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ヒーローなんていない  作者: サク
没落殿下と毒の花
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対峙の時

 

 ラヴィラ男爵はモニカから離れて立ち上がった。それにモニカが不安そうにシーツの中から顔を出す。

 彼はいつも浮かべている穏やかな笑みではなく、紺碧の瞳には激しい敵愾心を浮かべている。


「私はただ……ヴィヴィエッタ、君が無事だったことは喜んでいるよ」


 だがそれはすぐにかき消されて、一瞬で取り繕うような穏やかな笑みが広がった。


「ああ、そうさ。君がこうして無事でいてくれて心の底から喜んでいる。ただ衰弱のあまりにあることないことを婚約者に吹き込むのは……非常によくないと思わないか、ヴィヴィエッタ」

「茶番はもうよろしいですわ、アーダルベルト様。あなたがわたくしになにをしたのか、お忘れになったわけではないでしょう?」

「ヴィヴィエッタ、茶番だなんて……」

「言い訳はもうよろしくてよ。あなたのせいでわたくし本当に大変な目に遭いましたけども、だからといって頭のほうまで耄碌したわけではありませんの」

「自分ではそう思っているかもしれないけどね、実際君はあることないことを自分の婚約者に吹き込んでいるじゃないか。そもそも君たちは忘れていないか? どうしてもこの地に旅行に来たいと言ってきたのは君たちなんだよ。そんな我儘な君たちを私はこうして快く受け入れた側なんだ。なのにその私に感謝するどころか、このような陥れるような真似を……」

「アーダルベルト様」


 静かに名前を呼ぶと、アーダルベルト殿下は口八丁に丸め込もうと開いた口を閉じた。


「もう手遅れですのよ。セシリオ様もすべてご存知ですの。なぜわたくしたちがこのタイミングで姿を現したのか。アーダルベルト様ならすべて言わずともおわかりでしょう」

「まいったな」


 ラヴィラ男爵はそう言ったが、実際困っているようには見えなかった。


「ヴィヴィエッタ、どうかお願いだ。今回は見逃してくれないか」


 ベッドから起き上がったモニカは、ひどく青褪めた顔をしている。そのモニカがギュッとラヴィラ男爵に抱きつく。彼はそっとその肩に手を添えた。


「モニカを見てくれ。ひどく青褪めて怯えている。彼女には()()が必要なんだ。わかるだろう?」


 薄暗がりにぼんやりと照らし出されるモニカからは、かつての溢れんばかりの瑞々しさはもう失われている。震える唇を戦慄かせて、それでも言葉を発することもできずに、彼女はただラヴィラ男爵に縋っている。


「見逃してくれたら……そうだな。一つ君のほしいものをやろう。たとえば、」


 にこりと笑みを深めたラヴィラ男爵の顔が、ベラドンナと重なって見えた。


「君はこの顔が好きだっただろう。この顔はどうだ?」


 すぐには意味がわからなかった。


「顔だけで満足できないのなら、体を付け足してもいい。ほら、君が求めて止まなかった私が今なら手に入るんだ。どうだ? 君にとっては魅力的な提案だろう? 君たち貴族の大好きな“恋人”ごっこだよ」


 意味がわかった瞬間、モニカの顔がもっと青褪めた。だがそれよりも先に怒号を上げたのは、隣で聞いていたセシリオだった。


「あなたという人は………この期に及んで大概にしろ! どれだけ無礼なことを言っているのかわかっているのか!」


 心の底から人を軽蔑したとき、そんなときってこういう声が出るんだなってちょっと驚いたくらい、セシリオの声音は聞いたことのないくらい激しかった。


「どこまでも利用して、弄んで……あなたはヴィヴィをなんだと思っている!」


 セシリオの軽蔑に光るシルバーの瞳と、ラヴィラ男爵のどろりとした暗闇を浮かべた紺碧の瞳が交差した。


「彼女をなんだと思っているかって? 言うまでもない。ヴィヴィエッタは私の元“婚約者”だろう?」

「貴様……!」

「セシリオ! ……セシリオ、ありがとう。もういいよ」


 どこまでもこちらを見下したかのようなラヴィラ男爵の物言いに激昂寸前のセシリオ。その彼に制止をかけると、セシリオは憤った様子で振り向いてきた。


「だが……!」

「大丈夫。私、なんにも揺らいでないから」


 これは強がりでもなんでもなく、本当のことだった。


「本当に、もうどうでもいいの。ねぇ……アーダルベルト様。残念なことに、あなたに憧れていたあのころのわたくしはもうどこにもおりませんの。わたくしの心の中に残っているあなたは、遠い時の向こうのもはや懐かしささえ感じる記憶だけ。ああ、本当に残念ですわ。あなたがわたくしに取り引きの材料として提案できるものは、もうなに一つとして残ってませんものね!」


 ひとしきり高笑いを上げたあと、表情の失せた彼に向かって一瞥をくれる。


「……それ以前に、わたくしがそのような取り引きに応じるとでも思ってらしたの? 見くびってもらっては困るわね」


 ビリビリと、背筋が震える気がした。

 初めて取り繕った仮面を取り去ったアーダルベルト殿下と向き合った気がした。それほどまでに向けられた紺碧の瞳は底なしの虚無で、ベラドンナにそっくりだった。


「……そうか」


 はぁとため息をついた殿下は次の瞬間、誰にも見せたことのないような嫌な笑みを浮かべた。


「ヴィヴィエッタ、君も言うようになったな。昔は私に好かれようとあんなに必死だったくせに。だが、相変わらずいけ好かないところだけは変わらないな、君は」


 セシリオが身動ぎをしたので、視線で彼を留める。

 こんなにも長く一緒に過ごしていたのに、私が見ていなかった、見ようともしていなかった彼の本性が、本音が暴かれようとしている。


「君は昔からいつもそうだ。アーダルベルト殿下のため、アーダルベルト殿下のためと口ではそう言いながら、実質私のことなど君はちっとも見ていなかった。君がいつも見ていたのは君が創り上げた虚像の“アーダルベルト殿下”。そんな虚像に縋って憧れて追いかけていく君は、いつも……滑稽だったよ」


 隣でセシリオがギリギリと拳を握り締め、ピクリと眉を動かした。それにアーダルベルト殿下は笑みを深くする。


「たしかに、かつてのわたくしのそのような態度には、反省すべき点がありました」


 アーダルベルト殿下は、勝ち誇ったような優越感をその笑みに乗せた。


「かつてのわたくしは幼稚で夢見がちで、取り繕ったあなたの外面しか見ていなくて、本当のあなた自身のことをよくわかっていなかった」


 丁寧に撫でつけられたラディッシュに紺碧の瞳。キリッとした精悍な美貌が令嬢たちに人気な、まさに理想の王子様といった風貌の理知的なアーダルベルト殿下。


「でも、それはあなたも一緒ですわ」


 かつてはいつも私に穏やかな笑みを向けてくれていた。でも今ならやっとわかる。それは彼の心の鎧だった。


「外面を取り繕って心を開かず、歩み寄ろうとしなかったのはあなたも同じでしょう。少なくともわたくしはあなたに近づきたいと努力していた。あなたにとってはそれが無駄な努力に見えたのかもしれませんが、それでも私はあなたのことをわかりたいと、歩み寄りたいと、そのために努力を惜しまなかった! その努力を最初から殻に閉じこもったままのあなたに否定される謂れはないし、どうこう言われたくもない。それに私は、その努力のおかげで今はこんなに素敵な人に出会えたの」


 隣のセシリオは私の気持ちを汲んで、ここまでなにも言わずに見守ってくれている。

 そのごつごつした手にそっと触れると、セシリオは力強く握り返してくれた。


「あなたになにを言われたって私は今までの自分を恥じたりしないし、どんなにバカにされたって今までの努力は無駄じゃなかったって胸を張って言える。だってそれを含めて今までのすべての経験が、ここにいる今の私を形作っているから。だから、もう」


 ふと、今までのアーダルベルト殿下との思い出が脳裏を駆け巡っていった。

 初めてお会いしたときの、幼少期のアーダルベルト殿下。幼いながらに立派な貴公子の振る舞いで、一目にして私を虜にした正真正銘の王子様。

 彼に相応しい女性になりたいと努力した日々。釣り合わないと陰口を叩かれても、いつか釣り合うようになればいいんだからとそれでも努力を惜しまなかった。

 見た目も振る舞いも気品も魅力もなにもかも、努力だけじゃほかの麗しい令嬢たちには追いつかないと言われたって、どこそこの令嬢のほうがよほどアーダルベルト殿下に相応しいと嗤われたって、それでもいつかは認められたいと、少しでも隣に立つに相応しい令嬢になりたいと願ってやまずにがむしゃらに努力し続けた。

 それらすべてをアーダルベルト殿下はただ穏やかな笑み一つで眺め続けた。彼はずっと、前に進む私をただ同じ場所から眺め続けていた。


「あなたがなにを言おうと私はもう傷つかないし、私はこれからも前に進む努力を続けて、あなたよりもずっと先を歩んでいく」


 それは、隣に並んで一緒に手を取り合って、進んでくれる人と出会えたから。力強く握り締めてきた手に、私もこれでもかと力いっぱい握り締め返す。

 それに……セシリオだけじゃない。お父様にお兄様、レンティス伯爵令嬢のアリアンナに、ちょっぴりだけだけどエヴァルドも。

 私には、私が見ようとしなかっただけで支えになってくれる人がいたんだって気づくことができたから。


「なにを言われても私は引かないわ。アーダルベルト殿下、もうどうやってもあなたは言い逃れできません。せめて最後は潔くご自身の罪を認めてください」


 真っ直ぐに彼を見つめると、アーダルベルト殿下は隠そうともしなくなった虚無の瞳を忌々しそうに歪め、舌打ちした。









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