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ヒーローなんていない  作者: サク
没落殿下と毒の花
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まるで眠り姫のよう

 

 飛び込んだ先の部屋は、暗かった。

 がらんどうな部屋の中には場違いなほどの大きなふかふかのベッドに、小さなサイドテーブルとイスが一脚。部屋の中にはまだあの甘ったるい香りが残っている。きっちりと締め切ったカーテンは日光を通さず、まだ昼間だというのに夜の香りを孕んでいる。

 私はしばらくその部屋に潜んでいた。息を殺し、聞き耳を立て、隣の部屋からラヴィラ男爵が出ていくのを今か今かと待っていた。

 やがて向かいの部屋の扉が静かに開いて、そして閉められ、足音がそこで止まった。半ば開いた扉の奥に隠れながら、必死に息を殺す。ラヴィラ男爵はそこで静かに眠るモニカを見つめていたようだが――しばらくして彼はようやく扉を閉め、そして廊下に響く足音が遠ざかっていった。それにフゥと長い息を吐く。

 部屋に鎮座しているベッドの真ん中には、モニカが微動だにせず横たわっていた。恐る恐る近づいてみる。

 薄暗がりでもわかるきらめく桃色の髪、春の空のような潤んだ瞳は今は長い睫毛の奥に隠されている。

 まるで童話の中の眠り姫かのように、そこにモニカが眠りについていた。

 モニカは仰向けに寝かせられていて、両手を胸の上で組んでいた。よく聞かなければ小さな寝息は聞こえず、その様はまるで死の淵に腰掛けているかのようだ。


「……モニカ?」


 呼びかけても彼女が起きる気配はない。


「モニカ? 寝ているの?」


 脳裏にやつれたアルファーノ前公爵とベラドンナが過ぎる。

 これは本人の了承を得てやっていることなのか? 彼女は……モニカは、この状況を強いられているのではないのか。

 そう思った瞬間、私は手を伸ばしていて、モニカを揺り起こそうとしていた。そのとき。

 ――ギシッ。

 向かいの部屋からわずかに物音がして、思わず身をびくつかせた。

 たしかにラヴィラ男爵は先ほど立ち去った。これはただの家鳴りか、ネズミかその類いのものか、それとも……。

 そう考えているうちにも、またわずかな物音が響いてくる。これはもう気のせいでもなんでもないな。

 物音が止むまで息を潜めてやり過ごす。家鳴りのようなかすかな物音が聞こえなくなってしばらく経つまで、それはもう心を無にしてじっと待ち続けた。

 彼が去ったらすぐに助けを呼びに行こう。ここまで探ればあとはセシリオや隠密の騎士たちがいいように取り計らってくれるだろう。やはり彼をつけてきて正解だった。これでこの騒動が丸く収まれば、今回こそ“神の涙”は根絶できるだろうか。

 それからセシリオと合流できたらこんなところはさっさと去って、帰り道の道中で改めてのんびりと旅行気分を味わい直そう。――そうとりとめもないことを考えていたら、大分時間が経った気がした。

 向かいからはもう物音は聞こえてこない。それでも念のために、極力音を立てずにそーっと扉を動かす。わずかに開けた先。隙間から目を凝らして、息を殺しながらその先を覗く。向かいの部屋の扉は開いている。……あっ、やばい。いる。書類の散らばる部屋の真ん中で食い入るように読み耽っている、あれは――。








 気づいたときにはもう押し倒された後だった。向かいの部屋にいた人物が顔を上げて振り返り、目が合ったと思った瞬間、私は床に叩きつけられていた。両腕は手首のところで握られ、頭上で拘束されている。私に馬乗りになるように乗り上げている人物。その人物は私が叫びだす間一髪のところで、慌てて口を塞いできた。


「なんでこんなところに君がいるのさ?」


 押し殺した声からは困惑が隠せていない。目の前の人物――エーベルは、ふがふがと抗議の声を上げている私の口を強く押さえたまま、咎めるようにそう言ってきた。


「……っ! ……っ、……! それはこっちのセリフだっての!」


 ふがふがふがふが抗議していたら、湿った息が気持ち悪かったのか、エーベルの手が少し緩んだ。その隙に目一杯抗議する。


「ちょっと! うるさいよ! 静かにしてよ!」


 慌ててまた押さえつけられたので、今度は必死に目で抗議する。絶対に声を上げないよう念に念を押されて、仕方なくコクコクと頷くと、やっと大きな手が離れていった。ようやくまともに息を吸える。


「なにしてんのよ、こんなところで」

「だからそれこそこっちのセリフだって」


 エーベルは自分も不法侵入者だというのに、責めるような目で私を見てきた。


「仮にも侯爵令嬢たる君がこんなところでコソコソなにやってるわけ?」

「コソコソしたくもなるわよ! なにせようやくあなたを見つけたんだからね!」


 手の拘束を解こうとモゾモゾするが、男性の力に敵うわけもない。びくともしないエーベルに腹が立って足を振り上げるけど、お腹の上に乗り上げているエーベルに届くはずもなかった。


「あなたを追って来てみれば……寝こけているモニカに“神の涙”の香り、そして怪しさ満点のあなたの行動!」

「へぇ? 君はあの状態の婚約者を置いてきぼりにして、僕のほうを追って来たんだ? それはそれは光栄だね!」


 エーベルに話の横槍を入れられて、思わず口を噤んだ。


「君とまた会えるなんてラッキーだなって思ったけど、婚約者を放ってまでこうも熱心に追いかけてきてくれるなんてね。男冥利に尽きるよ!」

「っていうか、とぼけないでよね。私がいることなんて知ってたくせに」


 エーベルは態とらしく首を傾げた。その馬鹿にしたようなとぼけた仕草に殺意が沸く。


「あのときの道化師、あなたでしょう?」


 返事はなかったが、おもしろそうに細められた目とクスクスとかすかに響く笑い声が肯定を示していた。


「忘れもしないわよ、あのダンス。よくも私を振り回してくれたわね……人をおもちゃみたいにブンブンと!」

「ああ、あれね。くるくる目を回している君を見てるのはほんとに面白かったよ。機会があればまた相手をお願いしたいな」

「誰が二度と踊るもんですか。それよりも! さっさとこの手を離してくださる?」

「うーん、どうしよっかなー」


 あくまでも余裕を漂わせるエーベルにますます苛立ちが募る。


「まぁどうせあなたが離してくれなくたって、もうすぐセシリオがここに来てくれるんですけどね。そうしたらとうとうあなたも終わりね!」

「彼は来ないんじゃない?」


 エーベルはニンマリと笑いながら言った。


「彼、今ごろあの可愛い子に助けたお礼だって酒場に連れ込まれてるんじゃない。そんでもうベロベロに酔い潰されちゃってたりして。どうする? これからあの子によろしく頂かれちゃうのかもよー? それなのに君はこんなところで油を売っててもいいのー?」

「っ……なによ、そんなこと……」


 エーベルは悔しげに顔を歪めた私を見ても、楽しそうに笑っているばかりだ。


「……あなたが仕組んだのかなんなのかは知らないけど、でもセシリオはそんなことはしないから」


 私が声を荒げて怒りを表すとでも思っていたのだろうか。ふと落ち着いたトーンでそう告げた私に、エーベルは不意をつかれたように笑いを収めた。


「だってセシリオはそんな人じゃないって、私知ってるから。彼は必ず追いかけてきてくれる。だから私はそんなことでセシリオを疑ったりなんてしない」

「なんかさー……」


 エーベルの声の調子が変わった。飄々とした振る舞いが鳴りを潜め、どことなく悪意を感じる棘が声に混じった。


「こないだから思ってたんだけどさー……君、なーんか可愛げがないんだよね」

「なっ……べつにあなたに可愛いって思ってもらわなくたって結構ですぅ! そんなのいつだってセシリオがいっぱい言ってくれるもんね!」

「そういうところだよ、そういうとこ」


 ますます腕を床に押しつけられ、反対の手で顎を掴まれる。


「こんな状況なのに泣き喚きもしないし、命乞いもしない。捕まってる立場のくせに僕を捕まえる気満々で、おまけに二言目にはセシリオセシリオって……」


 さっきとは打って変わってエーベルは不機嫌な声を出した。


「もっと動揺でもしてみせればいいのに。愛しい人は今ごろ自分を裏切っているかもしれない、信じていた愛はやっぱり紛いものだったんだ、ああ、もうこの世にはなにも信じられるものなんてない! これから私はどうなるの! ……って、少しは貴族の女らしくしおらしくしてみせたらどうなの」

「悪趣味な男ね、そんな情けない姿を見てどうするの」


 誰がそんな姿を見せるか。そんな情けない姿をさらけ出すのはセシリオの前だけでいい。


「それに残念だけど、もう落ち込んでばかりいるのは懲り懲りなのよ」


 ふんと鼻を鳴らすと、エーベルは不機嫌そうな眉間の皺を深めた。


「なにそれ? どういうこと?」

「ハァ?」


 胡乱げな視線を向けると、舌打ちを返された。


「私がかつて誰の婚約者だったか、まさかあなた知らないの?」

「まさか君、それこそあの悪趣味な男にフラれて落ち込んでたとでもいうの?」

「なんとでも言いなさいよ。これでも今までの人生の大半を捧げるくらいには入れ込んでたんだから」

「へぇ……」


 エーベルはどこか面白くなさそうな顔をした。


「セシリオセシリオうるさい君からは想像もつかないな。でもまぁいいや。どのみちこれから君の心が折れる姿を見ることには変わりないからさ」

「どういう意味よ、それ」

「どういう意味って……」


 エーベルは一瞬、真顔になった。


「ここまで見られたんだ。もう君も連れて行くしかないよね」


 その瞬間、思いっきり叫ぼうとして咄嗟に口を押さえられた。暴れようともがく私と無理やりに目を合わせてきたエーベルはなぜか心許なそうに瞳を揺らしていて、目を見開いた先。


「困ったものだな」


 いつの間にか廊下の先、ラヴィラ男爵が戻ってきていた。









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