その1 リタ・ツマク
白月亜美――明朗快活な十二歳の少女。髪はややハネのあるショートボブで、頭の右上部を丸い髪飾りで留めている。服はモダンな黒の上着とミニスカートで、控えめな落ち着いたデザイン。
月白郷では、真白い満月がいつどんなときでも空に浮かんでいる。
水のせせらぎが耳に心地よいポプラ並木を、亜美がのんびりと歩いていると、燕尾服を着た猫の紳士が川辺で釣りをしていた。三半規管の病者しか訪れることのできないあの猫町からやってきたのであろうか。それともアタゴオルからだろうか。少なくとも人間サイズで二足歩行するのだからウルタールの猫でないことは確かだ。
「ネコのおじさーん、調子はどうでっすかー?」
亜美が呼びかけると、猫の紳士は振り向いた。縁の厚い片眼鏡をかけた柔和な顔だ。
「私と一緒に来るかね? お嬢ちゃんを、人間を釣る釣り師にしてあげよう」
どうやらイエス・キリストを真似ているらしい。あるいはツァラトゥストラか。
「あ〜、それはちょっと……遠慮しとくね」
苦笑いで断る。とりあえず、最初に「おじさん」と呼びかけてしまったあと、相手がちゃんと男だということに内心ホッとした。燕尾服を着ているからといっても猫である、紳士ではないかもしれないではないか。
今度違う猫に声をかけるときがあったら「ネコさん」とだけ呼ぶことにしよう。人間が人間に向かって「人間さん」と呼んだら変だけど、人間が猫のことを「ネコさん」と呼んでもおかしくはないのだから。
「なにを釣ってるの?」
「魚だよ」
「なーんだ、普通だね」
「猫が魚をもとめて何が悪いというんだい? 私はヒトに飼いならされてキャットフードなどというものを与えられて満足している堕落した同胞とは違うのだよ」
亜美はきょとんとした。「腹から?」と問おうとしたけどやめた。前後の脈絡から、仲間という意味なのだろう。
「うーん、それはネコによりけりじゃないのかな」
「猫は猫だ。猫でしかない。それゆえに、猫は猫らしく生きるべきだ。ありのまま自然のままに」
それが彼の哲学というものなのだろうか。よくわからない。
「むずかしいんだね」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。この先をしばらくいった坂道の上に建つ、カテドラル聖マリア大聖堂のあるリタ・ツマク教会の鐘の音だ。
「もうこんな時間か」
太い指先で、ピンと伸びた頬のヒゲをさする猫紳士。釣った魚を七輪の網に置いてその場で焼き始めた。次第に食欲をそそる香ばしいにおいが漂ってきて鼻腔を刺激する。
「お嬢ちゃんも食べていくかね」
「うっ……おいしそうだけど、あたし今日のお昼ごはんはどこで食べるか決めてるから、また今度」
ごくりとつばを飲んで我慢し、亜美は振り切るようにぱたぱたと駆け出した。
坂道を上っていき、左手にあるリタ・ツマク小学校を通り過ぎる。校内の各教室から、給食タイム特有のわいわいにぎやかな声が聴こえてくるかのようだ。そのまま進んだところで十字路に出た。右へ折れるとリタ・ツマク教会、左へ折れるとリタ・ツマク神社がある。亜美は直進して坂道を下った。
道が平坦になったあたりで足を休めると、右手に見えるリタ・ツマク公園で、お年寄りがベンチに腰をかけてひなたぼっこをしているのが眼に入った。近くの芝生ではアマミノクロウサギが跳ね、ハクビシンが上手に木登りしている。
なんとなく心がウキウキはずんでくるけどお腹もすいてきたので歩みを再開。馬車が行き交う大通りに出ると左へ曲がり、等間隔に花壇が配置されている歩道をひた走る。やがてノスタルジックな回廊状アーケードに到着した。リタ・ツマク月の出通り商店街だ。
中には入らず外周を進み、商店街に隣接する月白駅に足を向ける。
「おばちゃーん、カレーライスひとつー」
亜美が入ったのは駅前の小さな食堂だった。カウンター席に着くと、もうカレーの載った皿が置かれた。相変わらず客を待たせない速さだ。一緒に出される生卵をかけ、スプーンでよくかき混ぜてから口に運ぶ。彼女はカレールーを満遍なくご飯と混ぜてから食べる派である。
この食堂のメニューは各種うどん類と、生卵つきカレーライス、カツカレーだが、亜美はいま食べている生卵混ぜカレーが一番のお気に入りだった。
「ごちそうさま。んっふー、何度食べても飽きないおいしさ」
「いつもありがとね、亜美ちゃん」
「いーえいえ、とーんでもない! これからもがんばってね、おばちゃん」
透明なコップの水をぐいと飲み干して、気分ハレバレと店を後にした。
満腹になった亜美は少し足を伸ばして望月公園に移動した。リタ・ツマクで最も広大な公園で、東京ドーム十個分の面積はあるだろう。
緑あふれる広場では、老若男女さまざまな人や、二足歩行する人間サイズの猫たちが長閑な午後を過ごしている。木々のほうではエゾシカやエゾユキウサギが自然を謳歌するように佇む。この公園の中央には望月樹という巨木が一本生えており、シンボルと化しているのだが、そこへ向かう細道の途中、手帳を開いてメモをとっている一人の人間の後ろ姿を見かけ、亜美はドキッとして声を張り上げた。
「ケンジお兄ちゃんっ」
「おや……これは、亜美さんじゃないですか。こんにちは」
黒の学生服姿に白いマントをはおり、白い夏帽子をかぶって四角い眼鏡をかけた青年が、少女へと振り向いて穏やかに微笑した。彼の名前はKENjIといい、別の異境イーハトーブからリタ・ツマクをよく訪れている青年だ。
「こんにちは、お兄ちゃん。今日はなにを……って、またすてきな詩を考えてたの?」
「当たらずとも遠からず、といったところですか。僕はこうして、さまざまなものを目にして、思いを馳せるのが好きですから」
「お兄ちゃんの目には、あたしには普通にしか映らないものが全然違ってみえたりするんだよね? すごいなあ、憧れちゃうなあ」
「そんなことはありません。誰にでも、大地が人の思念と結びついていることを感じとることができるんです。君も例外じゃないのですよ」
優しい眼差しと話し方、静かな弓の弦を思わせる唇の笑み、そのひとつひとつが亜美の胸にあえかな光を燈していく。このひとは、なんて魅力的なんだろう。
「そうだといいなあ。えっと、お兄ちゃんは今日ずっとここに?」
「いいえ。午前中は月白学院に行っていました」
月白学院はリタ・ツマク公園付近の敷地にある大学だ。ルネサンス様式のオシャレな校舎が特徴である。
「ちょうどブランケット男爵が数日間の講師として招かれていてね、その講義を受けに行っていたのです。とても有意義で素晴らしいものでしたよ」
その名前は聞いたことがあった。エドワード・J・M・D・ブランケット男爵。アイルランドの黄昏の光の向こう側を覗けた人物で、われわれの知る野原の彼方という異境に住んでいるらしい。
「そうだ、確かHPL先生が絶賛してたおぼえがあるよ」
「HPL? 僕の知らない方ですね」
「あたしの知り合いなの。幻夢境ってところからたまに来てるみたいで、ここでは小説を書いたり、えーと……てんさく? のお仕事もやってるんだって」
「なるほど、一度お会いしてみたいですね。ああ、添削というのは他人の文章を修正する作業のことですよ」
「そうなんだー。はじめて知った。ところでお兄ちゃん、もしよかったら、お茶でも――」
そのとき、何の前触れもなく亜美の全身が霞んだ。みるみるうちに薄く透明化してゆく。
「あっちゃあ、もう向こうは日暮れみたい」
「どうやらお帰りの時間のようですね。また機会があればお会いしましょう」
微笑して手を振るKENjIに見送られ、少女はリタ・ツマクから消えた。
小学校の帰り道を親友の市原浪子と一緒に歩いている――のだということを亜美は理解した。今日は午後の体育の時間に、ちょうど真昼の月が浮かんでいた青空を見上げてリタ・ツマクを訪れたのだ。この現実に戻ってくるまでの自分のことが記憶に鮮明となってくる。
亜美は、オレンジに染まる夕暮れを少しうらめしそうに見やった。せっかくケンジお兄ちゃんと喫茶店でお茶でも飲もうと思ったのに。
リタ・ツマク。現実世界では月が白く見えているときにだけ訪れることのできる幻想地。
特異な理想郷で、他の様々な異境から繋がっているらしく、資質のある者なら誰でも来ることが可能だという。ただし、元の世界との往復はできても、別の世界への移動は無理とのこと。そういう理なのだ。
「それじゃ亜美ちゃん、またね」
「うん。なっちゃん、また明日〜」
交差点で手を振って別れ、亜美は横断歩道を渡る。
今度はいつ、リタ・ツマクへ行けるだろうか。いつ、お兄ちゃんと会えるだろうか。
そんな考えに没頭しながら歩いていると、後ろから親友の大声が耳に入った。
――亜美ちゃん、あぶない!
そう聴こえた次の瞬間、振り返ろうとした半ばで瞳孔に映ったのは、猛スピードで突っ込んでくる車。急ブレーキの音が響いた直後、激しい衝撃を受けて意識が宙に溶けた。軽い浮遊感を最後に、少女の思考はぷっつりと途絶えた。
「あいたたた……って、あれ、痛くない。んん、ここは?」
気がつくと見慣れた川辺にいた。わけがわからず川に近づき、水面に映る自分の姿を見て、思わず叫び声を上げて跳びはねた。無理もない、全身血まみれなのだから。
「あわわわ、なに、なにこれ、どうなってるの」
パニック状態で慌てふためいていると、
「きっと、お嬢ちゃんは元の世界で亡くなったのだろう」
聞き覚えのある声。涙目で振り返ると、釣り道具を手にした猫紳士が立っていた。
「ネコのおじさん! えっと、その、あたしがなくなったって……?」
「うむ。おまえさんは死んだんだな。そしてここが安住の地になったわけだ」
「なんだ、死んじゃったんだー、あたし。……んぇぇえええええっ!?」
鳶色の瞳を見開いて声を張り上げる。つまりはそういうこと。
白月亜美――享年十二歳。
こうして彼女は月白郷の住人となったのである。