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その2 時の砂

「と、とりあえず、この血まみれを何とかしたいんだけど……」

「それならば問題はない。もう一度川面を見てごらん」

 猫紳士にそう言われ、亜美がおそるおそる水面に姿を映してみると、おどろいたことに真っ赤な血はきれいさっぱり消失していた。

 ぽちゃんと音がして釣り糸が水中に沈み、その波紋が水面に映る少女の像をゆらめかせる。

「おじさん、これはいったい? あたしさっきは確かに血だらけだったのに」

「自分の死を自覚したとき、おまえさんはここの住人として生まれ変わったのさ。死とは新たな生への通過点に過ぎない。もっとも、お嬢ちゃんの場合はここが終着地ということになるだろうがね」

「あたしホントに死んだのかな。なんか……あんまし実感ないんだけど」

「そういうものだよ。死んだらどうなるかなど、実際に死んでみないとわからないのだから」

 釣り椅子に腰をかけ、釣竿を固定する猫紳士。水面を反射していた片眼鏡を指で調整し、ゆっくりと顔を傾けると、やわらかな猫眼で亜美を見つめた。

「さあて、お嬢ちゃんには住むところが必要だろう。私の知り合いがマンションの管理人をやっている。空室があって店子を募集していたから、たずねてみるといい。私の紹介だと伝えれば提供してくれるはずだよ」


 猫紳士の教えてくれたビルはリタ・ツマク公園のすぐ近くにあった。

 月南げつなんハイツ。五階建ての白塗りマンションだが、リタ・ツマクに存在する住居の中ではかなりの高層建築物である。

「あら、あちらさんの紹介なら遠慮はいらないわ。はいこれ鍵」

 大家は着物姿をした猫のおばさんだった。マンションの鍵を受け取った亜美は階段を上がって、今日から自分の住む場所になる部屋へ向かった。エレベーターはない。一階層に三部屋で、四階のC室が亜美の部屋だった。隣のB室の表札には『如月きさらぎ』とあり、向かいのA室は空室らしい。

「わあ、結構ひろーいっ」

 玄関を入ってすぐに八畳のリビングダイニングキッチン。そして六畳と十畳の居室にトイレと浴室というのが全体的な間取りで、なかなか快適そうな2LDKだ。テレビをはじめ家具一式が揃っているのも助かる。家具は居住者の性質によって自動的に用意されるようで、テレビは中型の液晶、寝具はベッドにあらず床布団だった。

「いやあ、よろしいのかね佐々木君、私には身に余るようだが。いえいえ、いいんですよ川崎さん、あなたのために用意したものなんですから」

 つい一人芝居してしまう亜美。これで家賃はいらないというのだから不思議なものだ。月白郷リタ・ツマクでは食事に関してお金は不要だということは知っていたが、住居までとは思わなかった。大家の話によれば、適応の度合いか、誰かの紹介があって認められるみたいなので、猫紳士に感謝するほかはないだろう。

 テレビをつけると、リタ・ツマク独自の番組が放映されていた。内容自体は現実世界とさして大差ないが、パソコン、ネット、携帯電話などは存在しないので、技術面での目新しさに欠けるのはやむをえまい。

 しばらくテレビに夢中になっていたが、ふと窓に目を向けたら世界は群青色に染まっていた。気がつけばお腹もすいている。

「そういえばここの間近にローソンがあったっけ」

 コンビニはマンションを出て二軒隣にあった。適当に見繕った弁当とサラダをレジに持っていく。食べ物であればどこでも無料だ。

 部屋に戻ってレンジで温めた弁当を食べていると、なんともいえない物足りなさを感じた。味は悪くない、というかどこにでもあるコンビニ弁当だ。ではなにかというと、そこでようやく、ハッとして理解した。

「お父さんもお母さんもいない……」

 昨日――正確には今日の朝までは両親と一緒に食事していたのだ。それがいまは自分一人。それを実感した途端、急激に孤独感がわいてきた。そして、怖くなった。

 これから先もずっと、朝も夜も、こうしてひとりぼっちの毎日が続くのだろうか。

「やだ……いやだあっ」

 悲鳴のような一声とともに、亜美は部屋を飛び出した。


 夜空には星がまたたいていた。様々な星座がくっきり見えるほど澄み渡った満天の空だ。

 しかし少女にはその美しさに心を酔わせる余裕などない。リタ・ツマク教会の敷地内、聖堂前の段差に腰を下ろして、亜美は泣きじゃくっていた。月南ハイツを飛び出してからあちこち駆けずりまわった後、ふらふらとした足取りで教会に辿り着いたのだ。

 これからどうすればいいのか、どうなるのかもわからない。身体を小刻みに震わせながら泣くことしかできずにいた。

 だから、誰かが近くにきても気づかなかった。

「亜美さん、なにをそんなに泣いているのですか」

「え……?」

「差し支えがなければ、僕にわけを聞かせてくれませんか」

「あ……あ……」

 闇夜に映える白い帽子とマント。優しい声と、眼鏡の内に宿る穏やかな眼差し。

「ケンジお兄ちゃんっ!」

 いきおいのままに亜美は抱きついた。

 しゃくりをあげる少女を、青年は静かに受け止め、そっと頭をなでてやった。

 気が落ち着いてから、亜美はぽつりぽつりと話しはじめた。自分が現実世界で車にはねられて死んだこと。このリタ・ツマクの住人になったこと。ひとりきりになった恐怖のこと。いつもの彼女からはかけ離れたしおらしい様子で。

「そうでしたか……」

 聞き終えたKENjIが、静謐な顔で少女を見つめる。彼の脳裏を何が去来したか、深い、深い、追憶の光がその眼に宿っていた。そのとき青年の瞳に映ったのは白月亜美ではなかったかもしれない。

「ねえ、お兄ちゃん。もしここであたしが死んだらどうなるのかな……そうしたら元の世界に戻れるかな。お父さんとお母さんのところに戻れるかな?」

 なにかにすがるように、そんなことを口に出す亜美。泣き笑いのような表情だ。

 それで、青年の網膜が眼前の少女の像をはっきりと捉えた。

「なんということを言い出すのですか。莫迦なことを思ってはいけません」

「ケンジお兄ちゃん……?」

 真剣に窘められ、亜美はびっくりしたふうに口を半開きにした。

「君は、いま――ここで、生きているのです。生きるという現象がどういうことなのか、よく考えてごらんなさい。それに、君のご両親が、君を失って、どれだけ悲しんでいるかを、想像できないのですか」

「あ……」

 そのことに思い至って愕然とする。そうだった。現実世界では、一人娘が交通事故に遭って死んだという事実に両親がうちのめされているはずだ。そしてその悲しみを抱えて生きていかないといけないのだ。

「ごめんなさい……あたし、自分のことしか頭になかったです」

「いいえ、それも仕方のないことでしょう。けれど、理解できたのでしたら、なによりです。――これから行くところがあるのですが、ちょっとご一緒しませんか」

 意味ありげな微笑でそう言われては、断れるはずもない。亜美は手の甲で涙をぬぐうと、幾分か顔を綻ばせて、白マントの背中についていった。

 リタ・ツマク教会の角を右に曲がってホーエン坂をしばらく上ると、その端に、木立がある。二人はそこで足を止めた。木立の中には古びた井戸があり、四方を注連縄しめなわが囲んでそれ以上は誰も近づけないようになっている。夜の闇にもきらきらと透明に光る砂が、中空から絶え間なく井戸の中へと降り注いでいるのが特徴だ。

 月中げっちゅう井戸――無限に落ち往く『時の砂』が底なしの深淵に降り続ける謎の井戸。

「お兄ちゃん、ここに来る途中だったの?」

「そうです。ところで亜美さん、君はこの砂が何処から降ってくるか知っていますか」

「ううん、ぜんぜん。気にはなったけど、そんなに興味あるわけじゃないし」

「それではマイスター・ホラという人物をご存知ですか」

「あっ、それなら聞いたことある。えっと、たしか……どこにもない家って場所に住んでいる、時間の管理者なんだよね」

「ええ、僕たちの知る限りでは。そして、この井戸に降り注ぐ時の砂は、そのマイスター・ホラのもとから流れているといわれています」

「そうなの? それがほんとうだったら、なんかすごいなあ」

 亜美が感嘆の眼で『時の砂』を眺めていると、KENjIは次のようなことを云った。

 ――月は水銀 後夜の喪主

「空は底の知れない洗いがけの虚空、そして昼の月は透明な水銀です。僕は、この時の砂と、夜でも白くかがやくあの月とを見ていると、ある情感にほだされます。それをいま君に伝えても詮無いことですが……ひとつだけ言うことがあるとすれば、死ぬことの向こう側まで来たのならとりあえず生きてみなさい、ということです」

 そうして彼は微笑した。決して欠けることのないリタ・ツマクの月の代わりに形作られたかのような弓形の笑いだった。


 亜美が月南ハイツに帰ると、部屋の前で誰かがインターホンを何度も押していた。背丈は自分とさして変わらない少女がセミロングの髪を肩で揺らしていた。声をかけると少女はピクッとして振り返り、待ち人きたりというふうにポンと手を打つ。

「あんた、ここのひと?」

「そうだけど……あなた誰?」

「おおっ、まさか同じ年頃の女の子だったなんて、ラッキー! 私となりのB室に住んでる如月絵里えり。空室だったC室に表札が出てたから挨拶しようと何回かたずねたのに全然応答ないから今日はもうムリかなって思ったんだけど、よかったよかった。それじゃあんたがしろつきさんね、よろしく」

「……しらつき、よ。白月亜美。とゆーかわざわざ挨拶とか――」

 なれなれしいことこのうえない。しかし自分もあまり人のことはいえないので気にせず普通に対応する亜美。こういう手合いは気を置けるからだ。

「いやー、この階の居住者って私だけだからさびしかったのよねー。そっか、じゃあ亜美って呼んでいい? あんたも私のこと好きに呼んでいいから」

「なら、えっちゃん」

「オッケー。それでさ、よかったら、友達にならない? これも何かの縁ってことで、仲良くしようよー」

 亜美は眼をまるくした。胸にキュンときた。心の隙間にドーンという感じだ。

「その心意気やようし! 今から、あたしたちはトモダチだあっ」

「やったー! それでは即席の友情を祝して――」

 直後、タイミングばっちりのハイタッチ。出会ったばかりでこの意気投合ぶりはどうか。

 とりあえず生きてみよう。なんとかやっていけそうだと、そう感じる亜美だった。

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