彼の決断
アーダルベルト元殿下はしばらく睨むようにこちらを見据えていた。
「君は本当に……どこまでいってもいけ好かないままなんだな」
ごっそりと抜け落ちたような虚無を顔に浮かべ、深い深淵のような紺碧の瞳がひたりと私を睨みつける。
「そのどこまでも綺麗ごとを並べてただバカみたいに真っ直ぐ前しか向けない、そんな君が私は本当に苦手だった」
虚無の詰まったその顔はベラドンナにそっくりで、思わず心配になってセシリオに身を寄せる。セシリオは安心させるように、大丈夫だとでもいうようにただしっかりと頷きを返してきた。
「君とは多分、一生相容れないだろうね」
「ええ、あなたがそう思うんなら、きっとずっとそうなんでしょうね」
きっとそうやって彼に歩み寄る意思がない限り、二人の距離はずっとこのまま、これ以上縮まることはないのだろう。
アーダルベルト元殿下はかすかな苛立ちに眉間に皺を寄せた。
「そういうところだよ」
吐き捨てた声は空中に消え、彼は懐へと手をやる。
「だがまぁ、君のそのバカ正直な真っ直ぐさに今日は救われたところもあるんだ。だってほら、君はこうしてまた迷いなく真っ直ぐと私のところへと戻って来てくれただろう? おかげで私は心置きなく君たちを永遠の安寧へと導ける」
「それはどうだろうねぇ」
一瞬の後、姿を現したのはエーベルだった。エーベルは間髪を容れずに私たちの前に出ると、反射的に手に持っていた本を私の前へと突き出した。アーダルベルト元殿下の手から放たれたナイフはまっすぐに私の胸へと進路を定めていたが、そのナイフは私へと届くことなく吸い込まれるようにエーベルの差し出した本へと突き刺さった。
一瞬の状況に彼は目を瞠る。再び私の命を救ってくれたエーベルは、あの人をおちょくるようなへらへらした笑みを返した。
「僕がこっちに寝返ったってことはあんたはもう詰んでるってことなんだよ? その証拠に、ほら」
エーベルのその言葉が合図だったかのように、騎士テスタとエヴァルドの両名が厳しい面立ちで現れた。彼はさすがに今度こそ自分の不利を悟ったようで、愕然と目を見開いた。
「ラヴィラ卿、彼らがここにいる意味を考えてくれ」
彼らとは、すなわち王太子殿下付の近衛騎士。つまりそれの意味するところは。
「っ……謀ったな!」
強い語気で詰られるも、それに首を振る。
「なにも謀ってなどないわ。だってあなたに後ろめたいことがなにもなければ、これはただの観光旅行で終わるはずだったもの」
今にも私に飛びかからんばかりのアーダルベルト元殿下の様子に、両側からセシリオとエーベルがじりじりと前に出る。
「……王太子殿下は本当は、あなたを心の底から信じたいと願っていたはずよ。前回の騒動であなたの中に垣間見えた王家の澱の片鱗がきっと思い違いであるよう、殿下はそうであってほしいと信じるために今回この計画を建てたのよ。それなのに……あなたはよりにもよって殿下の御心を裏切って“神の涙”に手を出していた。アーダルベルト様、あなたはとても残念なことに、その行動をもって王太子殿下や我々全ての臣下の信頼を裏切ったの」
私の声に、アーダルベルト元殿下は身を震わせんばかりに怒りに身悶えさせた。
「おまえが……! おまえが我が兄上の御心など口にするな……偉そうに語るな……! 兄上が私を疑っていたなどと……あるはずがない……!」
「フン……自分から殿下を裏切っておきながら、随分な言いようだな」
切り裂くようなエヴァルドのアンバーの目が、戦慄く紺碧の瞳をひたりと睨めつけている。その様子はまるで、獲物を仕留めるその瞬間を虎視眈々と狙っているようだ。
「言っておくが、貴様はそのねじれにねじ曲がった歪んだ性根をうまく隠し通せていたと思っていたのかもしれないが、王太子殿下は薄々勘付いていらっしゃった。もちろんその利己的で、独りよがりで到底愛とは呼べないような歪んだ感情にもな」
その上で敢えて泳がしていたのだと、厳しいアンバーの目から読み取ったアーダルベルト殿下は、激しく動揺していた。
「あなたはとっくに王太子殿下の信を失っていたんですよ」
どこか憐れみの含まれた物言いで、眼差しで、騎士テスタはさらにアーダルベルト元殿下を追い詰める。
「むしろあなたよりもよほどラディアーチェ嬢のほうが王太子殿下に信頼されている」
「な……なにを言っている。無礼だぞ、君たちは!」
思わず声を荒げてしまうほど、その言葉はアーダルベルト元殿下にとっては逆鱗だったらしい。
「ヴィヴィエッタが私よりも兄上に信頼されているなどあるはずもないだろう! これは融通の利かない頭の固い女で視野も狭い。隣に立っている男がなにを思っているか汲み取ることさえもできずに愚直に突き進む、そんな野暮ったくて繊細さの欠片も持ち合わせない女がまさか……」
アーダルベルト元殿下から愕然と呟かれた言葉に、騎士テスタが追い打ちをかける。
「ええ、でも実際そうですよ。だってそうでしょう? ラディアーチェ嬢に信がなければ、王太子殿下がこのような重要なお役目を彼女にお任せになるはずがありません。ラディアーチェ嬢ならば、アルファーノ家を救った彼女だからこそ、“神の涙”の魔力にも負けずにきっと殿下の意を汲んでその願いを果たしてくれると、そう信じたから、だから彼女は今ここにこうしているのです。そしてその王太子殿下の見立ては間違ってはいなかった」
そう、か。王太子殿下は私を信じて、くれたのか。
その言葉だけで、少し救われた気がした。今まで真っ直ぐにアーダルベルト殿下に向かって努力してきたこと、必死に前に向かってもがき続けてきたこと、だからこその今があること。その過程を王太子殿下は認め、信をおいていただけたのだと――。
「証拠も揃っている。状況的にももう言い逃れできない。もうどう足掻こうと貴様に逃げ場はない。観念しろ」
そう凄んだエヴァルドに、アーダルベルト元殿下はモニカを抱えたままジリジリと後退る。
「ねぇ、モニカ」
今までどこか他人事みたいにボーッと宙に視線を彷徨わせていたモニカはビクリと身を竦ませ、ぼんやりとした目をそろそろと向けてきた。
カーテンの締め切られた薄暗い室内では、あの春の空のような明るい瞳の色は伺えない。
「あなたはそれでいいの?」
「それで、って……」
震える唇。彷徨う手。まるで拘束するような抱擁。そのすべてがアルファーノ邸で起きたかつての惨劇を彷彿とさせる。
「あなたはこうしてずっと誰にも会わせてもらえずに、自由のないまま、ただこんこんと眠り続けるだけでいいのって聞いてるの」
決して強く言ったわけではない。だけど私に問い詰められるとかつての辛く当たっていたときのことを思い出すのか、彼女は怯えたように身を震わせた。
「わ、私は……」
「ヴィヴィエッタ、勝手な真似はやめろ」
アーダルベルト元殿下の虚無を浮かべた瞳が一転、激しい悋気の炎に燃え上がった。
「許可なくモニカに話しかけるな」
「あなたには聞いてないの。私はモニカに話してるの!」
彼が詰め寄ってくる前に、矢継ぎ早にモニカへと畳みかける。
「ねぇ、あなたはどう思っているの」
「私……」
モニカはしばらく唇を震わせていたが、やがて泣き出した。
「私……怖い……こんなに大勢の人に問い詰められて、私がなにをしたっていうの? 私はただ、アディと二人で幸せでいられたらそれでいいのに……」
ポロポロと大粒の涙を流し始めたモニカに、言葉が詰まる。
「もうこんなところには居たくない……早くアディと二人きりの幸せな場所に行きたい」
「ああ、すまないね、モニカ。そうだな、こんな場所はもう捨て去って、早く二人きりの幸せになれる場所へ行こう」
動くな! とエヴァルドが制止の声を上げるより早く、アーダルベルト元殿下は懐からなにかを取り出した。




