雄大な自然の中で
翌日、ラヴィラ男爵に簡単に町の説明を受けて地図をもらったあと、私たちはさっそくソーニャの花の群生地、セレーノ湖の畔でピクニックをしようと朝早くにラヴィラ邸を出立した。
おすすめのパン屋さんで昼食を買ったあと、馬を走らせることしばらく。鬱蒼と生い茂る森の中を縫うように続いている轍のあとを辿って、静かに透明な水を湛えている件の湖へと到着する。
馬を繋いでさっそく湖の畔へと足を運ぶと、そこにはたしかにたくさんのソーニャの花がまるで寄り添いあうかのように群生していた。
「本当にたくさん生えているな」
「そうだとは聞いていたけれど、まさかここまで堂々と群生しているとはね……」
そう思わずぼやいてしまうほどに、ソーニャの花は当たり前に辺り一面に生い茂っている。なにも知らなければ可憐に咲き誇る薄紫の花はさぞや感動ものの綺麗さだっただろう。
しかしこの花々をただ綺麗だと称するには、あまりにもあんまりなことがあり過ぎた。
この花から作られる“神の涙”のせいでセシリオは幼いころに愛する母親を失い、父親からも離され、長い時間を一人ヴェルデで過ごすことになってしまったのだ。
花を見つめたきり、そうやってしばらく黙って立ち尽くしていた。セシリオは今なにを思っているのだろうか。そっと隣に立つ彼を伺う。セシリオは微笑みを返しただけで、しばらくなにも言わずにその場で佇んでいた。
そうしてしばらく立ち竦んでいたが、やはりというかなんというか、生理的な体調の変化は誤魔化せなかった。
――ぐぅ〜……。
私のお腹から食事を急かすなんとも間抜けな音が鳴ったことで、一気にシリアスな空気が崩れる。恥ずかしさのあまりに顔が真っ赤になった私に、セシリオは取りなすような笑顔を向けてきた。
「すまない、もうお昼の時間だな。急いで準備をするよ」
敷布を取りに行ったセシリオのあとをついていきピクニックの準備を手伝う。準備が終わったころにはセシリオはすっかりいつものセシリオに戻っていた。
美味しいパンに舌鼓を打ったあと、横になってボーっと空を見上げていた私を尻目に、セシリオはおもむろに鞄から文具セットを取り出すと、木板に便箋をセットしてやおらに文を書き始めた。
「なにしてるの?」
「ああ、ちょっとした定時連絡をね」
セシリオはチラリと私を見ると、肩をすくめる。
「彼らとは最低でも一日一回、こうしてお互いの状況などを共有しているんだ」
次いでセシリオが鞄から取り出したのは、小さく畳まれた文。
「屋敷の外で交換して、読んだら燃やす。今はこの返事を書いている」
セシリオは鞄から取り出した文を私に見せてくれた。そこにはびっしりと細かい字が綴ってあった。
エヴァルドたちの状況が簡潔に一文。そのあとは私の様子を尋ねる文がびっしりと。
彼女は王都よりも寒々しい町で体調を崩してはいないか。上着は必ず着せるよう、暖炉の火は絶やさずに。奴の嫌味で傷ついていないか、今守れるのは貴様しかいない云々……。
「あんたは私の母親かっ!」
思わず文面にそう突っ込むと、セシリオが苦笑を深める。
「安心してくれ。文には君のことは一切書いていないから」
セシリオはサラサラッと字を綴ると小さく折り畳んで懐にしまい込んだ。
「こちらは異常なし、っと」
セシリオもエヴァルドの粘着性に大分慣れてきた感がある。彼はあしらうようにそう言うと、安心させるように微笑みかけてきた。
「彼らには俺たちの一日のおおまかな動向を知らせてある。もしも万が一予定通りの時刻に予定通りの行動をとらなければ、こっちの捜索を優先する手はずになっている。王太子殿下はなにがあっても君の命が最優先だと約束してくれた。あまり気は休まらないかもしれないが、君はどうかなにも気にせずにこの旅を楽しんでほしい」
「色々とありがとう」
頼もしい婚約者に胸がいっぱいになって、それだけを伝える。
セシリオはそんな私を微笑ましげに見つめていたが、やがて手を伸ばして頬に触れると顔を寄せてきて、慈しむような柔らかなキスを一つそこへと落とした。
文を書き終えたあとはせっかくだからと、セレーノ湖の周りを少し散策してみることにした。
「それにしてもこれだけ当たり前のように咲いていると、本当にこの花が“神の涙”の原料なのかと疑いたくなるわね」
風にそよぐ薄紫の花からは、あのぐらつくような甘ったるい匂いはしない。
「実際、この花がどういう目的で王家に献上されていたのか、この地の人々はよく知らなかったみたいだ」
セシリオが視線を伏せながらソーニャの花に手を伸ばす。ぷつりと一輪摘み取った彼は、その花を口元に寄せた。
「たとえ知ったところで王家の秘術がこんな辺境の地まで漏れるわけもない。この花はただ風光明媚な地に彩りを添える華として、また王家の庇護を受けるその手段として、長らくこの地の人々に愛されてきた」
彼は本当に他意なくこの地にやって来たのだろうか。
彼はモニカとの愛に満ち溢れた穏やかな日々を手に入れたがっていた。それがこの地ならば口さがなく噂する者も、二人にちょっかいをかけようとする者もいなくて叶うから、だからこの地を選んだんじゃないのか。
セシリオは口元にソーニャの花を寄せたまま目を閉じた。花の香りを嗅いでいるのだろう。やわらかな風が吹いてきて、彼のサラサラのプラチナブロンドをさらうように揺らしていく。その絵になるような光景に目を奪われる。
「ヴィヴィ、また難しい顔をしている」
目を開けたセシリオは私の顔を見て、フッと笑うとコツンとおでこをぶつけてきた。
「何度も言うようだが、彼がどういうつもりなのか考えるのもその証拠を探すのも、今回は俺たちの役目じゃない。君は俺との旅行を楽しみにしていたと言っていたのに、ここに来てからはずっと心あらずといった感じだ。俺は君にとってラヴィラ男爵の事情よりも魅力がないのかな」
「ごめんなさい」
あることないことを考えて事前に必要以上に構えてしまうのも、他人の事情に首を突っ込んでやたらと詮索しようとするのも、殿下の婚約者として過ごしてきた私の悪い癖だ。
「もちろん私にとってはなにがあってもセシリオが一番よ」
心を込めてそう言うと、セシリオはソーニャの花を握ったまま淡い微笑みを浮かべた。
「だったらいいけど。でも君のことだから、いざとなったら否応なく巻き込まれそうで気が気でないよ」
儚げなセシリオはどことなく悲しそうで、風に吹かれて今にも消え去ってしまいそうなその姿から目が離せなかった。




