香り立つ毒の花
「ヴィヴィエッタ、その前にちょっとこちらへ来てくれないか」
今まで見せたことのないような、輝くような笑顔を向けられた。そんなもん見せられても、ちっとも嬉しく思えない状況だけど。
「こんなときになにをなさるおつもり?」
「期待させて申し訳ないが、縄を解けないか確かめたいんだ」
きっ、期待なんかしてないからな!
反論したい気持ちをぐっと堪えて睨みつける。
「本当に?」
「あなたを構い倒すのには、ここは場所が悪い。あの貧乏者の生家だというのも気にくわん」
エヴァルドはこんな状況にも関わらず、上機嫌に微笑んでいる。その態度にイライラしたけど、そういえばどんな状況なのか分からなくて訊かれてたんだった。
「あなたが来ないのなら、私が行っても?」
うじうじと悩んでいる私を見かねて、エヴァルドがずりずりとにじり寄ってくる。
「ちょっと! ……変なこと、しないでよね」
「心配しなくてもここを抜け出したら存分に可愛がってやる」
「そういうのホント、要りませんから!」
エヴァルドは器用にずりよってくると、身をおこして背中を向けるように指示してきた。それでも躊躇っていると、しびれを切らしたのか向こうが身を寄せてこようとする。
慌てて痛む体を叱咤しながら寝返りを打ち、なんとか体を起こした。背後からガサゴソと落ち着きなく物音がする。
少ししてなんの心構えもないまま手を握られる感触がして、思わず身を跳ねさせた。
「おわっ! ちょっ、なんですか!」
その勢いのまま距離を開けようと身を丸めた。
「ヴィヴィエッタ、後ろ手での作業だ。驚かせたのはすまなかったが、手が触れるのは不可抗力だよ」
……さっきから私一人だけが過剰に意識してるみたいな空気になってるのが納得いかない。
いやでも、か弱き未婚の令嬢に先に乱暴したのはそっちだからね? 警戒して過剰に反応したっておかしくないよね?
「続けていいか?」
「……ドウゾ」
それから長い時間、エヴァルドは後ろでガサゴソと作業をやり続けていた。
時々スルリと手を撫でられたような感触がして「ひぇっ!」って叫びそうになったけど、自意識過剰だと言い聞かせながら息を潜めるように待っていた。
どれだけ経っただろうか。
「とれたぞ。手首の拘束で助かったな」
ちょっと自慢げな声で言われて、縄が解ける。それを固まった関節をきしませながら払い落とした。
「ああ、すべらかで華奢で……あなたは手の先まで美しい」
それからうっとりとそんなことを言われて、せっかくの感謝の気持ちも萎えてしまう。
「お言葉ですけどね……」
振り返りながらたしなめようとして言葉を続けられなかったのは、その指先に血が滲んでいたからだ。
背後のエヴァルドはなにを言うでもなく、黙って縄を解いてくれていた。
「……ありがとう、ございます」
今度は自分もとエヴァルドの手首にかかっている縄に手をかける。
「なにをしている」
「私もやってみます」
「だが、せっかくのこの美しい手が……」
この人は、こんな状況でなに言ってんだ。
「……あのねぇ、綺麗な手だってなんだって、生きて帰れなきゃ意味ないでしょーが! 悔しいけど、私一人じゃ生存率ガタ落ちなの! 今この状況で頼れるのはあんただけなのよ!」
エヴァルドは突然の私の剣幕にポカンと呆けた。かと思うと、どういうわけかクスクスと笑い出してしまった。
「なにが可笑しいんですかね」
「やっぱり、あなたがほしい」
今度はこっちが呆気にとられた。
「あなたのその弱さも強かさも、なにもかもを愛している。堪らなくほしいんだ。ああ、その瞳を私に見せてくれないか。強く輝くその美しい菫の瞳。私の大好きな菫の瞳を」
急に愛の告白をされて戸惑う。そんな私を見て再びクスクスと笑い出したエヴァルド。……もうこの件は一旦終わり! 返事しないことにする。
そんなことより、今は生き残ることのほうが大事だ。目の前の難題へと集中しなければ。
……にしてもこの縄、やたらと固いんだけど……。全然解ける気配もない。これ、エヴァルドはどうやって解いたんだ?
「先ほどの話の続きだが」
拘束の縄と格闘していると、ふと声がかけられた。
「なぜあなたがアルファーノ家に捕らわれている?」
「先にあなたがここにいることの説明をお願いします」
「説明と言っても……いつものようにあなたへの面会を願おうとラディアーチェ家へ伺ったら、兄上からちょうど出かけたところだと言われたんだ。その行き先がアルファーノ邸だというものだから、急いで後を追いかけてきた。気づかれないようについてきたつもりだったが、入り込んだ先で甘い匂いが漂ってきて、目が覚めたらここにいた」
色々と突っ込みたいことはあれど、今はエヴァルドがいてくれたことだけでも感謝しよう。
それにしても、肝心のセシリオはどこに行ったのか。エヴァルドをセシリオと勘違いされているからには見つかってはないと思うけど、無事に逃げられたのだろうか。
「それで、ヴィヴィエッタは? あなたはなぜこんなことに」
「うーん、まぁ……端的に言うと、公爵夫人がらみで、ってとこです」
「夫人? 夫人になにをした」
「別になにもしてませんけど、夫人は公爵に近づく全ての人が許せないみたいなので」
「まぁ、その気持ちはよく分かるが」
返事のしようがなくて、黙り込む。
なかなかに固い結び目に、気持ちばかりが焦る。
「失礼。ちょっと汚れます」
はしたないだとか、みっともないだとか今はどうでもいい。
こんなところで死にたくない。
幸せになれなきゃ、死ねない。
「なにを……」
べチャリと、嫌な感触だったろう。
「ヴィヴィエッタ、もしかして」
返事はしない。縄に齧り付くのに精一杯だし。気持ち悪いかもしれないが、こんなところで抵抗もできずに死ぬよかマシだと思ってもらおう。
ガシガシガシガシ、一心不乱に齧り付く。時折「唾液が……」とぼやいているのが聞こえてくるが、全部スルーだ。これで私にドン引いてくれたら一石二鳥。
どれくらいか分からないが、幾度もえづきそうになりながら顎の感覚がなくなったころ、ベシャベシャの縄がようやくグシャリと落ちた。
「ヴィヴィエッタ……よくやった。よし、この縄は記念に持って帰ろう」
「なんの記念? キャラにない言動は止めてください」
それから一息ついて、足の縄に取り掛かろうとしたときだった。
「静かに」
突然エヴァルドに制止するよう促され、身を強張らせる。
「誰か来る。背中を合わせろ」
私にはなにも聞こえなかったが、早口でそう囁かれ咄嗟に従った。
「縄を。緩くでいい」
逸る心臓を宥めながら、覚束ない手つきで解いたばかりのべしょべしょの縄を緩く巻きつける。
それが終わると今度はエヴァルドが後ろ手で器用に縄をかけてきた。
間一髪。
ガチャリと、鍵の開く音が響いた。
「これが例の薄汚い泥棒ちゃん?」
艷やかな女性の声がして、眩しい光と共に人影が入ってくる。一瞬眉を顰めて目を瞑ったけど、段々と光に慣れてくるとぼんやりと姿が見えてきた。
「若さは認めるけど、あまりパッとしないわねぇ。身のほど知らずもいいところだわ」
燃えるような見事なラディッシュ。白磁のように滑らかな肌に、浮かぶのはラピスラズリのような空虚な瞳。それはそれはゾッとするような妖艶さを持つ女性だった。
その光のない瞳がピタリと私に向けられる。
「ねぇ、あなた。あなたがシーザリオに近づこうとしたの?」
腹の底がヒヤリと冷えた。冷静でいっそ凪いでいるようにも聞こえる声。なのに、刃物を突きつけられているような、微動だにできない緊張感に包まれる。
「まさか愛しい私の彼に会ったりなんてしてないわよね? まさかのまさか、彼と言葉を交わしたりだなんて……そんなの考えただけでも卒倒しちゃう! もし万が一にでも……」
目が見開かれ、赤い唇が笑みを形作る。
「愛しいシーザリオに触れたりなんてしていたら、どうなることかしら? ねぇ泥棒ちゃん」
ピタリと定められた視線に身震いがおこる。このままじゃ彼女の妄想で惨殺されそうだ。
戦慄く体を叱咤しながらもなんとか言葉を紡ぎ出した。
「わたくしはただ、ご子息のセシリオ様との婚約の許可を貰いに……」
「ご子息?」
女性――恐らくベラドンナだろう――が後ろを振り向く。彼女の後ろには先ほどの騎士くずれの男が立っていた。
「隣の男です」
ベラドンナの視線が今度はエヴァルドに向く。エヴァルドはそれに無表情で応えた。
「そう。じゃああなたも要らないわ」
まるで気に入らないドレスを捨てるとでもいうような、軽い物言いだった。
「だってシーザリオの家族は私だけですもの。彼にはほかに家族なんていない。要らない。私だけがシーザリオの家族で、唯一で、そしてその愛を独り占めできるのよ」
そう呟くとベラドンナは微笑んだ。まるで初恋を実らせた若い娘のような恥じらいのその笑みがあまりにもちぐはぐ過ぎて、どうしようもなく鳥肌が立つ。
「だから要らないの。さようなら」
「どのように?」
「どうでもいい。好きにしたらいいわ」
そう言い放たれると、ベラドンナはもう興味を失ったかのように背を向け、ツカツカと立ち去っていった。
「良かったな、悲惨な目に遭わなくて。俺に感謝しろよ」
男はまたニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる。
「心配しなくても俺は面倒くさいことは嫌いなんだ。特にぐちゃぐちゃの死体の片付けなんかはな。楽に死なせてやるから安心しな」
「おまえ、私たちが誰だか分かってやってるんでしょうね?」
「もちろん分かっているさ、お馬鹿なお貴族様。親切にも教えてやるよ、筋書きはこうなってる。あんたたちは婚約が認められなくて思い余って駆け落ちし、途中の事故で命を落とすんだ。安心しろ、そこにご主人が絡んでいるとなればまた有耶無耶になってくれるさ」
「……おまえ、この野郎!」
「おめでとう。二人の門出に立ち会えて光栄だね。あの世で幸せになれよ」
ガチャリと乱暴に扉を閉められる。
残されたのは無表情で考え込むエヴァルドと、色んな感情がないまぜになって、身震いが収まらない私。
「ダリア様……!」
混線する思考をクールダウンさせようと一旦放棄して、藁にも縋る思いでエヴァルドを伺った。




