愛に溢れた場所
公務から帰ってくると、セシリオ自らが私を出迎えてくれた。
「おかえり、ヴィヴィ」
艶のあるプラチナブロンドを丁寧に撫でつけた愛しい夫は、今も昔も変わらない透明なシルバーの瞳を淡く笑ませて、迎えるように腕を広げてきた。
「ただいま、セシリオ」
その腕の中にそっと飛び込むと、ふんわりと抱きしめてくれる。
ここ数年でセシリオはもうどこからどうみてもアルファーノ公爵として恥じないような、立派な貴族として成長した。公務や領地経営の腕は言わずもがなもう他の貴族にも引けをとらないし、それに元々の繊細な美貌にはより磨きがかかり、細身に見えて筋肉のついた体はなにを着ても様になり、優雅な立ち振舞いも板についてどこから見ても美貌の貴公子そのものだ。
いまだにその淡いシルバーの瞳に熱を乗せた眼差しを向けられるだけで心臓が音を立て、涼やかな声が私の名前を呼ぶだけでどうしようもなく浮かれてしまうほどには、わたしも大概彼にまいっている。
そしてそれは決して私だけではなくて、社交界に出ればますます磨きのかかった美貌は噂の的になり、その紳士的な態度も相まってご婦人たちからの人気が高く、セシリオとのダンスの順番で列ができるくらいだ。
それでも私がセシリオからの愛を疑わずにいれるのは、彼の目はいつもまっすぐに私に向けられているから。
いつだってセシリオは私のことを想ってくれている。
それにセシリオは社交界一の愛妻家として知られている。自他共に認める筋金入りの愛妻家だ。夜会かなんかでそれをちょっとでもからかわれでもしようものなら、反撃とばかりに恥ずかしげもなく自分の奥さん――つまり、恥ずかしながら私だ――自慢を始めてしまう。……おかげで私も奥様方から随分と気安く話しかけてもらえるようになった。
それほどまでに内外に示された愛情表現に、疑う余地など微塵もない。セシリオはちゃんと私を見てくれる。愛してくれる。愛を受け止めてくれる。……抱えきれないほどに差し出される大きな大きな愛情に、私はもう随分と前から救われている。
今日だって、定期的なアーダルベルト元殿下との面会で私が疲弊して帰ってくるだろうと知っているから、こうやって面会日にはいつも、セシリオはどんなに忙しくても自ら私を出迎えてくれる。
「君のためにとっておきのティータイムを用意してるんだ」
セシリオはそう囁くといたずらっぽく笑う。
見た目がどんなに洗練されたって、どんなに貴族らしくなっていったって、根本的なところはあのヴェルデ領にいたころのセシリオだ。そしてその事実は私一人が知っている。
「あら、それはとても楽しみだわ」
「それじゃあお手をどうぞ、愛しい私の奥さん」
どこか芝居がかった仕草でスマートにエスコートを請われ、クスクス笑い返しながら手を差し出した。
セシリオはいつものように、自らが剪定し管理している秘密の庭――私たち二人だけの庭園に案内してくれた。
広大な屋敷の庭の端にひっそりと佇んでいた古ぼけた木の扉はセシリオ自らが色を塗り直して、今ではピカピカのきれいな扉に生まれ変わった。油を差して滑らかになった蝶番は音も立てずに動き、私たちが私たちでいれる場所へと密やかに誘う。
あんなに雑草で荒れ果てていたそこも、今は見違えるほど手入れの行き届いた立派な小庭となった。
相変わらず雑多に植えられた花々はとりとめもないけれど――その中でもヴェルデ領から分球してきたクロッカスだけは、自分が主役だとばかりに元気よく咲き誇っている。
セシリオに手を引かれるまま奥の四阿へと進むと、そこにはすでにお茶の用意が出来ていた。シンプルな皿に並べられていたのは、ヴェルデで食べた素朴なクッキー。ほろりと口の中でほどける食感が大好きで、そんな私のためにセシリオに仕えていたヴェルデの使用人の方がわざわざ作りに来てくれたのだ。
洗面ボウルで手を洗ってからクッキーを一つつまむと、パクリと口にいれる。いつものほどけるような食感に、自然と笑顔になる。そんな私に彼も笑いながらクッキーを一つ口へと放り込む。
この場所を自分たちだけの庭園にすると決めたとき、セシリオと約束した。
『ねえ、セシリオ』
私を見下ろしてきたあの日のセシリオ。眩しいくらいに降り注いでくる太陽の光にプラチナブロンドの髪が透けて、まっすぐに注がれる視線は灼けるように熱かった。
どんなに繊細に身のこなしが研ぎ澄まされようとも、どんなに美貌に磨きがかかろうとも、これだけは忘れないと思ったし、セシリオにだって忘れてほしくなかった。
『今の貴族として凛と背筋の伸びたあなたも大好きよ。だけど私はヴェルデで出会ったあのときの、あの瞬間のあなたにも恋したの。こうしていると、ときどきあのころのあなたに無性に会いたくなる……だからここでだけ、ここにいるときだけ、あのころのあなたに会わせて。ありのままの私を受け入れてくれた、相変わらず大好きなあなたに会える場所。ここはそんな場所にしたい』
あのとき、私の言葉に力強く頷いてふわりと微笑んだセシリオの笑顔は、今も私を支える大事な根幹となっている。
そしてセシリオはそんな私にこんな言葉をかけてくれた。
『もちろん、ヴィヴィエッタ。君が望めばいつだって俺はヴェルデにいた、あのころの俺を思い出そう。君もここでは何者でもないヴィヴィエッタに戻ってくれ。この庭ではそのことを咎める者なんか誰もいない。ここには俺たちしかいないのだから』
どんなに貴族らしく振る舞おうとも、お茶会や夜会の振る舞いに慣れようとも、その原点にあるのはあの日あの青空の下、黄金の麦穂に囲まれて過ごした私たちだ。
人はいずれ成長し、変わり、いつかは前を向いて進んでいく。それでも決して忘れられないあの日々を心に抱いて、私たちはときおり懐かしむようにここへと帰ってくる。
もう一つクッキーをとって差し出すと、セシリオは少し頬を染めておずおずと口を開けた。そこにクッキーを放り込む。
いつまでたってもこういう行為は照れが先行してしまう。淡く微笑んだセシリオは自分も一つクッキーをつまむと、私のほうに差し出してきた。パクリと口で受け取って、それぞれの行儀の悪さに笑い合った私たちは、クッションの置かれた四阿のベンチへと腰をおろす。
「彼の様子はどうだった?」
隣に座ってきたセシリオにお茶を注ぐ。ぞんざいな手つきで注いだお茶は、初めての邂逅を連想させる。ヴェルデの荒れた庭で初めて私が本音を漏らした日。ただの他人の悪役令嬢の弱音を、なんでもないようにセシリオが受け止めてくれた時間。
頭一つ分高い隣の彼を見上げると、あの日とまったく変わらない優しいまなざしで、セシリオは見返してくれた。
「……相変わらず」
詳しいことは守秘義務があるので他言できない。それがわかっているからこその端的な質問に、私も肩を竦めながら端的に返す。
――まるでずっと、時が止まってるみたいだった。
まるでじゃなくて、たぶん本当にそうなのだろう。歩みを止めた彼はおそらくそのまま、もう動き出すことはないのだろうというような、確信めいた予感はもうずっと感じていた。おそらく陛下だってそれはわかっている。
それでも彼の言葉を取らせようとするのは、彼の世界に土足で私を上がり込ませるのは、それが陛下が彼に課した咎なのだろう。自分の罪を認めて贖罪するまで決して許されない罪。なによりもアーダルベルト元殿下にとって永遠の拷問に近しいことだ。決して時の進まない、いつ終わるのかも分からない、決して二人きりになどなれない世界。
「あ、でも、エーベルは元気そうだったわ」
暗い雰囲気に沈み込む前に、話題を転換する。
「出てくる日にセシリオと迎えに行くって言ったら、喜んでた」
「彼は自分の国に帰らなくてよかったのか」
「それは……陛下が言うには、大丈夫みたい」
仮にもアーベントロートの王家の血筋であるエーベルが我が国で罪を犯して、そのために勾留されている事実を彼の国にどう伝えたのかは知らないが、当時のアルブレヒト陛下はそれはもう何度も何度もアーベントロートと対話を重ねて、どうにかなんとか向こうの国と渡り合ってうまいこと今の形にまとめ上げた。その結果エーベルは国外追放に近い形になっていて、牢から出てきたところで行く宛もないから、当分は約束どおりにうちで面倒を見てほしいという流れになっている。
「そうか……彼がそれでいいなら、俺からはなにも云うことはないよ」
喜ばしいと笑顔を浮かべるも、なんとなく複雑そうなセシリオ。
「どうしたの?」
それでもセシリオが複雑そうに考え込んでいるものだから、その顔を覗き込む。
「そんなに祖国に帰れないのが心配なの?」
優しいセシリオのことだから、自国へと帰れないエーベルの身を心配しているのかもしれない。
「いや、それは本当に彼がそれでいいのなら、外野からとやかく言うつもりはないんだ。ただ、」
セシリオはふいにぐっと顔を近づけてきて、低く声を落とした。
「エーベルは心底君に惚れている。そんな男をわざわざ屋敷に迎え入れようなど、自分のことながらさぞ懐の深いことだと思ってな」
皮肉めいたその物言いに、私は思わず吹き出した。
「エーベルが私に惚れてるって? まぁ結果的に助けた形になったわけだから好意くらいはもたれてるかもね。てか少しぐらいは好感度上がってないと、それはそれでちょっとイラッとくるわよね……でもあなたは知らないだろうから教えてあげるけど、彼は私のこと、頭お花畑の傲慢お貴族だのあけすけさが庶民まるだしだの、散々に言ってくれたんですからね!」
「君は元婚約者のせいで自分に対する評価が厳しいけど、」
セシリオは喉の奥でくつりと笑ってどこか諌めるように私の両頬に手を当てた。
そうされるとセシリオの表情がよく見えた。いつも穏やかな瞳の奥からぐつぐつとなにかが湧き上がっていて、低く抑えられた声は荒げられたわけでもないのに、普段隠されている男性の部分を嫌でも感じさせてきた。
「それこそまさしくエーベルが君に甘えている証拠だよ。実際に彼は君のために体を張ることも厭わないくらいには、君の本質に惚れ込んでいる。彼にとって君が誰を見ていようと関係ない。彼は君の役に立てるのなら、それで幸せだからだ。……彼の目にはもう随分と前からヴィヴィしか映っていない。彼は君がどう言おうと自分のすべてを君に捧げるつもりだろう」
「なっ……」
「今から先が思いやられるよ……だからといって負けるつもりは決してないけれど。ヴィヴィの一番は絶対に譲らない。俺の奥さんは君にしか務まらないし、君の夫は未来永劫この俺が務めさせてもらう」
優しいけれどどこか力強い腕でぐいっと腰に手を回される。
私を捕まえようと伸ばされたもう一方の手はそっと顎に添えられて、よそ見は許さないとばかりに視線を合わせられた。
「もしもよそ見なんかされたら……俺は自分がなにをしでかすか怖くてしょうがないよ」
「そんなこと。私がすると思ってるの?」
頬を膨らませると、セシリオは声を上げて笑った。
「いいや、思わないな。だってヴィヴィはいつでもまっすぐに俺を見てくれるから」
またヴェルデに閉じ込めたいとでも言うつもりだったのだろう。仕返しにちょんとおでこにキスを贈ると、不意打ちを受けたセシリオは目を見開いたあとに、いっそう大きな笑い声を上げた。




