不審な動き
それから一週間ほどは、何事もなく心から穏やかな時間を過ごしていた。
せっかく来たから是非この地を満喫してくれとラヴィラ男爵は私たちのために見どころスポットをいくつか紹介してくれて、おかげでローザネラ山脈の美しい大自然を眺めたり、透明度の高い湖の畔を散歩したり、古き良き時代を象徴するような静かな町並みを堪能したりと、私たちはただただこの地を観光してはしゃいでいた。
セシリオは毎日隠密の騎士たちと連絡を取り合っていたが、彼らからの文では、ラヴィラ男爵が明らかに黒だとわかるような証拠は今のところ見つかっていないとのことだった。
ただ一点、気になることがあった。
「ラヴィラ男爵が夜毎、屋敷の外に出ていく?」
セシリオにしーっとジェスチャーされ、慌てて口を塞ぐ。
今日も今日とて近くの花畑でのんびりピクニックしながら、彼らの定時報告を読んでいたときだった。
「それが夜に限らず、一定の時間になると決まってどこかへと足を運んでいるらしい」
辺りに人のいる気配はない。だけどそれでもこれは誰にも聞かれてはならない話だと感じて、自然と声は小さくなった。
「どういうこと? 彼はなんのために、どこに行っているの?」
「さぁ」
セシリオは小さく首を振った。
「彼の行き先はとある別邸だそうだが、そこになにがあるかまでは、まだ」
顎に手を当てて考え出した私を見て、セシリオは目を細める。
「ヴィヴィ? まさか調べに行きたいとか言い出さないよな?」
「なっ……まさか!」
それに慌てて両手を振って否定する。
「もちろんそれは私が口を出す領域じゃないって心得ているわよ!」
私が余計な首を突っ込まなくても、エヴァルドと騎士テスタがしっかりと探りを入れてくれるだろう。
セシリオは束の間胡散臭そうに私を見ていたが、やがてため息を一つついて視線を落とした。
「君を信用していないわけじゃないんだ」
セシリオは力なく呟く。
「君はきっと約束を守ってくれるって、だから仲間外れは嫌だろうと思って、こうして文の内容も君に包み隠さず共有している。だけど心配でしょうがないのも事実なんだ」
暗く沈んだ瞳が見ているのは、ベラドンナに奪われた遠い昔の家族との時間だろうか。
「俺は君がこうして様々な人々の思惑に巻き込まれていく度に、いっそこのままヴェルデまで君を連れ去って、一生そこから出さずに閉じ込めておきたいとすら思ってしまうんだ」
あの高い高い空と黄金色に輝く麦穂が織りなす広大な檻の中に、君が一生傷つけられないように。
そう呟いたセシリオのほうがよっぽど追い詰められているように見えて、そっとその背に手を当てる。
「セシリオ、ありがとう。でも大丈夫よ」
セシリオははっとしたように瞬くと、「ごめん、君を縛り付けたいわけじゃないんだ」と眉を下げてしまった。
「セシリオは充分私を守ってくれてる。私はセシリオがいるからこうしてここに立っていられるし、笑って過ごせているの。どんなことがあっても、たとえ傷つくようなことがあっても、セシリオがいるから立ち続けていられる」
ラディアーチェ侯爵令嬢として、あるいはアルファーノ公爵夫人として在り続ける限り、……いや、そうでなくても誰かと関わり続ける限りは傷つかずに生きていくなんてことは不可能だろう。
それでも私がこうして笑って過ごせているのは、そばでセシリオが支えてくれているから。
君が居れば、私は何度だって立ち上がっていけるから。
「やっぱり君は強いな」
「そうね。なんだかんだであなたが好きって言ってくれた、図太くて容赦がなくて強かなのが、この私なんだわ」
セシリオは小さく笑った。
「君には敵わない」
「でも最初からこんなに強くはなかった。あなたが私をここまで強くしてくれたの」
ようやくその瞳から暗さが消える。セシリオは私のいつになく素直な言葉に、ちょっと照れくさそうにした。
「だったら君のその強さが消えないように、いつまでもそばで見守らせてくれ……」
セシリオがおいでと両腕を広げる。
それに少し頬を染めながらも、ぎこちなく身を寄せて、そして見た目よりも逞しいその中へと飛び込んだ。
それから数日。その日もいつものようにセシリオとゆっくりと町並みを眺めながら、他愛もない話をしていた。
「ラヴィラ男爵によれば、そこの角を曲がったところにある焼菓子屋さんが……」
私の話を聞いていたセシリオに、突然曲がり角から飛び出してきた誰かがぶつかってきた。
「大丈夫ですか?」
咄嗟にセシリオが手を伸ばして抱き起こす。
「あっ……あの、助けてください!」
よく見ると年若い可愛い女性だった。女性はセシリオを見るなりそう言うと、なりふり構わないといったように彼に飛びついてきた。
「そこで男性に絡まれていて、しつこく食い下がってきて諦めてくれないんです!」
あろうことか起こしてくれたセシリオに追いすがって、今度はその腕に抱きついている。セシリオは困ったようにその腕を振りほどこうとした。
「あの、ちょっと! この人、私の婚約者なんですけど!」
思わず横からそう声をかけるも、女性が私を気にする様子はない。
「助けてください……私、怖くて……どうしたらいいのかわからなくて……」
それどころかうるうると瞳を潤ませて、下からセシリオを覗き込んでいるじゃないか。
「っ、あのですねぇ、怖かったのはわかるけど、まずはちょっとそこから離れて……」
続けようとした言葉は途切れた。曲がり角の向こうから現れた男たちが、昼間だというのに酔っ払ってベロベロだったからだ。
まさかの酔っ払いのウザ絡みとは。これは思ったよりも面倒臭いことになりそうだ。
「ヴィヴィは離れていて」
セシリオは彼らを目にすると、私を庇うように前に立った。
「いいか? ヴィヴィは絡まれないようにしばらく後ろに下がってるんだ。適当にあしらってくるから、絶対に奴らに近寄らないで」
セシリオがあまりにも念を押してそう言ってくるため、私は頷くしかなくて後ろへと下がる。
「あなたもこっちに来るのよ」
女性にもそう声をかけたが、なんと女性は私のことをまるっと無視してきた。カチンと頭にきている間にも、すぐにセシリオと彼に抱きついている女性は酔っ払いたちに囲まれてしまう。
うーん、大丈夫かな、セシリオ。
しばらく彼らを宥めるセシリオの様子を眺めるも、彼らが去っていく様子はない。
口出ししたら怒られるかな。
あまりにも彼らがセシリオにぐだぐだと絡んでいるので、業を煮やして声をかけようかと思った瞬間。
――一瞬だったけど、見間違えるはずもない。あんな髪色の人間は彼以外に目にしたことがない。
わちゃわちゃと騒いでいるセシリオたちの後ろ、その曲がり角の先へ消えていったのは、紛れもなくエーベルだった。




