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ヒーローなんていない  作者: サク
没落殿下と毒の花
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上がる炎

 

 エヴァルドが制止するより早く、アーダルベルト元殿下は懐から取り出した瓶の中身をぶち撒けた。

 むわりと濃厚な香りが辺りに充満する。くらりと脳裏を揺さぶる匂いに、考えるまでもなくこれが“神の涙”であるとわかる。

 あまりの濃厚な匂いに思わず後退る。押し寄せる甘い空気に体が拒否反応を示し、近づくこともできない。


「最期まで忌々しい女だよ、君は」


 辺りに響く、うめき声に怒号。とっさに口元を押さえるも、呼吸をすればその分体内に取り込んでしまう。


「こうしてどこにいても、いつまで経っても君の影が私とモニカを追いかけてくる。君のせいで今までずっと、本当の二人きりになどなれた試しがない。でも、もういいんだ」


 アーダルベルト元殿下はさらに懐からマッチを取り出すと、シュッと火を付けてぶち撒けた“神の涙”の上に落とした。その途端さらに濃縮された甘い香りが辺りに広がり、ブワリと舐めるように炎が立ち昇る。


「ヴィヴィ!」


 セシリオに強い力で後ろに押し込められ、私たちはさらに後退った。


「これで私たちはようやく本当の意味で二人きりの世界に行ける。もうヴィヴィエッタが追ってくることもない。もっと早くこうすればよかったね、モニカ。そうしたらこんなに悩まなくて済んだのに」

「ああ、アディ。私の“神の涙”は……」


 燃え広がる炎にガンガン鳴り響く耳鳴、もはやなにを言っているのか、もうその声は届かない。

 目の前の影は身を寄せ合うように一つに溶けて、それからくるりと背を向けて炎の向こう側に消えていった。その姿はすぐに目に眩しいほどの赤々とした炎にかき消されて見えなくなる。


「ねぇ、君はどうしたい?」


 曖昧に揺れる世界の中、急に鮮明なエーベルの顔がひょいと目の前に現れた。どうやら彼が顔を近づけてきたようだ。妙に明るく照らされた中性的な美貌の顔面をまじまじと見つめる。


「このままでいいなんて、君なら絶対に思ってないでしょ?」


 アーダルベルト殿下は、死んで尚逃げようというのか。今まで好き勝手に周りを振り回しておいて、それで追い詰められたからといってこんな逃げ方……。


「そんなの、もちろん……黙って行かせるわけっ、ないじゃない!」


 そう怒鳴りながら、唐突に涙が溢れてきた。なんの涙かわからない。悲しんでいるのかも、憐れんでいるのかもわからない。けど、ただこのような結末でいいのかという憤りが私の心を突き動かす。


「こんなの……やりっぱなしで逃げ切ってやっと二人きりになれただなんて、そんな極悪なワガママ、今さら通してやれるわけがない!」

「アハハッ! それでこそ君だね!」


 エーベルはこんなときなのに陽気な笑い声を上げた。

 熱風が上がり、煙が充満しだす。勢いづき始めた炎が舐めるような動きを見せ始め、もはや殿下たちとは隔てられてしまった。


「ヴィヴィ! 下がろう!」


 うねる炎が大きく揺らめき、怒鳴ったセシリオに引っ張られて私たちは廊下の先まで退却する。


「思ったより火の回りが早い! 早くここを脱出しないと!」

「君ならどうしたらいいか、わかるよね?」


 場違いなほど落ち着いたエーベルの声が、すんなり耳に入ってくる。

 ぐいっと手の甲で涙を拭ってから、炎に照らされた中性的な美貌を仰ぎ見る。いつも通りのへらへらした笑いを浮かべたエーベルに促された。


「うん、そうだね、君が僕を信じてくれるなら」


 不思議だった。目の前のシトリンの瞳はまるでそうしてほしいと懇願しているみたいだった。


「エーベル、お願い……」


 掠れた声は、エーベルには充分届いたのか。彼はにっこりとだけ笑った。


「いいよ。君の信頼に応えてあげる。……ああ、僕はたぶんこれがほしかったのかもしれないね」


 エーベルはそっと私の顔に手を伸ばして、再び流れ落ちた涙を指で掬った。次の瞬間、彼はひらりと軽い身のこなしで身を翻し、あっという間に炎の向こうへと消えていった。思わずうめき声を上げる。自分で頼んだことなのに、彼は信頼を向けてほしいと願っていたのに、それでも彼らが無事に戻ってこれるのかどうか胸が張り裂けそうで、痛いほどに鼓動が波打っていた。

 そばにいたセシリオの胸に顔を埋める。彼はただ強く抱き締め返してくれた。


「ああ、私はなんてことを……」

「大丈夫だよ、ヴィヴィ。彼が自ら望んだんだ。それに彼は必ず戻るよ。君がそう信じていられるなら」


 そのまま揺れる意識のまま、セシリオに抱き上げられて連れて行かれる。

 ああ、セシリオが私を責めるはずもなかった。セシリオはいつだって受け止めてくれるのだから。








 “神の涙”を糧にした炎はあっという間に勢いづき、容赦なく屋敷を呑み込んでいった。エヴァルドと騎士テスタは消火活動に参加できる町人を集めに町を駆けずり回っている。

 ちらほらと集まってきた人たちと協力しながら、次々と運ばれてきた水をかけていく。それでも異様なまでに燃え上がる火は勢いを衰えさせることなく、それは焼石に水の様相に見えた。


「もう二度とこんなことは経験したくないな。といってもここまで経験する人もなかなかそういないだろうけど」


 切れ切れの息の合間、噴き出す汗を拭いながらも次々に水をかけていっているセシリオが、隣で珍しく皮肉をこぼした。


「不法侵入に違法薬物、誘拐に家宅捜索、そして最後には火事ときた。ヴィヴィはいったいいくつ命があったら足りるんだ? 平穏無事に過ごしたいと願えば願うほど、君は危険に巻き込まれる……もう二度と王太子殿下のお願いごとなんか聞かないからな」

「っそうね、セシリオ……」


 辛うじて空気を肺に取り込み、ボロボロの意識を繋ぎ合わせるように必死に立つ。

 私にはまだ、しなければならないことがある。

 エーベルが戻ってくるそのときまで、彼を信じてここに立ち続けなければならない。まだ倒れるわけにはいかない。

 モニカの寝所だろう部屋の窓を見守りながら、ひたすらにエーベルを信じて水をかけながら待つ。窓枠からはわずかに煙が噴き出し始めていて、うっすらとカーテンの奥から燃え盛る炎の光が透けて見えている。

 彼らが無事に出てこれるように、姿が見えたらすぐにかけられるように手持ちの水を一部わけてもらっていた。


「これだけ集まれば大丈夫だろう」


 気づけば後ろにエヴァルドが立っていた。


「もう人手は集まった。ヴィヴィエッタは下がってるんだ」

「いえ、もう少しだけ待って……」


 彼は、きっと。

 その想いに応えるように、唐突に激しい音を立てて窓枠が外れ、窓と一緒になにかの物体が落ちてきた。激しい衝撃に割れた窓ガラスの上に横たわっているのは、意識を失ったアーダルベルト元殿下。慌てて彼の体に水をぶっかける。


「これは、もしかして……」


 あのエヴァルドでさえも感嘆の声を上げる。


「これでいいかな? お嬢さん」


 窓枠にひょいと飛び乗ったエーベルの腕には、意識を失ってくたりとしたモニカ。

 次の瞬間にはふわりと地面に着地して、先に投げ出していたアーダルベルト元殿下の上にモニカをおざなりに投げ出す。慌てて残りの水をざばりとかけると、ビシャビシャに濡れたエーベルに若干迷惑そうな顔で見上げられた。


「燃え上がるようなヘマはしてないよ」


 エヴァルドが意識を失っている二人の安否確認を行っている。エーベルは立ち上がってこっちに歩み寄ってくる。


「僕を信じて待っていてくれた?」

「ええ、ええ……信じてたわ。あなたがこんなところでくたばるようなヘマをするはずがないって、私はちゃんと信じてた」


 こくりと頷き返すと、エーベルは満身創痍のくせになぜか満足そうな笑みを浮かべた。

 そんなエーベルになにか言葉をかけようとして、でも張り詰めた私の意識が持ったのはそこまでだった。


「ヴィヴィ……!」


 相変わらずセシリオに心配ばっかりかけてるかも。焦るようなセシリオの声を聞きながらそう思ったのが最後だった。








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