純粋な残酷さ
その後なんやかやとエドモンドやジェラルド・バルトリに説明されながら、家畜臭い牛舎の中を見て回った。
私、侯爵令嬢なんだけど、そんな詳しく中まで案内しなくてもよくない?
ちょっとそう思わなくもなかったけれど、ジェラルド・バルトリの甘い笑みやエドモントの純粋な瞳になにも言えず、結局全部ついて回った。
馬車に戻ったときにはあまりに疲れていっそ靴を脱ぎ捨てたかったけど、侯爵令嬢たるものはしたない真似はできないと、へたりそうになる背筋を気合いで伸ばす。
「ねぇ、お姫様はお牛さん怖くなかったの?」
いつの間にか隣にちょこんと座り込んでいた少年が、真ん丸な瞳をキラキラさせながら見上げてきていた。
「お姫様ではないわ。私はヴィヴィエッタ・ラディアーチェよ。淑女の名を呼ぶときはきちんと敬称をつけなさい」
「じゃあ、ヴィヴィ?」
悪気のない厚かましさになんだか毒気を抜かれる。
「敬称よ。ラディアーチェ嬢、と」
「お名前、ヴィヴィエッタなんでしょ? じゃあヴィヴィでいいじゃん!」
なにが面白いのか、少年はケラケラ笑っている。太陽のような明るい笑顔があまりに眩しくて、怒る気も失せてしまった。
「僕はエドだよ。エドモンド」
「知ってるわよ」
エドモンドはなにかツボに嵌ったのか、またケラケラと笑い出した。無作法だと叱りつけるべきなんだろうけど……結局なにも言えなかった。
どうやらエドモンドは私の言葉遣いが面白かったらしかった。
貴族の令嬢と会ったことがないのか、根掘り葉掘り色々なことを聞かれて、それに答える度にコロコロ笑い声を上げる。小さい子は嫌いじゃないが、これほど無邪気な子と接したこともなく、思ったより疲れてしまった。
「この辺りで休憩しましょうか」
丘陵を暫く行ったところにある湖畔で馬車を停め、ジェラルドが漸くそう言ったときには、やっと解放されると嬉しくなったほどだ。
「エド、来い」
ブスくれたままの上の少年は、馬車が停まった途端に弟を呼ぶと先に行ってしまった。
「ラディアーチェ嬢、こちらに」
とりなすようなジェラルドにエスコートされて連れられた先は、広げられた布の上。
きっとこれは『ラディアーチェ侯爵令嬢』なら地べたには座れないと怒り出す場面よね。でも、もうそんな気力も出てこない。
とにかく一息つきたくて侯爵令嬢らしからぬはしたなさで編み上げブーツを脱ぐと、なにやら慌てているジェラルドを尻目に座り込んだ。
「ラディアーチェ嬢、おみ足が……」
「喉が乾いたわ」
慌てているジェラルドを見上げる。綺麗な顔にいいように振り回された分、その姿に一泡吹かせてやった気がして、幾分か気分がスッとした。
「この場所を用意したのはあなたですものね。ちょっとくらいの無作法、許してくれるわよね?」
「はぁ……ちょっと待ってて下さいね」
ジェラルドは肩を落としながらお茶の準備をしに離れていった。
「作法がどうこう言ってた奴が、そんなはしたないことしていいのかよ」
タイミングを見計らったかのように、いつまで経っても警戒を解かない刺々しい声が、後方からかけられる。
ジェラルドの離れた隙を見計らって戻ってきたのか、コルネリオが側に立っていた。
「あなたこそ父君と約束なさったのでしょう? 客人をもてなすと。あなたのその態度はもてなしとは言い難くてよ?」
コルネリオは怯む様子もなく、鼻でハッと笑った。
「オレがもてなすのは客人だけだ。あんたは客人じゃない。ここを乗っ取ろうとしている魔女だ!」
ギロリと、空色の瞳が私を睨めつける。
「ここから出ていけ魔女め! 父さんもこの領地も、絶対に渡さないぞ!」
それに負けじと口の端を吊り上げて笑う。
「出ていってもいいけれど、そうするとあなたの父君もジェラルド・バルトリもとんだ恥をかくわよ。あなただって私が誰か分からないほど無知じゃないでしょう?」
「バカにするな、それくらい知ってる」
コルネリオの瞳が、侮蔑に染まった。
「おまえは王子に捨てられた女だ! 厄介者の意地悪貴族だ!」
言葉に詰まって、息が出来なくなる。
どこでそんなことを知り得たのか、まさかこんな子どもからも謗られようとは思わなかった。
アーダルベルト殿下は言った。穏便に解消出来るよう取り計らうと。ロランディ辺境伯は、私を婚約者に望んでいると。どちらにも瑕疵は残さないと。
なのに……なのに、婚約者を奪われたのは私なのに。
悪いのは、私なの?
「…コルネリオ!」
ジェラルドの厳しい声に我に返る。
「なにをしている?」
「別になにも?」
肩を竦めそっぽを向く少年。ジェラルドはその少年の肩を掴んだ。
「そんなわけないだろう。淑女を責め立てるなんて、立派な紳士のすることか?」
「うるさい!」
コルネリオは身を捻ってジェラルドから離れると、追い詰められた獣のように荒々しく睨み上げた。
「余所者が口出しすんな! おまえも所詮は貴族だろ! オレたち平民のことなんか、人とも思ってないくせに!」
そう言い捨てて走り去ってしまった少年の後ろ姿を見送る。
背後のジェラルドが躊躇うように身じろぎしたから、私は精一杯虚勢を張って、つんと澄ましたまま声をかけた。
「バルトリ様、追いかけて差し上げたら?」
「ですが……」
声が震えないよう腹の奥に力を込める。
「子どもが一人で彷徨くのは危ないのでは? わたくしはこちらで暫く休んでいますから」
「……ありがとうございます」
ジェラルドは控えていた御者になにかを呟くと、「先にお戻り下さい」と非礼を詫びて足早に立ち去って行った。鉛のように重い身体を叱咤して、馬車へと向かう。
さっきまでの晴れやかな気持ちが嘘のように消え、今は一刻も早く帰りたかった。
その後、父の手紙が届くまで、私は『ラディアーチェ侯爵令嬢』であるよう無心に努めた。あれ以来ジェラルドも敢えて蒸し返すような真似はしてこない。
……ただの子どもの戯言に動揺してしまったのは、自分でもびっくりだった。
『ラディアーチェ侯爵令嬢』なら、鼻で笑ってあしらうくらい訳ないのに。生意気な子供の頬を引っ張って説教してやるくらい、やり返せるのに。
でもあれだけ感情を乱してしまった手前、ジェラルドや執事は決して子どもたちを会わせようとはしなくなったし、私も大人気なく反応してしまったあの日は、できるものなら無かったことにしてしまいたかったから、もうなにも言わなかった。
やっと王都に戻れる日。
張り詰めた日常がやっと終わる開放感に、緩みそうになる気を引き締めながら、いつもよりもゆったりと完璧な淑女の礼をとる。
「道中どうかお気をつけて」
思えば婚約解消以来、このジェラルド・バルトリだけが同情もせず、蔑みもせず、普通に接してくれた。こんな風にアーダルベルト殿下に関係なく、男性と対等に話したことは初めてかもしれない。
手の甲に口付けを受けながら、風に揺れる波打つアッシュブロンドを眺める。
「ありがとう。あなたの説明は分かり易かったわ」
優しいヘーゼルの瞳が細められる。
「また是非いらして下さいね」
それにニコリと笑みだけ浮かべると、もう少し眺めていたい気持ちを振り切るように背を向ける。
一刻も早くこの地を立ち去りたいことには変わりない。
でももう少しだけジェラルド・バルトリの笑顔を見ていたいなんて、そんな依存的な甘えなど消え去ればいいと背筋を伸ばして踵を返した。