彼との意外な逃亡劇
どこをどう通ってきたのかわからない。
その細身の体のどこからそんな力が出ているのかわからないほど、エーベルは私を抱えたままあっと言う間に町を去り、近くの雑木林の先へと逃げ込んだからだ。
それからも彼はしばらく走り続け、やっと止まった先はどこかの河原のそばの洞穴の中だった。
かすかにせせらぎの音が聞こえてくる。洞窟の中には焚き火の跡があって、誰かが以前にここを使用したことがあることを示していた。
エーベルはそこに私を運び込むと、力尽きたようにドサリと地面に倒れ込んだ。思わず駆け寄る。
「エーベル!」
「うるさいから静かにして……」と力なく呟いた彼は目を瞑ったままだ。刺さったままのナイフからは未だに出血が続いている。
「これ……どうしたら……」
一瞬狼狽えたが、どうしたもこうしたも手当てするしかない。
こうなると今度はなにがなんでもエーベルには生き残ってもらわないといけない。
こんな場所もわからない、地理も詳しくもない場所で一人取り残されても困る。それに彼には問い詰めなければならないことが残っている。
覚悟を決めてエーベルのそばに蹲る。医療の心得なんて持ち合わせていない。けれど、やるだけやってみるしかない。
「……」
そうだ。今できることをやるしかない。
エーベルの左腕に刺さっているナイフの柄へと手をかける。そのままぐっと引き抜くと、ドプリと傷口から血が溢れてきた。
慌ててそのナイフでスカートの下部を切り裂く。あまりにも慌てすぎて無惨にもズタボロになったが、今は気にしている場合じゃない。切り裂いた布を四苦八苦しながら傷口に巻いていく。
上等な布地はすぐに真っ赤な液体に染まっていった。
「しまった、布が足りない……」
さすがにスカートのすべての布地を切り裂いてしまうのは避けたい。この冬用の分厚いドレスワンピースのスカート部分が無くなると、今度は私がこの冷涼な気温に耐えられなくなりそうだ。
だからといって彼をこのままにしておいたら、失血死してしまう。
少しの間逡巡していたが、やがて決心してスカートの下に手をかける。履いていたパニエを脱ぎ捨てると、それを手早くナイフで切り裂いた。
気づけばエーベルは気を失っていた。さっきよりも青白い顔に内心焦りながらも、もう一つのナイフのほうも抜いてきつく縛り上げる。
それからはもう夢中だった。生臭い鉄の匂いの中、両手が真っ赤に染まるのも構わずに必死で布の上から止血を試みる。
「どういうつもりか知らないけど、助けたんなら最後まで面倒みなさいよね……!」
私の呟きは今はエーベルには届かない。祈るような気持ちでただひたすらに傷を押さえる。
あまりにも長い時間だった。
一晩中、まんじりともせずに看病していたから、夜が明けたときには疲労困憊が過ぎてこっちまで倒れそうだった。
あまりにも夜は暗く寒く、長かった。
幸いにもエーベルは懐にマッチを持っていたのでそれをちょっと拝借して、洞窟の奥に積もっていた薪になりそうな小枝を集め、切り裂いたパニエの切れ端に着火して焚き火を焚くことはできた。
それでも動かない彼に向き合っている間は、この寒さにこっちまでやられたら、その前にもしも野生動物に襲われたら、エーベルは本当に助かるのか、お腹も空いた、喉も乾いた、今にも倒れそう……と、侯爵令嬢が味わうにはあまりにもサバイバルな状況に、久々に心が折れそうだった。
「お願いだからそろそろ目を覚ましてよー……私の心も折れそうですよー……そんな私、見たかったんじゃないの……」
夜が明けてもエーベルが目を覚ます気配はない。必死の看病が功を奏したのか、傷口からの出血は落ち着いてはいる。
私は太陽が充分に昇ったのを確認して、取り敢えず川に行くことにした。
洞窟を出て、目の前の河原をよろよろと進む。
取り敢えず血生臭い両手を洗いたい。たぶん顔にも飛び散っている。いつから私の物語はスプラッタものになった? そんなとりとめもないことを思いながらふらふらと川岸に座り込む。
覗き込んだ先の川の水はあまりに澄んでいて、一晩でめっきり老けた私の顔を忠実に写し出して現実を突きつけてくる。
その水面をかき乱すように、両手を恐る恐る浸す。あまりの冷たさにヒッと小さな悲鳴が出た。
わかってたことだけど、そりゃもう冷たかった。ぶるぶる震える手を必死で動かして、固まった血を洗い流していく。それからちょちょっと濡れた手で顔を拭いてからそそくさと洞窟に戻ってきたら――ちょうどエーベルが目を覚ましたところだった。
「エーベル!」
薄らぼんやりとシトリンのガラス玉のような目を開けたエーベルは、ちらりと視線を寄越してきた。
「ねぇ、ここっていったいどこなの! 元いた町に戻るにはどうしたら……!」
「……君のために体を張った怪我人に対する第一声が、それ?」
掠れた声は呆れ気味だ。
「ああ、うん……それについては素直に感謝してる。まさかラヴィラ男爵が私を……」
震える声を隠すように言葉を切った。今は彼について感傷に浸っている場合ではない。
「……助けてくれてありがとう。でも助けてくれたついでに、帰りも送ってもらいたいんですけど」
「どういたしまして。でも帰り道は教えない」
エーベルは弱々しく微笑んだ。
「教えたら君は僕を見捨ててさっさと先に帰っちゃうかもしれないから」
「なに言ってんの?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「ここから帰るって? 私みたいな! か弱い令嬢が! こんな森の中を一人で!? 冗談言わないで!」
「君こそ冗談を! 誰がか弱いって?」
エーベルは笑みを浮かべようとして、顔を顰めた。
「こんなときに面白いことを言うのはやめてよ。傷に響いて痛いよ」
「か弱いわよ」
冗談でもなんでもない。
「私は強くなったって思ってたけど……いつだって、誰かに助けてもらわなければ私はここまでこれなかったんだから。私って本当はこんなにも脆くてか弱くて、情けない人間だったのよ」
ぽつりとこぼした私に、淡い色の瞳がじっと見上げてくる。
「私一人ではなにもできないの。いくらそう見栄を張ったって、所詮私なんて強くなんてなかったのよ……」
「でもいつだって助けてくれる誰かはいたんでしょ。だったらそれも強みのうちじゃないの」
見上げてくるエーベルを見返す。フッと消え去ってしまった表情から、彼が私を励ますつもりで言ったわけではないことに気づいて口を噤んだ。
「いつだって自分の力で生きていくしかなかった。自分でどうにかするしかなかった人に比べたら、助けてくれる人がいるってのは幸せなことじゃないの」
「それは……」
「とりあえずさ、一人ではなにもできなくたって鍋を火をかけるくらいはできるでしょ?」
エーベルはぶっきらぼうにそう言い捨てて、洞窟の隅に寄せてあった大きな革袋を顎で指し示す。エーベルに言われて初めて私はその存在に気づいた。
うじうじするのは後回しだ。急いで革袋の中身を確認する。
焚き火用の五徳、鍋、皿にコップ、ビスケットなどの携帯糧食、替えの服一式、傷薬に包帯、そして縫合用の針と糸。
ざっとこんなものが入っていて、私はさっきまで落ち込んでいたのも忘れて嬉しさのあまりに声を上げた。
「すごい! こんなに必要なものが揃っているなんて、なんて運がいいのかしら!」
「運がいいんじゃなくて、必要になるかもしれない状況を想定してあらかじめ用意してたんだよ!」
エーベルはまた呆れた声を出した。
「わかったんならさっさと手伝って!」
見上げてくる瞳に生返事を返して、私はさっそく鍋を片手に川へと駆け出した。




