愛に囚われた男
アーダルベルト元殿下は冷たく顔を凍りつかせたまま、冷えた声を出した。
「また君か。また邪魔をしに来たのか」
「アーダルベルト様。わたくしがここに来るのは他ならぬアルブレヒト陛下の命によるものですわ。決してわたくしの個人的な気持ちで来たわけではありません」
「言い訳はいい。君に話すことなどなにもない。帰ってくれ。二人の時間を邪魔しないでくれ」
「そういう訳にはまいりません。あなたは自分がしでかしたことの罪を認め、それを償わなければならない。それが終わるまではわたくしは何度でもここを訪れなければなりませんし、陛下もそんなことはお許しにはならないでしょう」
アーダルベルト元殿下は忌々しげに舌打ちをした。それに舌打ちをし返してやりたい気持ちを我慢する。
これはあくまでも公務の一環、私しか彼とまともに会話できないからこの役目を任されたのであって、そこに私情を挟んではいけない。
――皮肉なことに、彼は彼と愛するモニカだけの世界を作り出したはずなのに、そこには誰も入り込めない、誰が話しかけようとも彼にはモニカの声にしか聞こえない、誰を見てもそこにはモニカの幻影しか見えていないはずなのに、なぜか私だけが彼の世界にやすやすと入り込めてしまえるのだ。誰の声も届かなくなってしまった彼と唯一言葉を交わせるのが彼から唾棄されている私だなんて……これはいったいどんな皮肉だろう。
「今日こそ聞かせてもらいますわ。あなたはなぜ陛下を裏切り、王族としての義務を放ってまで“神の涙”に手を出したのでしょう」
これは無論、個人的に問いかけているわけではない。最初はもちろんバルトリ文官の尋ねるそのままを通訳するように彼に話しかけていた。だがこうも年単位で繰り返しているとさすがにその内容も覚えてしまう。
毎度繰り返される問いかけに彼はギリギリと唇を噛み締めると、もう我慢ならないといったように髪を掻きむしった。あんなにきれいに整えられていた自慢のラディッシュはもう見る影もなく、パサパサと毛羽立ったままあちこちに飛び跳ねている。
「あなたはモニカとの自分勝手な愛を貫くためだけに禁忌とされる妙薬、“神の涙”に手を出し、それを製造した」
「うる、さい……」
「そしてあろうことかそれをモニカに使用し、彼女が自分から離れていかないようにコントロールした」
「っ、うるさい……!」
「あまつさえ製造した“神の涙”を隣国の商人との取り引きに使用し、販売していた。これは事実ということでよろしいでしょうか」
「うるさい……! うるさい! うるさいうるさいうるさい……!! もう黙ってくれ……!」
床に蹲るように頭を抱えたアーダルベルト元殿下は、激しく頭を振った。
「君がいるとモニカが怯える、逃げるんだ! こんなに怯えて震えているモニカの様子がわからないのか! お願いだから一刻も早く私の目の前から消えてくれ! じゃないといつまで経ってもモニカと二人きりになれないだろう……!」
「何度言われたってそれはできませんわ、アーダルベルト様」
私の平坦な声に、彼は絶望の表情を浮かべて私を見上げる。
「わたくしはアルブレヒト陛下の命でここにいるの。あなたの一存でそれをどうこうする権利はあなたにないし、あなたが自身の罪を認めない限り、わたくしはこの先もずっとあなたに会いに来なければなりません。それに……」
アーダルベルト元殿下は制止をかけようと口を開いたが、私の言葉のほうが早かった。
「わたくしがいようといまいと、あなたはもう二度とモニカとは会えないのよ」
幾度となく繰り返した言葉を口にする。もうなんの感慨もないその言葉は、今ではいっそ哀れにも感じる。それくらいどうしようもない言葉だったが、彼は絶望に打ちひしがれるように表情をなくし、床に蹲って動かなくなってしまった。
「…………」
深いため息を吐き出した私に、入り口のところで見張っていたエヴァルドが反応する。バルトリ文官は私たちの様子を見て、穏やかな微笑みという表情をピクリとも変えないまま、「今日も収穫なしですね」とさっさと立ち上がると先に退室してしまった。
床に蹲ったまま動かなくなってしまった彼に一瞥をくれる。
彼はもう二度と彼の望む日常には戻れない。愛する人と二度と会うこともできない。彼はもうここから出られない。生まれながらの権力も、この国の王族という肩書きも、兄からの信頼も臣下からの敬意も最愛の人との至上の愛もなにもかも、彼は失ったままもう二度と取り戻すことはない。
肉体が没するまでの長い生涯を一人ぼっち、まるで死んだように生きていく。それはまさに彼にとって、これ以上ない罰だった。
塔の最下層、地上まで戻るとバルトリ文官はすでに馬車へと戻っていったあとだった。私にはもう一人、面会する予定の人がいる。それがわかっているからバルトリ文官はなにも言わずにいつも馬車の中で待っていてくれている。
エヴァルドによって開錠された一階の扉の向こうは、比較的清潔に整えられた面談室だった。エヴァルドと交代するように見張りの騎士が後方の扉の外へと出て行く。その様子を見送って、エヴァルドが目の前の扉の鍵を開ける。出てくるなり嬉しそうに顔を綻ばせた彼は、エヴァルドの指示に従って目の前のイスに腰掛けた。
「会いに来てくれて嬉しいよ、ヴィヴィエッタ」
相変わらず飄々とした彼――エーベルは、しかし邪気のない無邪気な笑顔で私の面会を喜んでくれた。
「ベラドンナが騒ぐ声が聞こえて、ああ今日は君が来てくれる日だってわかったんだ。だから急いで面会の準備を整えたよ。君にはあまりだらしない格好は見せたくないからね」
ウインクでも飛んできそうな上機嫌さでエーベルはそう言うと、いつものあのカラカラとした笑い声を上げた。
「もうすぐね」
どこまでも図太く構えている彼がどこかおかしくて、目を細めながらそう声をかける。
エーベルは約束どおり、彼が今まで関わってきた“神の涙”のすべてにまつわる話を自供してくれた。
ベラドンナとの出会いから、彼女の元で仕えるようになった経緯。彼女が構築していた“神の涙”の裏販売ルートに、それに関わった数々の仲介人。ベラドンナの後ろ盾である提携者や資金提供者の暴露。
ベラドンナから得られなかったありとあらゆる証言が得られ、またそれを裏付ける証拠も示され、ベラドンナの事件に関する解明は大幅に進んだ。
また彼は今回のアーダルベルト元殿下が引き起こした騒動に関する証言・証拠もすべて提出してくれたので、エーベル自身の“神の涙”に関する罪に対しては情状酌量の措置が取られた。
そして彼は実に敬虔に贖罪の日々を送っていた。自分の行いを懺悔し、日々を粛々と送り、その模範的な態度も斟酌され、この度釈放の日にちが決まったのだ。
「その……あの人の調子はどう?」
ここに来ると決まって繰り出される質問に、私は安心させるようににっこりと微笑んでみせた。
「安心して。前向きによく頑張っていらっしゃるわ。あのケインズ医師もその頑張りに感嘆の賛辞を送っていたくらいよ。まだ……今すぐに元通りとまではいかないけれど、でもこの間は修道院のバザーに出すためのサシェ作りも挑戦されていたみたいなの。できあがったものを見せていただいたけれど、とてもお上手なのね」
「そっか……」
エーベルは安心したように体の力を抜いて、フゥと後ろにもたれかかった。
「そっか……よかった……」
そしてエーベルは屈託なく笑った。きらりと光ったシトリンの目を細め、彼はまるで泣いているような奇妙な表情で笑った。
「まさか……こんな日が来るなんて夢にも思わなかったよ。嘘みたいだ……」
「嘘じゃないし、夢でもない。これはあなたが起こした行動に対する事実よ。あなたが自分で掴みとった“今”なの」
「それでも、あのときあそこで君と出会わなければ、今ごろ僕は……」
エーベルは頭を振った。ちらりと瞳に過った薄暗い影に気づいたけど、エーベルはいつもそれ以上のことは話したがらないから、私も無理には聞かなかった。
「……またすぐに迎えに来るわ。そのときはセシリオも一緒に」
「ああ、彼にもぜひお礼を伝えておいて。それから」
面会の時間が終わろうとして立ち上がると、エーベルから呼び止められた。
「ここを出たあとは約束どおり、僕の人生は全部君にあげるよ」
なんの躊躇いもなくエーベルはそう言うと、固まっている私をどこか面白そうに眺めたあと、立ち上がって自ら充てがわれた牢の向こうへと帰っていった。
扉の鍵を閉めるエヴァルドの手つきはどこか乱暴で、小さく舌打ちまで聞こえてきたけど、そんなことは今は気にはならなかった。
――あのとき、エーベルと一世一代の大取り引きを交わしたとき、エーベルは一つ条件を突き出してきた。
『“神の涙”に関するすべての罪を雪いだあとは、行く宛のない僕の身柄を君が保証してほしい』
……とたしかこのような言い分だった気がする。だから釈放後の身の預所はアルファーノ公爵が保証するようにしていたのだけれど……。
「人生すべてをあげるなんて、そんなこと言ってたかしら……?」
しかしそれを確かめる相手はとうに牢の中に引っ込んでしまい、確かめる術はない。私は頭を捻りながらもその場をあとにするしかなかった。




