―幕間― ある近衛騎士の苦悩
公爵家の次男として生まれた私は、スタートからしてそこそこ恵まれた人生だった。
跡継ぎではないので、自分の身を立てる術を得ねばならなかったが、それも学問など難しいことは分からなかったので騎士の道を目指そうかなんていう、ふんわりしたことしか考えていなかった。まぁいざとなれば良家の子女の婿入りでも狙おう、そう楽観していた。
生家に恵まれ、容姿に恵まれ、剣の才能にも恵まれて、順調な人生。なんの憂慮もないと思っていたのに。
自分に足りないものを見つけたあの日、あれはいつごろのことだったか。たしか、兄と共に連れて来られた王城で王太子殿下と遊んでいたときだった。
「兄上、なにをされているのですか」
まだ幼さの残る第二王子殿下が婚約者を伴ってやってきた。無邪気な王子の横で、ピンと背筋をはって一歩下がり、豊かな睫毛を伏せている少女。
「おやアーダルベルト、どうしたの?」
「薔薇の花が咲いたので、ヴィヴィエッタに見せようと案内していたところです」
ヴィヴィエッタと呼ばれた少女はしずしずと礼を執ると、瞼を上げてにこりと微笑んだ。
いつの間にか、息を潜めていたことに気づく。
真っ直ぐな黒い髪に、薔薇色の頬。抜けるような白い肌に、頼りなさげな華奢な肢体。そしてなによりも目を離せなかったのが、可憐な菫のような、美しい色合いの瞳。
殿下たちは一言二言言葉を交わし、そして去っていく。その後ろ姿が見えなくなるまで、目が離せなかった。
視界から消えても、毅然と立つ少女の姿が脳裏に焼き付いて消えない。いつまでもあの淡い瞳が私の思考を捕えて離さない。
――有り体に言えば、一目惚れだったのだろう。だが、当時はこの衝撃がなんなのか分からなかった。
その日は彼女のことが一晩中頭から離れず、一睡もできなかった。翌日顔色が悪いことを家族に心配されたが、それどころじゃなかった。
ただ一刻も早く王城へ登城して、あの少女の姿を探したかった。
不審がる父をなんとか説得し、その日から頻繁に登城するようになる。まぁそのおかげで王太子殿下とは仲良くなれ、無気力だった自分が精力的になったと父の機嫌も良くなった。
けれど、肝心の少女とはなかなか会えなかった。たまに姿を見かけても、いつも第二王子殿下のそばにいて、奴のためだけに存在しているとでもいいたげにその瞳を王子に一心に注いでいる。……それがどうにも許し難かった。
登城しては彼女の姿を追い求めて、見かけては荒れ狂う激情を堪えての繰り返しだった。それでも、少しでも会いたくて、その瞳を知りたくて、追い求めるのを止められなかった。
「君が誰を見ているか、僕はわかってるつもりだよ」
ある日王太子殿下と鍛錬をしているとき、珍しく真顔の殿下からそう言われる。
「だけど彼女は駄目だ。彼女は弟のために選ばれた人だ。君にはあげられない」
「わかっております」
そう返すのに精一杯だった。王太子に悟られぬよう、鍛錬に打ち込んでいる振りをして視線を外す。
そうやって突きつけられて私は初めて、自分の中の荒れ狂う激しい感情が、彼女が欲しいという強い欲求だということを自覚した。そして同時に、決して叶えられることはないという絶望も思い知ったのだ。
絶対に手に入らない存在。なのに、なによりも強く焦がれるほどに求めてやまない存在。
―――あの美しい菫の瞳に、私を映してほしい。
それからは、せめてこれだけはと残ったただ一つの願いのために頑張った。もっと剣の腕を磨けば、彼女は気づいてくれるかもしれない。もっと容姿を磨けば、私に目を奪われるかもしれない。
王太子や第二王子に気づかれる訳にはいかないから、堂々とアプローチはできない。それにすでに王子の婚約者である彼女は、どうやっても手に入れられないのは分かっている。
でもどうしても、その瞳に私を映してほしかった。
年を経てますます美しくなる菫の瞳。その瞳に王子への思慕を映し、王子のためだけに存在するとでも言いたげにほかを見ようともしない彼女。
彼女の世界には、王子しかいない。……私はいない。
なにをしても満たされない、渇望に焦がされる心。いつしかこの気持ちは憎しみにも似たものになっていく。
こんなにあなたを想っているのに、なぜあなたは一度も私を見てくれないのか。王子にはなんとも思われていないのに、なぜそれに気づかない? 見限らない?
……彼女を私のところまで引きずり下ろしてやりたい。ぐちゃぐちゃに汚して、二度と戻れないところまで彼女を打ちのめして、そして私無しでは生きられぬ心にするのだ。
そんな一度も満たされることのない渇望は、やがて抑えきれないほどに増幅しどす黒く染まっていく。自分でもぎりぎりの均衡を保っていたのだと思う。
――それが、あの王子のせいで決壊してしまった。
アーダルベルト第二王子殿下とラディアーチェ侯爵令嬢ヴィヴィエッタの婚約解消のニュースは、瞬く間に社交界を駆け巡った。様々な噂があちらこちらで芽吹いている。
だが、そんなことはどうでもいい。すぐさま父の元へと駆けつけ、彼女への婚約の申し込みの許可を求める。
「ラディアーチェ侯爵令嬢、か……」
渋い顔の父に嫌な予感がする。
「ベルナル伯爵からの申し出はどうする?」
「その件は何度もお断りしたはずです」
「ベルナル伯爵令嬢を断ってまで、ラディアーチェ侯爵令嬢と結婚する理由がない」
次期女伯爵となるベルナル令嬢カメーリア。
最初はやんわりと断っていたが、それでも諦めない彼女からのアプローチにも辟易していたし、まさかこんな形で障害になるとは思わなかった。こんなことなら伯爵の不興を買う覚悟で徹底的に拒否しておけばよかったと、自分の見通しの甘さに歯噛みする。
「彼女と結婚できないのなら、伴侶など要りません」
「そうまでしてなぜ彼女と縁を結びたい?」
父の冷たいアンバーの瞳が、私を見下ろしている。
「言っておくが、好いているなどという下らん理由は通じんぞ。貴族の結婚が感情で出来るものではないとお前も知っているだろう」
「ならばアーダルベルト殿下はどうなるのです? 奴は自分の気持ちを優先するために、よりにもよって彼女を捨てた」
「……滅多なことを言うな。殿下はことを考えられて話を進められた。お前が求めるまでもなく、侯爵令嬢にはきちんとした婚約者が宛てがわれる。お前は心置きなくベルナル伯爵家に入れ」
自分の中で、理性という名のストッパーが壊れていくのが分かる。
「それならば、勘当してください」
驚くほどに平坦な声が出た。
「私はこのまま彼女を拐ってこの国を出ます。そのまま二人、野垂れ死のうと構わない。彼女と共にいられないのであれば、生きている意味なんてもう見出だせない」
「なにを言っている、そんな突拍子もないことを……。目を覚ませエヴァルド。お前は今、若さ故に頭がのぼせ上がっているだけだ!」
「いいえ、父上。これはそんな薄っぺらいものじゃない。ずっと昔から押し隠してきたものなのです。ずっと彼女だけを見てきて、そしてきっと、これからも彼女しか見えない。私はそんな、もうどうしようもないところまで来ているのです」
父は大きな溜息を吐いた。
「……私が言っても聞かぬのなら、実際にその目で見てみるといい。足掻いてもどうにもならないことなどこの世には沢山ある。いい加減大人になれ、エヴァルドよ。そして受け入れることを覚えろ」
おざなりに頭を下げると、すぐにその場を去る。一刻も早くラディアーチェ家に向かわねば、せっかくのチャンスがふいになる。
どれだけ願っても手に入らないと思っていた彼女。それが、嘘みたいに手の届く、現実的な希望が現れたのだ。ここでなんとしてでも手に入れたい。今度こそその菫の瞳に私を映してもらうのだ――。
だが、先触れも出さずに訪れた侯爵家で告げられたのは、侯爵令嬢がすでにロランディ辺境領へと出立したという事実だった。
頭の中が真っ白になる。……次いで出てきたのは失望と怒り。
こんなに……こんなに、あなたを求めているのに、なぜあなたは振り向いてくれない! なぜ私を見ない! なぜ……気づかない!
最後の理性が切れたのは、久しぶりに彼女が出席する夜会で、テオドーロ・ロランディと親しげに話すその姿を見たときだった。
気づいたら、彼女に声をかけていた。菫の瞳がキョトリと私を見上げていることにとてつもない歓喜が押し寄せる。ついぞ味わったことのない高揚感に顔が緩むのを抑えられず、距離感も忘れ彼女の唇へと触れる。瑞々しい唇が柔らかく潰れる感触。堪らない気持ちになる。
どこもかしこもお綺麗にめかし込んでいる彼女を、ぐしゃぐしゃに乱したい衝動のままに引き寄せる。このままいっそ……既成事実を作れば彼女は二度とほかの男の元になどいけなくなる。もう二度とその目に私以外を映すことなど出来なくなる!
荒れ狂う激情のままに力を振るい、嫉妬を、絶望を、怒りを、そして欲望を撒き散らした。
ああやっと……身も心もなにもかもすべて、奪い尽くしてあなたを私のものにすることが出来る。この菫の瞳は誰にも渡さない。私だけのものだ。
「エヴァルド」
名を呼ばれて顔を上げる。目の前には厳しい顔の父。
結局自分には恵まれた人生なんてものはなかった。肝心のチャンスもものにできない、運も実力もない間抜けな男だった。
「今、なんて言った?」
「ラディアーチェ侯爵令嬢を傷物にした、と」
「なんてことをした……」
父は頭を抱え込むと、ぐしゃぐしゃと頭を掻き乱した。いつも丁寧に撫で付けられているその頭髪が乱れるのを見るのは、これが初めてだ。
「もちろん、責任はとります」
「そういう話ではない! 相手はあのラディアーチェ侯爵だ。どれだけ分捕られるか……お前一人で到底贖いきれるようなものではないだろうよ!」
冷たく鼻で笑われる。
「……この際しょうがない、もうお前に期待するのはやめよう。だが、お前のその下らん気持ちの後始末は自分できっちりとつけてもらう。侯爵と交渉し、できるだけ穏便に済ませてこい。いいな?」
否やも無い。再び愛しい彼女に会えると思うと、面会の許可を希う手紙も、筆が軽くなる。
――だが私は、彼女の質を見誤っていた。
「これはどういうことだ?」
三度の父からの呼び出し。目の前には投げ出された侯爵からの手紙。そこにはラディアーチェ侯爵令嬢への謂れ無き言いがかりに対する抗議文が長々と綴られていた。
「どうなっている?」
……こっちが聞きたい。
確かに本懐は遂げられなかったが、それでも夜の庭園に二人きり、衣服もあんなに乱された状態で、普通の令嬢は名誉を傷つけられたとショックを受けて泣き濡れていてもおかしくない。
それをなにもなかったとしたたかに突っぱねてまで、私を拒否すると言うのか。
「エヴァルド、これは願ってもいない機会だ……これ以上侯爵の逆鱗に触れる前に手を引いたほうがいい」
先日からいつもぐしゃぐしゃに乱されている父の頭髪に目を遣る。
「あの侯爵が無かったことにするというのだ。ここらで一旦引こう。おまえにはもうこれ以上厄介事を持ち込んで欲しくない。後生だからあの令嬢は諦めてくれ。お前の手に負える女ではないよ」
それに建前は頷いておく。
一度目のチャンスはふいにしてしまった。次こそ……慎重に追い込まなければ。
父上、あなたは全然私を分かっていない。あなたの軽い言葉一つで諦められるようならば、とっくの昔にこんな苦しい思いなんて捨て去っているに決まっている。
どうやってもなにをやっても捨て去ることなんてできなかったから、今もこんなに苦しんでいる。のたうち回って、みっともなく足掻き続けて、それでも彼女を追い求めずにはいられない。
私には、彼女しかいないのだから。




