もう一つの地獄
セシリオは一旦別の応接室で待ってもらうように告げられ、私だけがシスターマルタに連れられて行った先。
さっきとは一転、薄暗い地下に続く石階段を降りていく。かすかに響く悲鳴を運ぶ生暖かい風に揺られながら、シスターはゆっくりと歩を進めた。
ここは代々ケインズ医師の家系が経営している修道院だ。上階にはちょっとした入院施設もあり、そこでエーベルのお母様のことは見ていただいていた。
反してこちらは地下の薄暗い病室になる。わずかな明り取りの窓から差し込む日の光は弱く、あまりにも心もとない。不気味な声しか響いてこないのもあって、まるで同じ建物とは思えないほどの薄暗さだった。
「彼女の様子はどのようでしょう?」
シスターは私の問いかけに、静かに首を振った。
そのまま再び無言で足を進める。
「……こちらですわ」
一番奥の部屋。まるで牢獄のように鉄の格子で仕切られた部屋で髪を掻きむしり呻いては身悶えているのは――すっかり変わってしまったモニカ・ニコレッティだった。
このような部屋に入れられているのは、彼女を含めもう手遅れになった者たちが幻聴や幻惑に惑わされ、苦悩のあまりに自らを傷つけたり、命を断ってしまったりしないように見張るためだそうだ。
「モニカ……」
思わず呟いてしまった囁きに、モニカはハッと顔をあげるとすごい勢いで近寄ってきた。
「ねぇ……私の“神の涙”はどこ!? さっきからずっと探してるけど、どこにもないの。私、あれがないとダメなの、私……本当にダメなのよぉ……いつまで経ってもあの人と私を比べる声が消えないの。お願いだから私を助けてちょうだい、助けて、“神の涙”を……」
あんなに輝いていた桃色の髪は灰色に汚れてバサバサに乱れて、顔には幾筋もの泣いたあとがそのまま残っている。
まるで亡霊のように朧げになってしまったモニカを見つめる。
その“あの人”が目の前に立っているというのに、モニカはそれに気づく様子もなく必死に私に強請っている。
「懸命に治療を続けましたが……モニカさんの場合、一度の使用量がかなりの高濃度であったことと、そしてその使われ方を頻繁に繰り返したためか……なかなか回復は難しく、夜中に叫び出すことも多々あって、他の方々も怯えてしまってはもうこちらに移っていただくしかなく……」
シスターはまるで懺悔でもするかのように、モニカに向かって再び頭を垂れた。
「なんであの人と比べるの? なんでできないことをそんなに笑うの? 私がなにしたっていうの? 私はただ、アディと一緒にいられればよかったの……アディ? アディはどこなの? “神の涙”はどこ? 誰か……誰か、助けてください……“神の涙”を持ってきて……!」
事前にシスターマルタから聞いていた話だが、モニカの症状から薬の使われ方を推察するに、おそらくもうモニカの寿命はそんなに長くはないそうだ。アーダルベルト元殿下はおそらくそれをわかっていて、そのつもりでモニカに“神の涙”を使っていた。そしてそのときがきたときは、彼もすぐに後を追うつもりだったのだろう。
散々自分たちの好き放題やりたい放題やらかしておきながら、そうやって最後なにもかもを放り投げて死に逃げるなんて、つくづく自分勝手もたいがいにしろと言いたくなる。
言いたくなるのに、言いたかったのに、さすがに目の前のモニカの様子を目にして、そんな言葉を吐く気にはならなかった。
今目の前にいるモニカはやせ衰えて、爪もひび割れている手を必死に伸ばして、そうしてあんなに怯えていたはずの私に縋りついてくる。壊れた蓄音機みたいに神の涙、神の涙とそればかりを訴える彼女に、気づけはぽつりとこぼしていた。
「私は……あなたが羨ましかった」
そうだ。私はモニカ・ニコレッティが心底羨ましかった。
「あなたはなにもしなくても簡単に人に好かれて、」
なにも努力しなくても美しい容姿は簡単に人々を虜にしたし、必死に勉強しなくたってマナーの練習をしなくたって、いるだけでまるで花のようにたくさんの人の目を惹いた。
「簡単に私からアーダルベルト殿下を奪って、」
それでもあなたは私の今までの努力と比較されて笑われたからって、簡単に奪ったそこから簡単に逃げ出したいって言うのね。
「……」
いつの日かつい見惚れた、晴れた春の空のような明るいスカイブルーの瞳は、こんな薄暗い所で見たところで間近で見たって何色か全然わからなかった。
「あなたはあなた、私は私、決して他人にはなれないのよ……」
だからこそ前に進むために、自分であることをもっと誇るために、私は私であるために私は努力し続ける。
それ以上彼女にかける言葉も見つからず、私は永遠に手に入らないものを懇願し続けるモニカにとうとう背を向けた。




