逃亡劇の結末
すみません、少々改稿しています。
「縄を解くぞ。急げ」
冷静さを保ったエヴァルドに早口にそう言われ、頭が冷える。
確かにこの拘束をどうにかするのが先だ。
――まずは落ち着こう、ヴィヴィエッタ。幸い一人じゃない。荒事に慣れているだろう騎士様も一緒だ。落ち着いて彼の言うことに従えば、この場の危機は乗り越えられるはず。
そこからは二人とも無言で、足の縄を取るのに必死だった。気ばかりが焦っては手が滑り、なかなか上手くいかない。足先の縄は遠すぎて噛み付くこともできず途方に暮れていると、無骨な手がかけられた。
「……ダリア様」
「この脚線美について賛辞を送りたいところだが、生憎時間もない。失礼するよ」
「ええ、ええ。そんなのなくとも構いませんとも。だからどうかお願いします」
こんなときまでなにを馬鹿なことをと思ったが、ある意味変わらない態度はありがたくもあった。
「縄を解いたら脱出を?」
「といきたいところだな」
「屋敷を出たところで、逃げ切れますか?」
「心配するな。馬を繋いで隠している」
「そうですか。あの……」
射抜かれていると勘違いしそうな強いアンバーの瞳が、こっちを向いた。
「屋敷を出る前に、セシリオを探すのを手伝ってくれませんか。まだこの屋敷のどこかにいるのかもしれないんです。隠れているのか、どうなったのか分からないけど……」
「ヴィヴィエッタ」
ヒヤリと、息が止まるような冷たい声だった。
「セシリオ・ヴェルデは探せない」
ヒタリと向けられた瞳に感情の色はない。
「まずは私たち二人の安全を確保するのが先だ。無事に脱出できてからセシリオ・ヴェルデについて考えよう」
「それなら、もういいです」
エヴァルドの手が止まった。
「ダリア様はどうぞすぐに屋敷を後になさってください。縄を解いてくだされば、私は一人でだって探しに行きますから」
「馬鹿なことを」
グッと乱暴に縄が引っ張られた。表情も声音も冷静で、でもその瞳だけがあのときの冷たさを感じさせる。
「どれだけ無謀なことを言っているのか分かっているのか? あなた一人でなにができる。セシリオ・ヴェルデがどこにいるかもわからないのに」
「それは……でも、きっと隠れているに違いないと思います。だから……」
「言っておくが」
身を乗り出され、体が近づけられた。仰け反った体に沿うように、ギリギリ触れない位置でエヴァルドがのしかかってくる。
咄嗟にその胸に手を置いて、押し退けようと力を込めた。
「なぜ私が奴を助けなければならない? 私はあなたが欲しい、そのためにこんな馬鹿げた真似までしてここまでやってきた。そして今、まさにその絶好の機会が目の前に転がっている! なのになぜみすみす敵を助けるような真似をしなければならない」
間近にあるアンバーの瞳は細められている。
「いいか、私はあなたを助ける。その対価はあなただ。どうだ、あなたの好きな貴族らしい公正な取引だろう。セシリオ・ヴェルデは生きていたらあくまでもそのついでだ。まずはここから脱出する」
「喋りすぎたな」とエヴァルドは再び視線を足先の縄へと戻した。それに色々とぶちまけたい思いを、唇を噛み締めてなんとか堪える。
エヴァルドがおかしいわけじゃない。言ってることも尤もだ。ただの侯爵令嬢である私が屋敷の者に気づかれずにセシリオを助け出せるわけがないし、エヴァルドがただの好意で助けてくれるような人だなんて思ってもいない。
それでも彼にそう言ってしまったのは、彼が寄せる好意がもし本物だとしたら、私の言うことを聞いてくれるんじゃないかという自分本位な打算に縋ってみたくなったから。
ああ、モニカ・ニコレッティだったらあの青空のような澄んだ瞳で人の気持ちを動かせるのだろうか。殿下の気持ちを動かしてみせたように、エヴァルドの心を動かせるような一言を言えるのだろうか。
……自分がこの世界において特別な人物でもなんでもないことを、まざまざと実感させられた。
エヴァルドは黙々と縄を解く作業を続けている。シンと冷たい空気の中、しばらくして解かれた縄がバラリと落ちた。
自由になった四肢を伸ばし、恐る恐る立ち上がる。長時間同じ体勢をとっていたせいで節々が痛い。うーんと伸びをしていると、続いて立ち上がったエヴァルドは扉に近づき、しげしげと観察し出した。
「外開きの扉か。蝶番も軋んでいる。被害者の私が言うのもなんだが、呆れるほど杜撰な監禁だな」
エヴァルドは指輪を抜くと差し出してきた。――シグネットリングだ。
「これを持っていてくれ」
「なんで……」
「扉を破る。すぐに気付かれるだろうから、私が引きつけておく。ヴィヴィエッタはとにかく逃げてくれ」
「言ってることがおかしいですよ!」
思わず大きい声を出してしまう。
「あなた、私たち二人の安全が優先だって言いましたよね? 二人で一緒にここを出るって。でも、それじゃ、その言い方じゃ、まるで……」
私一人だけを逃がすような言い方。
なおも言い募ろうとした私を制して、エヴァルドは「下がれ」と手ぶりと共に示すと後退った。
「ちょっと!」
止める間もなくエヴァルドはぶつかっていく。大きな音を立てて扉は軋んだが、まだ開く様子はない。その衝突のあまりの激しさに思わず目を瞑ってしまった。
エヴァルドは間髪置かずに何度も扉へとぶつかっていく。何度も何度も扉は激しい音を立てて、蝶番が軋んでいく。
何度目かの衝突で、やっと扉は激しい音を立てて倒れた。勢いで外に転げ出たエヴァルドは、すぐに体勢を立て直すと手ぶりで急かしてくる。
「急げ!」
押し殺した声で怒鳴られて、反射的に駆け寄っていた。
「できるだけ距離を稼ぎたい。走れ!」
どこへ向かえばいいのか分からない。とにかくがむしゃらに目の前の廊下を駆ける。
「こっちだ!」
振り向くと、エヴァルドが階段を見つけていた。慌てて戻り、激しく息を切らしながら駆け上る。
延々と廊下が続くような錯覚、焦りと混乱も相俟って正常に思考することができない。立ち止まって考える余裕もなく、とにかく前へと走り抜ける。
廊下の先、曲がり角を曲がろうとしたところで、先導していたエヴァルドが急に止まった。その背中に激突しそうになって、辛うじて立ち止まる。崩れ落ちそうになる体を壁に寄り掛からせ、肩で荒く息をつく。
そうしながらもエヴァルドの見据える先に目をやると、ベラドンナと一緒にいたあの騎士崩れの男が、憎々しげな表情を浮かべながら立っていた。
「だから男は嫌いなんだ」
吐き捨てるように男は言う。
「大人しく捕らえられていればいいものを。無駄に足掻きやがって!」
間髪置かずこっちに突進してきた男にエヴァルドが対峙する。二人は激しくぶつかって、狭い廊下をあちこちぶつかりながら取っ組み合っていく。
「早く行け!」
身が竦むような、気迫の籠もったエヴァルドの声に急き立てられた。
「立ち止まるな!」
弾かれたようにまた飛び出す。
男が咄嗟に手を出してきて、足を引っ掛けられた。足が縺れ、瞬間宙に浮き、とんでもない勢いで地面へ倒される。
顔面を強打して、目の前を星が舞った。
「この野郎!」
ドゴリ、ドゴリと鈍い音が何度も響いた。
痛む全身を堪えながら、生理的な涙を拭いてよろよろと立ち上がる。
「振り返るな!」
その言葉の通り、後ろを振り向くことはできなかった。恐怖に止まりそうになる足を叱咤して、なんとか前へと足を進めた。
それから長いこと、屋敷の中を一人で彷徨っていた気がする。
あれだけの大騒動があったというのに人っ子一人出てきやしない。まるで廃墟のような雰囲気の、本当に不気味な家だ。
あちこち傷だらけで埃塗れの体を引きずって、私はセシリオを探すべくなんとか前へと進んでいた。どこにも人の気配がなくセシリオを探し出せる気がしなかったが、それでも前に進むしかなかった。
とにかくひたすら前へと足を進める。さきほどのセシリオと別れた部屋へとなんとか戻りたいと思った矢先。
なんの前触れもなく、唐突に後ろから声をかけられた。
「ねぇ、あなたこんなところでなにしてるの?」
その声に足を止める。握り締めた両手がわずかに震える。
やばい。先にこっちに見つかってしまった。よりにもよって――ベラドンナに。
「やぁねぇ、さっきよりももっとみっともなくて汚い姿になって。この家には相応しくないわ」
クスクスと上品な笑みが響く。
後ろを振り向くことはできなかった。今あのラピスラズリのような空虚な瞳を見てしまったら、抵抗する気力を根こそぎ奪われてしまいそうだった。
「あなた、ほかの女と違ってなかなか活きが良かったけれど……これでもう終わりなの? 随分と呆気ないのね」
咄嗟に駆け出すも、後ろから唐突に強い力で突き飛ばされ、うつ伏せに倒れ込む。抵抗する間もなく誰かが伸し掛かってきて、腕を拘束された。
「……私、あなたみたいな女が一番嫌いだわ」
全く加減のない力で髪を引っ張られ、後ろに顔を引っ張り上げられる。
無理な力に全身が悲鳴を上げた。痛みに顔を歪めているというのに、虚無を身に纏った女は真っ赤な唇を歪めて微笑みかけてくる。
「なんでも自分が正しいと思っている女。自分の正義のためなら周りを掻き乱すことも厭わない女。私がなにをしたというの? 私はただシーザリオと二人、穏やかに暮らしていただけなのに」
なーにがただ二人で穏やかに暮らしていただけ、だ。セシリオから家族を奪った張本人のくせに。そう強い思いで睨み上げると、すべてを吸い込んでしまいそうな虚無を纏った瑠璃色の瞳と目が合った。
しばらくの間、そうやってベラドンナと睨み合っていた。
「……これ以上私を怒らせる前に、目の前から消えてちょうだい」
やがて髪から手を離されて、頭を力なく床に打ち付ける。
「エーベル、連れて行って」
「かしこまりました」
背に乗りかかっている誰かが、そう返事した。
「これを使って」
「仰るとおりに」
間髪を容れずに、肌触りのいい上質なハンカチが押し当てられる。ほのかに香るあの匂い。甘ったるい香水のような匂いだ。
とっさに息を止めて歯を喰い縛り、目を閉じた。頭がクラクラしてくる。それでもここで負けてなるものかと必死で耐えていると、騙せたのかなんなのか、ハンカチはさっと取り払われた。
「返しなさい」
「ご主人様、私はあなた様の信頼に応えるためにどんな命令でも叶えてきました。その信頼に応えた証として、この天恵のような奇跡の薬を私にも恵んでいただきたいのです」
なにか会話している声が聞こえるが、意識を保つのに必死で理解できない。目を閉じていても視界が回る。
「ハッ……好きにしたらいいわ。どうせまた作ればいいから」
「……ありがとうございます」
ダメだ、耐えきれない。意識が霞む。薄っすらと目を開けた先に見えたのは、まるでゲームの登場人物のような緑色の髪の男だった。




