにして幻夢境もこのリタ・ツマクも、科学の進歩に汚染されることはないがね」
亜美は頭がこんがらがってくらくらしてきた。先生の話は確実に彼女の頭脳の許容範囲、理解力を著しくオーバーしている。
「えっと……ええと……最初の結論に話を戻すと、人間の生には価値がないってこと?」
「そのとおりだ。人はどこからきて何処へ行くのか、人は何故生きるのか――大昔から提起されている命題だが答えなどあるはずがない。はじめから生命の存在自体に意味がないからね。世界にあるのは原子と電子の運動のみ。それが真実だ」
少しの間、沈黙が幕を張った。亜美が神妙な面持ちで黙ったからだ。あかるい太陽が彼女の名字そのままに白い月となった静寂の帳というべきか。
ややあって亜美は、こわごわとした声のトーンでつぶやいた。
「なんだか……そうおもうと、こわいよ」
「怖いと感じるかね」
「うん。とっても」
「それはよかった」
「な、なんでっ? ぜんぜんよくないよー」
何故だか満足げなHPL先生に激しく困惑する白月亜美である。
「簡単なことだよ。その恐怖を、私は怪奇小説という形で書いているからだ」
「……どういうことなの?」
「私の小説の全ては、人間一般の慣わし、主張、感情が、広大な宇宙全体においては、何の意味も有効性ももたないという根本的な前提に基づいている。果のない慄然たる未知の領域――影のつどう外界――に乗りだすときには、忘れることなくその戸口において、あらゆる人間性というもの――そして地球中心の考え方――を振り捨てなければならないのだ。恐怖とは未知である。恐怖は人間の最も古く最も強烈な感情だ。生命とは無意味なものでしかないのに、それにもかかわらず存在しているという恐ろしさ――深淵を垣間見てしまった者の、真実を知ってしまった者の人間性の破滅、そういった恐怖を怪奇小説で表現している。だからいま君が前述したことを怖いと感じるなら、それは私にとって真に重畳というわけだ」
「よくわかんないけど……先生の小説的にはおkってハナシなんだね」
「そう受け取ってくれても結構」
「はいよ、ホットネーポンひとつ」
猫老婆が亜美の前にオレンジ色の飲料に満たされた瓶を置いた。
急にマクロな感覚から引き戻された亜美は、程よく温もったネーポンをぐびぐび喉に流し込む。そのあたたかさが身体に染み渡ると、ひどく安堵をおぼえた。
「それはそうと、先日エドワード・J・M・D・ブランケット男爵の講演会に行ってきてね、とても有意義な時間を過ごしたよ」
「わ、そうなんだ。おに……――あたしの知り合いも数日前に講義を受けてきたみたい」
「それはさぞかし満喫されたことだろう。かくいう私は会場の最前列の真正面に坐ったから彼をよく見ることができた。彼はとても背が高く、中位の肩幅で、白哲碧眼、額は広く、豊かな髪は淡褐色、それに同色のささやかな口髭を蓄えている。端正な顔立ちは健康かつ繊細、表情は魅力的で気まぐれな優しさを湛え、浮世の経験を経ても、また片眼鏡をかけても、なお消えやらぬ子供の無邪気さを残している――」
容姿の説明から始まったHPL先生のブランケット男爵に対する熱弁は、亜美がホットネーポンを飲み終えたあともしばらく続いたのである。
それから他愛のない会話をこなしてツマクコーヒ月の出通り店を後にした亜美は、商店街を通り抜ける途中、小規模のゲームショップに眼をやった。
「あ、あのゲーム機もう発売されたんだ」
車も携帯電話もネットもない世界なのに、コンシューマゲームだけは現実世界の最新型がちゃんと存在するのだから、リタ・ツマクはほんとうに不思議なところだと思わずにはいられない。
ゲームは好きなのではやく斡旋所とやらを利用して仕事を見つけ、自分でお金が手に入るようになったらいろいろ欲しいものを買おうと心に決めた。
夕食は如月絵里と一緒に近所の『得正』で食べた。絵里は名物カレーうどん、亜美はチーズカレーライスだ。この店のどろりとした特濃カレーは麺よりもご飯のほうがあっていると思う亜美である。
生についての話題を持ち出してみたところ、絵里はあっさりと次のように言った。
「適当に生きよう!」
深いことや難しいことを考えずに好きなように生きればそれでよし。
なんとも短絡思考極まりなし。
しかし、けれど、亜美にとっては一番納得できる答えだった。