これからも続いていく人生
ここまでお読みいただいて、本当にありがとうございました!
そうしてエーベルを屋敷に迎えて、私たちにも平穏無事な日常が戻ってきた。
「セシリオ、一段落ついた?」
ノックして執務室の扉を開けてもらうと、執務机の向こうのセシリオは顔を上げてふわりと笑った。
「ああ、ヴィヴィ。もうお茶の時間か」
「ここのところけっこう根を詰めてがんばってたみたいだから。もし一区切りついたのなら、久しぶりに庭でお茶でもどう?」
「いいね、行こうか」
セシリオは凝った首をほぐすように肩を回すと、立ち上がった。差し出した手をとると、セシリオは私の歩みに合わせてゆっくりと進んでくれる。
「今日はエーベルがお茶の準備をがんばってくれているわ」
「そうか、エーベルが……」
セシリオは一瞬大丈夫なのかと不安そうな表情を浮かべたが、幸いにもそれ以上はなにも言わなかった。
広大な敷地を有するアルファーノ公爵邸の庭園、その一角にて、執事姿のエーベルがせわしなく働いて私たちのお茶の準備を整えていた。
「ご主人様、奥様。お茶の準備ができたよ」
エーベルは私たちを目に入れると、深々としたお辞儀を披露してみせた。
「……相変わらず彼に傅かれるのは違和感だらけだな」
苦笑に顔を引き攣らせるセシリオを尻目に、エーベルは意外と淀みない動作で無事にお茶を淹れ終える。
エーベルがなぜこんな使用人のようなマネをしているかというと――あれはエーベルを屋敷に連れ帰った日のことだった。
チリンチリンとベルを鳴らして従僕のピノを呼び、エーベルを客室に案内させようとすると、エーベルはそれを固辞したのだ。
『僕を客人扱いするのはやめて。なんにもしないままこのまま屋敷に居座り続けるなんて……考えただけでもそんなのごめんだ。それに客人のままだったら君のお世話もできないじゃない』
『……べつに使用人だからってあなたに私のお世話なんてさせるつもりは微塵もないけど?』
私とセシリオの半眼を気にすることなく、よりによってエーベルはピノに自分を使用人の部屋に案内するように言った。
『……奥様?』
ピノの無言の圧力が怖い。自分はいったいどうすりゃええねん。そう言いたげなピノの眼圧を避けながらセシリオを見上げると、セシリオはため息をつきながらピノに軽く頷いてみせた。
『……彼の好きにさせてあげてくれ』
それにピノは無表情の中に憮然とした色を浮かべると、仕方なくといった様子で嬉々としているエーベルを連れて行ってしまった。
どうしようもないなと言いたげにプラチナブロンドの髪をかきあげるセシリオの姿はかっこいいけど……たぶん途中でどうでもよくなっちゃったんだろうな、セシリオ。
というわけで、今のエーベルは使用人として思いのほかよく働いてくれている。あのピノの容赦のない無表情のしごきもまったく気にせずにマイペースに仕事をしている。さすがは図太いエーベルだ。その飄々さが意外とピノとの相性がいいのかもしれない。
「やぁ、ヴィヴィエッタ」
そこへ、今日は休日なのかエヴァルドがやってきた。
「……とついでにおまけのアルファーノ公爵殿。今はお茶の時間かな? ご一緒しても?」
「やあエヴァルド。まぁいいけど……」
わかっててご相伴に預かろうとこの時間にやってきたこちらも強かなエヴァルドに、セシリオから深いため息が漏れる。
「まぁまぁセシリオ、今日はエーベルがいるから」
彼にこっそり囁いて席に座るように促すと、セシリオは訝しみながらも大人しく隣へと座ってくれた。
エーベルはなにも言わずにエヴァルドの席を用意している。彼がエヴァルドの席にナフキンを置き、その横にナイフとフォークを置こうとして――一瞬の後、エーベルの手からナイフが滑るようにエヴァルドの方へと飛んでいった。
「……おい」
それを器用にもピッと持ち手を掴まえたエヴァルドが低い声を出す。
「今ナイフが飛んできたが?」
「おっと。これは大変失礼。手が滑っちゃってね。すぐに新しいものを用意するから」
エーベルはすました顔でエヴァルドに非礼を詫びるお辞儀する。
「……っと、こちらもすまないな。手が滑った」
その後頭部にエヴァルドは思いっきりナイフを投げると、エーベルは頭を下げたまま片手で掴み取るようにナイフを受け止めた。
そのまま顔を上げると、二人は真顔で睨み合うように見つめ合う。
「……なんだこれは」
「なにって……どう? ナイフ投げの大道芸よ」
私の言いざまにも引いたのか、セシリオの引きつった視線がこっちに向けられた。
「すごいでしょ。二人の技。本当に息ぴったり。ナイフに限らずなんでも絶対にお互いから外さないのよ」
「ナイフに限らずって、いったいなにを……いや、聞くのはよしておこう。……まあ、たしかに息ぴったりだな」
セシリオはそこでなにもかもどうでもよくなったのか、とうとうこらえきれないように吹き出した。
「っはは……にしても二人は本当に息ぴったりだ。君たちならどこのサーカス団に行っても通用するだろうね」
「おい。私は腐っても騎士だ。こいつと同じ扱いをするな」
「僕も今は使用人だけど。言っとくけど、君たち専用の使用人だよ! 間違ってもサーカスの団員扱いしないでよね」
セシリオは笑って力が抜けたのか、リラックスした様子でお茶を口にした。
「ま、私たちだけの大道芸って思えば、これもなかなか楽しいでしょ?」
私の強かな言い分に、セシリオは楽しそうな笑い声を上げた。
「……ヴィヴィエッタが喜ぶなら、もう少し貴様とナイフ投げの腕を磨いてもいいぞ」
「なに喜んでんのさ、変態。こんなしけた方法でご主人様を喜ばすなんて僕はごめんだね。僕はもっと紳士的にスマートに、彼女に貢献したいんだ」
「ヴィヴィエッタに仕える使用人か……それもいいな」
「君にはこの立場、絶対にあげないけどね〜。奥様のお世話係は僕だけの特権だからね!」
「……おまえほど腹立つ人間を今まで見たことがないな!」
口論の末にまた二人でナイフ投げを始めてしまった様子を、セシリオと二人微笑ましく見守る。
私の周りには随分と変わった人ばかりが集まってしまったけど、でもそんな毎日も悪くない。
私は私、物語から外れてしまった悪役令嬢らしく、今日も毎日を楽しんでいる。
――ある日の夜会。
今日も今日とてアリアンナたちと社交界の噂話について交換し合っている最中。ふと遠くからふわりと私の耳に自分の名前が飛び込んできた。
「……ヴィヴィエッタ・ラディアーチェ……悪役令嬢が……」
遠すぎてほんのふわりとしか聞こえなかったけど、それはたしかに“悪役令嬢”という言葉だった。
「……アルファーノ公爵夫人って……なんか攻略対象でもない貴族と……」
「……アーダルベルト殿下も……エーベルも……」
詳しくはよく聞こえなかった。ただ、ちらりと聞こえた名前に耳をそばだててしまったのは、半ば反射的な反応だった。
「ヴィヴィエッタ様、どうなさったの?」
振り返った私に気づいて隣のアリアンナが訝しげに声をかけてきたので、それに頭を振る。
「いえ、なんだか噂話をされている気がしたのですけれども、わたくしの気のせいかしら」
「まぁ、嫌ですわね。くちさがのない品のない者たちは」
自分たちを棚に上げてねーっと相づちを打ち合っていると、セシリオが近づいてきた。
「ヴィヴィ」
満面の笑みのセシリオに手を差し出され、ダンスを乞われる。
「お話し中に失礼。愛しの妻との思い出の曲が演奏されたので、どうしても妻とダンスがしたくなりまして」
そうお茶目な笑顔ではにかむセシリオに、周りのご夫人たちが色めき立つ。
たしかにこの曲は、私たちが夜会で初めてダンスを踊った曲だった。セシリオもよく覚えていたなと思う。こういう一つ一つの小さな思い出たちをないがしろにしないところが、セシリオの素敵なところだ。
「まぁ……アルファーノ卿ったら相変わらずの溺愛ぶりね。いってらっしゃいな」
心なしかニヤついていなくもないアリアンナの笑顔に快く送り出されて、私たちはフロアへと歩み出る。
「どうしたの? 今日はいやに過保護ね」
「……いや、ちょっとね」
私のことになると見境のない過保護になるセシリオを、にっこりと笑いながら見上げる。
「少し、君と奴の噂をしている者がいたから……」
セシリオが聞いた噂というのが、先ほど私も耳にしたものだろうということはすぐに推測できた。
「“悪役”令嬢などと、人を形容するには些か無礼な言葉だとは思わないか?」
セシリオは笑っていない笑顔を浮かべて、辺りを見回している。
「どちらがよほど“悪役”だったか、捕まえて懇切丁寧に教えてあげたい気分だけどね。でもこの曲をまた君と踊りたくなったのも事実なんだ」
「まぁ嬉しい。噂なんて気にしなくても大丈夫よ。少なくともあなたの手を取るようなものじゃないわ。安心して、私はアルファーノ公爵夫人として痂疵のあるようなことはもうしてないから」
「ヴィヴィ」
自虐を込めてそう返すと、セシリオからたしなめるような声が出た。
「俺がそういった意味で心配していると、君は本気で思っていると?」
「いえ、いいえ。まさか。ごめんなさい」
慌てて謝ると、セシリオはぐいっと私を引き寄せた。
「君にどんな噂が立とうと、俺は本当の君を決して見失わないよ。それにもしも故意に君を貶めようとして、あることないことを言いふらす奴がいたら……」
「もちろん、こてんぱんに叩きのめす、のよね? そんなの私だって容赦しないわよ」
貴族の夫人にあるまじきあけすけな言葉遣いに、セシリオはにやりといたずらっぽく笑ってしっとジェスチャーを寄越してきた。
「いつまでも心強い奥さんだな、君は」
「あなただっていつまでも過保護で優しいご主人ね」
ちらりと風の噂のように耳に入ってきた言葉のことは、それきり気にならなかった。
ただ夢のように輝く舞踏会の中で、今は心から愛する人に身も心も委ね、その甘く蕩けるような笑顔を見上げて微笑んだ。
これにて完結とさせていただきます!
大変時間がかかってしまい、お待たせしてすみませんでした。
ここまで足を運んでくださったすべての皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました!




