踏みにじられた心
「ええと、ついこの間ぶりですね、ラディアーチェ嬢」
「そ……そうですわね?」
ジェラルド・バルトリはこの緊迫した場面にやや不釣り合いな、あの毒気の抜ける穏やかな笑みを浮かべた。
「ダリア様も挨拶が遅れました。ところで、二人ともどうしてこんな場所に?」
彼は若干大袈裟に驚いた様子を見せた。
「それにラディアーチェ嬢、土まみれになって一体……」
「誰だ」
凍えるような声で、近づいてきたジェラルドから私を隠そうとでもいうように、エヴァルド・ダリアは一歩前に出た。
「これは失礼。ジェラルド・バルトリと申します。以後お見知りおきを」
ジェラルドは流れるように礼をとると、ニコリと微笑む。
「アーダルベルト殿下が探してしましたよ、ラディアーチェ嬢。急にお姿が消えたので心配しました」
「殿下が? なぜ?」
疑うように凄む彼はさすがに近衛騎士とあって、半端なく怖い。しかしジェラルド・バルトリは動じる様子もなく肩を竦めてみせた。
「なぜって、新しい婚約についてですよ。ロランディ様との顔合わせがまだなのに、ラディアーチェ嬢があなたに連れられていなくなったものだから……」
「殿下には既に関係のないことだろう」
エヴァルド・ダリアは凍てつくような眼差しでジェラルドを見据える。
「それに先ほどラディアーチェ嬢はロランディ伯と話されていた。今は気分が優れず休まれているところだ」
エヴァルド・ダリアは悪びれる様子もなくいけしゃあしゃあとぬかしやがった。が、こんなぐちゃぐちゃの泥だらけで地面に横たわって休む令嬢がどこにいるのだろうか。
小一時間問い詰めてやりたい。
「おかしいな。ロランディ様はまだお話は済んでいない、と」
ジェラルドは飄々とした態度を崩すことなく、眉を顰めてエヴァルドを見据えた。
「殿下も自身の事情で解消されたのだからと、気にかけておいでです。……特に本日はラディアーチェ嬢がようやく療養から戻られてから初めての夜会。なにか不備があれば、殿下も黙っていないでしょう」
押し黙った彼に、ジェラルドはさらに畳み掛ける。
「これ以上引き留められるのならば、もう殿下もいらっしゃると思いますので、ご自身で状況の説明をされては?」
エヴァルド・ダリアは射殺しそうな目で暫く睨みつけてくると、そのままなにも言わず身を翻し去って行った。
「ふぅ……なんとかなりましたね」
ジェラルドは肩の力を抜くと、慌てて上着を脱いで掛けてくれた。
「かけつけるのが遅くなってしまってすみません。いつも冷静なダリア様があのような暴挙に出るとは思わず……」
「殿下が呼んでいるの?」
上着の前を握り締め、必死に髪の乱れを整えようとしている私に、ジェラルドは申し訳なさそうに瞼を伏せた。
「すみません。あれは、ダリア様に冷静になっていただくための言葉で」
「……そう」
今さらながら、手が震えている。
恐怖の中、一瞬でも殿下が来てくれるかもしれないなんてバカみたいな希望をもってしまった。……殿下が私のために動くはずなんてないのに。
ぶるぶる震えたまま腰が抜けて立ち上がることさえ出来ない私に、ジェラルドは痛ましげな視線を向けてきた。
ジェラルドは壊れ物を扱うかのようにそっと私を支えると、近くのベンチへと運んでくれた。
一言一言断りを入れながら、脱げた靴を履かせてくれたり髪を整えたりしてくれる。
「そこまでしてくれなくてもいいわ」
「ご令嬢にみだりに触れるのは無礼だともちろん心得てはいますよ。でも今回だけは見逃してくださいね。ほら出来た」
彼は私の髪を簡単に結い直すと、懐から出したハンカチで乱れた化粧をこすり落としていく。
近づいてきたヘーゼルの瞳を見る勇気がなくて、咄嗟に目を瞑った。
「ドレスの汚れはどうしようもありませんね……」
私から離れて立ち、思案するジェラルド。
「助けてくれたことには礼を言うわ。ですが、あなたには関係のないことよ。下手に顔を突っ込んでこないでちょうだい」
そのジェラルドをキッと見上げると、彼は珍しく笑顔を消し去っていた。
「そうは言っても今回は運良く切り抜けられましたが、次は上手く助けが入るとも限りませんよ。正式な婚約が決まるまでは、気をつけ過ぎるくらい警戒された方がよろしいかと」
その言葉に、思わず自嘲が漏れた。
殿下に婚約解消された後でも、いや後だからこそ、価値のなくなった女なりに使い捨てようとする男はいるらしい。
「ええ、今回のことで十分身に沁みましたわ。言われなくとも気をつけます」
私の表情に納得がいかなかったのか、ジェラルドは真剣な表情のまま視線を逸らさない。
「ラディアーチェ嬢は、自分の価値を正しく把握していらっしゃらない」
柔らかなジェラルドの声が、言い聞かせるように響く。
「あなたはもっと本当の意味で自分を大切にすべきだ」
……そんなこと、頭では分かっている。でも、それが簡単に出来てしまえるような器用な人柄ならきっとこんなに苦労してなかった。
私は『ラディアーチェ侯爵令嬢』として、『アーダルベルト殿下の婚約者』として過ごしてきた。それ以外の何者でもなく、全ては『アーダルベルト殿下のため』だった。
そのことに幸せを感じていたし、誇りをもって生きてきたけど――それを急に取り上げられて、置いてきぼりをくらったまま、心はいまだに全然ついていけてないままだ。
ジェラルドが上を向くと、淡いアッシュブロンドの髪が月明かりに照らされてキラキラと波打った。
「ラディアーチェ嬢、いっそすっぱりと諦めてみませんか」
月に向けられた穏やかな瞳を、呆然と見上げる。
「あなた以上にアーダルベルト殿下の婚約者として相応しい人などいないことは分かっています。そのためにあなたがどんなに努力していたのかも、みんな知っている」
ああ、なんで、この人は。
「でも、殿下はニコレッティ嬢を選ばれた。ラディアーチェ嬢、あなたはもう、殿下の婚約者ではなくなったんです」
人の事情にこんなにも簡単に土足で踏み込んできて。
「受け入れてみることも、一つの方法だと思いませんか?」
そして勝手に踏みにじっていって。
「うちの領主様はもう跡継ぎがいらっしゃいますが、ラディアーチェ嬢のことは必ず幸せにすると申していらっしゃる。ロランディ辺境領では静かで穏やかな日々が待っています」
めちゃくちゃに傷付けて、そしてそのことをわかっているくせに。
「ご子息も、ラディアーチェ嬢を傷付けてしまったことを深く反省している。今一度、会って謝罪したいと」
そんなにも穏やかに笑っていられるのだろう。
「領主様は、あなたに来ていただくのを楽しみにされているんですよ」
結局、私を助けてくれるヒーローはいないんだ。
私は……私は、私が思い描く幸せを手に入れたいのなら、
自分で勝ち取りに行くしかないんだ。