そして今ここにある事実
――数年後。
あれから私は無事にセシリオと結婚することができ、今はアルファーノ公爵夫人として多忙な日々を送っていた。
ようやく軌道に乗り始めた領地の管理に邁進する愛しい夫を隣で支え、私自身もアルファーノ公爵家の威厳を保つべく屋敷の管理を徹底し、そして相変わらずやれお茶会だやれ夜会だのと貴族とのコネ集め・情報収集に忙しない毎日を送っていた。
その中でも、特別に陛下――あの後すぐに前王は度重なる心労にて崩御してしまい、今はアルブレヒト殿下が王冠を戴いている――に拝命頂いた公務がある。
今日はその公務の日に当たり、私は朝から王城行きの馬車に揺られていた。
王城に着くといつものように担当として派遣されたバルトリ文官――なんと、ジェラルド・バルトリのお兄さんだった……!――と落ち合い、用意された馬車へと乗り換える。王城内専用の馬車は私たちを乗せたまま、城の裏手に人工的に作られた森の中へと進んでいく。誰も立ち入らないだろうそこをしばらく進んでいくと、やがて開けたところに一基の古ぼけた塔が現れた。
「ヴィヴィエッタ!」
馬車を降りて軽くスカートを整えていると、嬉しそうに声をかけられた。
「エヴァルド……」
相変わらず私が結婚してもいっこうに目の覚めないエヴァルド・ダリアだった。
「何度も言うけど、私のことはアルファーノ公爵夫人と呼ぶようにと……」
「またこうして会えて嬉しいよ、ヴィヴィエッタ」
人形のように整った顔をわずかに綻ばせて塔の入り口の番人をしていたエヴァルドが、隣の文官ガン無視で場違いなほどのテンションで話しかけてくる。
全然私の言うことを聞いてくれない彼に小さく舌打ちで返すと、彼はそれにさえも嬉しそうな顔を返してきた。
エヴァルドはここ数年で更なる変態度が増してきていて、もうどうしようもないところまできてしまっていた。まったく結婚に興味もなく、栄えある近衛騎士の役職も辞退して、なんと確実に定期的に私と顔を合わせることができるからという理由でこんな寂れた塔の番人に志願したのだ。そしてその仕事が今までで一番充実していると平気で宣う有り様だ。
私なんかとっくに人妻になったというのに、本当にどうかしている。
隣にいるバルトリ文官はいつものこととばかりに、気にもせずに突っ立っている。視線で助けを求めると、兄弟そっくりな文官様は濃いアッシュブロンドの髪を揺らしながら、にっこりと笑みを浮かべた。
「騎士ダリア。いつもの聴取の時間です。案内をお願いいたします」
食えない笑顔まで兄弟そっくりだ。心の中でこれからの時間にため息を吐きつつ、扉の鍵を開けてくれたエヴァルドへと続いた。
薄暗い塔の中は壁に沿うように螺旋階段が張り巡らされており、中心部は堅牢な牢となっている。――つまりここは、昔から貴人専用の牢屋として使われてきた建物だった。
エヴァルドの案内で、行き慣れた塔の中を登って行く。途中、半ばの階で一つだけ奇声の響く牢がある。その前を通った瞬間。
「シィィィーザリィオォォォォッ……!」
耳をつんざくような甲高い女の悲鳴が上がったかと思うと、気が狂ったかのようにバンバンバンと扉をやたらめったに叩きつける音が響いた。
「シーザリオォッ! シィーィザリィオォォォッ!! ああ嬉しい、今日こそ、今日こそ私に会いに来てくれたのねっ! ずっと待ってたわっ! あなたは私から離れられないって私、わかってたもの! ああシーザリオ、早く会いたい、ねぇ、じらさないで今すぐここから出して、そして愛しいあなたの顔をよく見せて? ああシーザリオ、どうしてなにも言わないの? こんなにもこんなにもこんなにも私はあなたを欲しているというのに……ねぇ……シーザリオ……シィィィーザリィオォォォォッ!? そこにいるんでしょうっ!? ねぇ返事をしてっ! ヘンジをシテェェェッ!!」
牢の前を通り過ぎると、かつての王妹の叫び声は段々と小さく聞こえなくなっていく。
初めて来たときはそのあまりの発狂ぶりに腰を抜かして階段を登ることができず、エヴァルドの手を借りたものだが、今や慣れに慣れてしまってもはや雑音の一つとなり果ててしまった。
私もエヴァルドもバルトリ文官も特になにを言うこともなく、顔色一つ変えることなくそのまま塔の天辺まで足を運ぶ。
最上階の扉の前に立っていた騎士二人は私たちを見ると、敬礼の姿勢をとった。
「様子はどうだ?」
「変わらずです」
エヴァルドの問いかけに答えた騎士は懐から鍵を取り出すと、扉を開けてくれた。
外側の扉の鍵を閉め終えてから二重になっている内扉の鍵をエヴァルドが開ける。
塔の中の質素な部屋に閉じ込められていたのは――。
「おや、モニカ。どうかしたのかい?」
自分とモニカの二人きりの世界に籠もってしまったアーダルベルト元殿下だった。
アーダルベルト元殿下は机に向かってなにか書き物をしていたらしい。部屋に入ってきた物音を聞くとパッと表情を明るくさせ、歓迎するように立ち上がった。
「もう本を読むのは飽きたのかな? だったら次は庭を散歩するとでもしようか」
彼の紺碧に輝いていた瞳は今は輝きを失い、その視線はあらぬ方向を向いている。
彼はもう、現実を見ようともしない。
あの日、冷涼なラヴィラ領でモニカと心中まがいの火事を起こした日、“神の涙”に塗れた煙をたくさん吸って、もう二度と目を覚まさないかもしれないと命を危ぶまれている状況にあった二人だが、当時のアルブレヒト殿下とケインズ医師たちの尽力のおかげで一命は取り留めた。……もっとも、本人たちは二人きりで死ねたほうが幸せだったのかもしれないけれど。
モニカと引き離されたあげく、罪を認め償うためだけに生き返らされたと知った瞬間に、彼は自身の世界へと引きこもってしまった。視力に異常があるわけではない。でも彼はもうモニカのいないこの世界を見ることをやめてしまった。
今もここは彼にとってはモニカと二人だけの楽園で、そこにいるのはモニカしかいない。だから彼は誰が入ってきても所々ケロイドの残る引き攣れた顔に嬉しそうな微笑みを浮かべ、モニカを迎えるように振る舞うのだ。
「今はそうだな、クロッカスが咲き誇る季節かな? でも残念だね、君はあの花の色はあまり好きではないからね。なにせあの忌々しい女のことを思い出すから――」
「アーダルベルト様」
私が声を発した途端、彼の顔が冷たく凍りついた。
「聴取のお時間がやってまいりました。あなたがアルブレヒト陛下を裏切り“神の涙”の魔力に取り憑かれ、その結果あなたがしでかしてしまったこと、その経緯をお聞かせ願えますか?」
アーダルベルト元殿下は苦々しく唇を結び、視線をピタリと私に向けて、それから微動だにしなくなった。そっとため息をつき、バルトリ文官へと目配せを送る。彼は私の合図を受けて、先ほどまで彼がなにやら書き連ねていた書き物机へと腰掛ける。そして彼が書き散らした散乱した書類を回収した。もしもなにか重要な、証拠や手がかりになるようなものが残っていないか念のために調べるために持ち帰っているのだが、そこに関係のある言葉が書かれていた試しはない。
それを提出する度に陛下はなにかに苛まれるような顔をなさるのだが、さすが優秀なバルトリ文官は余計な口は挟まずに毎回律儀に提出している。
バルトリ文官はアーダルベルト元殿下の書類を回収し終えると、今度はまっさらな紙を挟んだ木版を机の上に置いた。言うまでもないそれは取り調べ調書に当たるものだ。
――取り調べ官でもなんでもない私がここにこうして文官たちと定期的に訪れている理由。それは、アーダルベルト元殿下が作り出したモニカとの二人きりの世界に、なぜか私だけが入り込むことができたからだった。




