決別の儀式
――あの事件から三ヶ月後。
私は今、王太子殿下からのある用事での呼び出しを受けて、セシリオと一緒に王城へと向かっている。
馬車の中でのセシリオは言葉少なく、憂いを帯びた表情で窓の外を見てはずっと物思いに耽っている。……それも無理もないことだった。殿下がまさかあんな一世一代の大決断を下すとは思わなかった。そしてそのために私たちを証人として指名したことも。
「セシリオ……」
そっと呼びかけた私の方を振り返って、セシリオはちょっと困ったように微笑んでみせた。
「ああ、ヴィヴィ、すまない……少し考え込んでいた」
素直にあなたのことが心配だ、と口にすることはできなかった。言ってしまえばきっとセシリオは大丈夫だと笑ってしまうのだろう。
「忘れないでいてほしいのは、」
だから私は捻くれた遠回しな言葉しかかけることができなかった。
「私はあなたがどんな気持ちであろうと受け止めたいと思っているし、私の前で我慢してほしくないと思っているから」
セシリオはわずかに目を細めて、淡く微笑んだ。
「ありがとう、ヴィヴィ」
セシリオは少し躊躇ったあと、弱々しく息を吐いた。
「君には敵わないな。……その、やっぱりどうしても平常心ではいられないんだ」
「……そう」
「殿下のことを疑っているわけじゃないし、信じていないわけじゃない」
そこで言葉を切ると、セシリオは視線を鋭くした。
「だけどもしも、万が一にも殿下が躊躇われたら。そのときはたとえ王家の不興を買おうとも、俺が意思を継いで成し遂げたいと思っている――」
「もちろん私も協力するからね」
ふっと我に返ったセシリオが視線を送ってきたので、笑い返してみせた。
「だってこれ以上“神の涙”に振り回されるのなんてごめんだもの。その名を聞くのは今日が最後よ」
セシリオはようやく笑ってくれた。あとはただ手を伸ばしてきたので、私はその手に身を任せた。
そんなどことなく堅苦しい雰囲気で王城に着いた先で出迎えてくれたのは、側付きの侍従たちをすべて遠ざけてひっそりと待っていたアルブレヒト殿下その人だった。
「……来てくれたか」
殿下は短くそれだけ言った。
「ええ、殿下。拝命承りまして、ただいま到着いたしました」
堅苦しいセシリオと私の挨拶をちらりと流し見ると、殿下はそれ以上多くは語らず、ついてこいと踵を返した。
しばらくして殿下につれられてやってきたのは、王城付属の礼拝堂だった。そびえ立つ堂内の壁にはステンドグラスが張り巡らされ、日に照らされたそれらは私たちをたくさんの色で彩っている。
「中で少し待っていてくれ」
殿下は言葉少なにそう言うと、一人でどこかへと立ち去ってしまった。
奥のチャペルの空間には講壇があり、そこでは先に着いていた前アルファーノ公爵が待っていた。その手前には金の装飾を施された台座に祭祀用のかがり火が焚かれており、明々とした明かりを湛えている。
「父上、先に着かれていたのですね」
「ああ」
挨拶をする私たちにセシリオのお父さまは振り向くと、セシリオと雰囲気の似た弱々しい儚い笑みを浮かべた。
「まさか殿下があのような決断をするなんてね」
前アルファーノ公爵は緊張している私に気づくと、元気づけるように軽く頷いてみせた。
「ええ、そうですね……そして、まさかこのような大事なお役目にわたくしたちを選ばれるなんて……」
「どうして? 君たちほどうってつけな人もいないだろう」
前アルファーノ公爵は淡く微笑んだ。
「セシリオだってそう思うだろう?」
私たちの緊張をほぐそうとしているのか、普段口数の少ない前公爵が一生懸命に喋っている。それに気づいているのかいないのか、セシリオはぎこちなく頷いた。
「はい、まさかこのような日が来るとは夢にも思いませんでした」
「それだけ殿下の想いは本物、ということだろう。二度と王家に振り回される人が出ないように、私たちのような悲しい思いをする人が出ないように……」
ふと前公爵の声が途切れ、礼拝堂の中を重々しい沈黙が覆った。それ以上は誰も口を開こうとせず、私はただ一つだけ煌々と爆ぜる火を見つめていた。
そうしてしばらく経ったころ。
「すまない、待たせたね」
戻ってきた王太子殿下の声に顔を上げる。そしてその腕に抱かれているものに顔を強張らせた。
普通の書物よりも一回り大きい判型、表面は黒黒としたなめし革に覆われている。でもなによりも目を引いたのは、表面に巻きつけられた重厚な鎖だった。
「これが代々王家に伝わる、“神の涙”に関する書冊だ」
なんでもないように放たれた言葉は、堂内を寒々しく通り抜ける。セシリオはわずかに目を見開いて息を詰め、前公爵は密かに眉を上げた。
殿下は講壇まで歩いてくるとそこに書冊を載せ、首元からペンダントを取り外した。
王族のシンボルたるレガリア――そのうちの一つであるペンダント。その紋章を締め付ける鎖をまとめる錠へとかざす。ぴったりと重なったそれはガシャリと重苦しい音を立てた。解けた錠を取り払った殿下は、粛々と鎖を取り払っていく。そうして現れた分厚い書冊は、いっそ荘厳さを通り越してどこか禍々しくも見えた。
目の前に置かれた本とまさか相まみえる日が来るとは思わなかった。昔から代々王家に伝えられてきて、それは王族にのみ許された書冊で、それ以外の何者にも許されぬ禁書。触るどころか目にすることさえ罪に問われる、まるで悪魔の書だ。
その本を実際に目にし、鎖が解かれるのを見て、そしてその本の放つ妖しい吸引力を肌で感じて息を呑む。おとぎ話を信じるほうではないが、人を誑し込む魔本というものがあるというのなら、まさにこれこそがそうだと思えた。この本をベラドンナが手にとって、悪魔と悪魔が吸い寄せられるように惹き合った。そこから悪夢が始まった。
そのような本をなぜ殿下が持ち出し、封印を解き、あまつさえ私たちの目に触れさせたのか。
王太子殿下の南海のような明るい瞳が表紙を捉える。殿下はゆっくりと手を伸ばし、表紙のなめし革にサラリと指を滑らせた。
殿下はもう二度と“神の涙”の犠牲者を出さないと、そのために自分にできるだけのことをするとそう深く誓った。だから殿下は殿下の代でこの禍根の根を断ち切るべく、この本の破棄を決心したのだ。
この国の王族の特権である“神の涙”に関する書を捨てるなど、正気でないと始め陛下は大反対された。これは王家にしか持ち得ない叡智であり技術であり、そのすべてを自ら放棄するなど、陛下からすれば第二王子に続いて王太子まで気が狂ったのかと思われたに違いない。失われたものはもう二度と手にすることはできない。よく考え直すようにと命じられたアルブレヒト殿下の決断は――やはり揺らがなかった。そんな殿下の様子に、このことは一部を除き内外に秘するようとの条件付きで、陛下はやっと許可を下された。
ベラドンナにアーダルベルト、二代続けて“神の涙”に魅入られた者が出たこと、“神の涙”が生み出す先は悲しみと苦しみしかないこと。すべての思いを殿下は一人背負い込んで、決断した。
私たち三人はその殿下の決心を見届けるべく、こうして証人として参上したということだ。
王太子殿下の逐一の動作をセシリオの目が追う。すべてをただ見守るように、前公爵は息を詰めて動かない。
殿下は比較的しっかりした足取りでかがり火まで歩いていった。それから刹那――殿下は“神の涙”に関するその書冊を小脇に抱えたまま、こちらに視線を向けてきた。
アーダルベルト元殿下とは違う、晴れた日の南海のような明るく透き通ったような瞳が貫くように私を見ている。なにを考える間もなく、反射的に頭を下げていた。
「殿下ならきっと……成し遂げていただけると信じています」
私の声が届いたのかそうでないのか――殿下がふっと息を吐く音がした。
それから殿下はじっと揺れる炎に視線を移した。それは少しの間だったかもしれない。でも私たちにとっては、気の遠くなるような息もつけぬような時間だった。
それからようやく殿下が手を伸ばし――そこから書冊が落とされ、揺れる炎が誘うようにその本を呑み込んだ。
火に焚べられたそれは落下の衝撃で冊子が開き、すぐにその餌食となった。次々に呑み込まれるように分厚いページが火に侵食され、燃え上がっていく。――次の瞬間抵抗するかのように一際高い火柱が上がった。
「っ……!」
まるで呑み込まれそうな勢いに思わずセシリオの手を強く握り締める。
いっそう燃え盛る炎に照らされた殿下の顔には、思ったよりもなんの感慨も浮かんでいない。殿下は表情も変えずにただひたすら本が燃え上がるのを見つめ、そしてその様子を私たちは無言で見守っていた。
どれだけの時間が経っただろうか。随分と長いこと身じろぎもせずにその場に佇んでいたような気がする。
やっとすべてのページが炎の侵食を受け、真っ黒な灰へと変わり果てたとき……そしてそこにはもうなにも残るものはなかった。
「……っ」
誰かが詰めていた息を吐く音がした。誰もなにも言わなかった。
終わった。やっと終わったのだ。
長く王家に伝わってきた幻の秘薬、“神の涙”。それにまつわる呪いも呪縛も誘惑も恐れもなにもかも、今この瞬間にすべてが空へと帰してしまった。今ここにあるのはただの燃え尽きた灰。長らく王家を王家たらしめる権力の象徴となっていた秘薬は、今日をもってもう二度と手に入らない。
「……終わった」
誰かがそう呟いた。セシリオか王太子殿下か、もしくはそのどちらもか。
見上げた先には透明な瞳を揺らしたセシリオがいた。滑らかな白い肌をかがり火の明かりがより白く照らし出し、如実にその表情を浮き彫りにしている。
「殿下の英断に感謝いたします」
静かな声で前公爵が呟き、殿下への敬意を示すために最上級の敬礼をとった。それに倣い、セシリオと私も表敬するために礼をとる。
深く沈めた頭上から、殿下がぽつりと声をかけてきた。
「……感謝する、我が忠実なる臣下たちよ。君たちの忠信に心より感謝する」
顔を上げると、王太子殿下はどこか吹っ切れたように笑った。王家の象徴たる権力を灰にしてしまったというのに、その顔は随分と晴れやかだった。




