王家の澱
すみません、少々改稿しております。
「セシリオ……お前にとって辛い記憶を引き摺り出すことになるが、それでも聞くか?」
「殿下……ええ、覚悟はとうに」
アーダルベルト殿下は一つ頷くと、重い口を開いた。
「まずは現王妹にして、アルファーノ公爵夫人ベラドンナについて述べねばなるまい。あれは……悪魔のような女だ。まるで王家の澱を集めて凝縮させたかのような、苛烈で醜悪な生き物だ」
セシリオの手に力が入る。
「あれがシーザリオ・アルファーノを見初めてしまったのが、悪夢の始まりだった」
サルヴァティーニ王家は、代々その血筋の気質として、善政を敷く良き支配者の顔とは裏腹に、傲慢で欲深い者が多いという。
長い王朝の中でも賢王と呼ばれる統治者が多く、多少の諍いはあれど、概ね安定した歴史を刻んできた。だが、その陰で彼らは一様に、徹底的なまでに欲し、追い求めたものがあるという。
今代の王妹ベラドンナが、正にその陰の気質を色濃く受け継いでいた。
「ベラドンナは幼少時から、欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れようとする過激な一面があった。いくら諌められようとも幾度となく繰り返される横暴な振舞いに、前王はとても頭を悩ませていた。それでも前王が健在であるうちは、まだ彼女の振る舞いも抑えられていたんだ。だがある日、とうとう彼女はその身の内の陰の気質を曝露してしまった。そう、彼女が目を止めてしまったのが、シーザリオ・アルファーノだったんだ」
「父を……」
セシリオの声が掠れる。
殿下は僅かに頷くと、先を続けた。
「公爵にはそのときすでに妻子がいて、そして彼は一途に家族を愛していた。彼はベラドンナの誘惑など歯牙にもかけず、王家からの圧力にも屈しなかった。すでにベラドンナの入り込む余地はなかったが、それを彼女は理解できなかった。ベラドンナは愛し合う男女を引き裂くことも、その心を踏みにじることも厭わず、ただシーザリオを手に入れたい一心で事を起こしてしまった。痺れを切らしたベラドンナは彼女に心酔していた騎士の助力で、アルファーノ公爵家に赴いたんだ」
殿下は一瞬、躊躇ったように間を置いた。
「公爵家でベラドンナが見つかったとき、彼女は茫然自失とした公爵と二人、寄り添ってベッドに座っていた。そして、前アルファーノ公爵夫人は……自身の寝室で息絶えていて、手遅れだったそうだ。そのときのベラドンナはこう証言している。自分は公爵夫人の死には関与していない。ただ……公爵と愛を確かめ合っていただけだ、と」
セシリオが息を呑む。
「そのときの公爵は一時的に錯乱状態で、事実を確認出来るような状態ではなかった。だが、仮にそうでなかったとしても、彼はすでに彼女から逃れられる状況じゃなかったのだろう。正気を取り戻したあとも公爵はなにも語ろうとせず、口を閉ざしたまま。前公爵夫人の遺骸にも明らかな外傷は存在せず、最終的には不審死ということで処理されてしまった。夫人の死にベラドンナが関わったのかどうかは今でもわからないままだ。ベラドンナはそうやっていとも簡単にアルファーノ公爵夫人の座という欲しいものを手に入れた。幸か不幸か、以後シーザリオのそばにいる限りは彼女の暴挙は鳴りを潜め、大人しくなってくれたよ。……ここまで全て、ベラドンナの思惑通りになっているからね。彼女は今もシーザリオと二人、あの閉ざされたアルファーノ邸で暮らしている」
背筋に悪寒が走るような、ぞっとする話だった。これ以上こんな話をセシリオに聞かせたくない。
たとえ現実から目を背けることだとしても、彼のためにならなくても、一刻も早くこの話を終わらせてセシリオの安寧を守りたい。そんな衝動的な気持ちのまま彼の手に触れようとして、首を振られる。
「大丈夫、だから……」
なにも言葉を返すことができず、手を引っ込めるしかなかった。
幼少のとき、父に一度アルファーノ公爵夫妻には気安く近づくなときつく言いつけられたことがある。
理由を尋ねると奥方の気性が激しいからだと返ってきた。余計な波風を立てたくないのならば触らぬが吉だと言われ、それから礼は尽くせど関わったことはない。
父も……ベラドンナの異常性に気づいていたのだろうか。葬り去られてしまった夫婦のその忌まわしき闇を、知っていたのだろうか。
――公爵がセシリオに継承権を放棄させ、ヴェルデ領に追いやったのは、セシリオを守るため、だったのだろうか。
「そのベラドンナ……夫人がいる限り、アルファーノ公爵はセシリオの継承権を認めないのでは?」
「その通りだ。公爵は決して認めないだろうし、たとえ認めさせたところで、ベラドンナは公爵の視界に自分以外の何者でも入り続けるのを好まない。いずれ君もろとも消されるのは目に見えている」
殿下があまりにも淡々と言うものだから、全身に鳥肌が広がっていって身震いが止まらなくなった。
……悪いけどこれ、詰んでないか? そんなものの道理も通じないような奴にどう対抗しろと?
「なにか策は……」
「一つ、取っ掛かりがある」
冴え冴えとした紺碧の瞳が、今度は私に向けられた。
「ソーニャの花は知っているな?」
それに首を縦に振る。
「ソーニャ自体は薄紫の可憐な花で害はない。だが、非常に煩雑な方法で精製すると、ある薬の成分が出来上がる」
「“神の涙”、ですわね」
“神の涙”……ただ王族にのみ許された、天の裁きを与える秘薬。もちろん今の王家がこの薬を製造しているわけもない。今はその製造方法は厳重に保管されていて、その名を耳にしたことはあれど、実際に目にしたことなどあるはずもない。
殿下は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「そうだ。“神の涙”は王族にのみ許された秘薬だというのはまぁ、周知の事実だな。有り体に言えば特殊な幻覚剤と自白薬の混ざったもので、一度でも口にしてしまえば現実に戻れないほどの天国を見せてくれるという。だが摂取量を僅かでも見誤れば、その先にはあっけない死が待っている。その両極端な様が神の采配のように見えるので、この名がついたそうだ。昔の文献によると、我が王家は罪を断じるのに使用していたそうだ。今はあまりに強力な作用に製造は禁止されていて、詳細は王家に厳重に封印してある。この市場に出回るはずのない“神の涙”が、しかし稀少な妙薬として密かに高値で取引されているのを確認した。……私はこれがベラドンナの仕業だと、そう考えている。そしてこれを突き詰めることで前公爵夫人の死の真相にも繋がるのではないかと」
「……確証は」
「前公爵夫人の不審死、出回るはずのない“神の涙”、そしてちらつくベラドンナの影。……だがあとは証拠だ。奴を神の名の元に裁くには、確固たる証拠が足りない」
そりゃ証拠があれば私たちに頼らずとも、とっくの昔に捕まえてるよな。
つまり、この表舞台にセシリオを引っ張り出してきた本当の目的は。
「アルファーノ公爵を救うためにも、セシリオにはぜひ力を貸してもらいたい」
キリッと真面目な顔をした殿下には悪いけど、あまりにも無茶振りがひどくないかと思ってしまった。
そりゃある程度の困難があるんだろうなとは覚悟していたけど、公爵夫人がこんなぶっとんだお方だなんてのは完全に予想外だった。そもそも私みたいな凡人脳がそんなサイコパスに勝てるのか?
……ってゆうか、これ、ベラドンナが真のラスボスで、本来なら立ち向かうのって殿下とモニカ・ニコレッティの役目じゃなくて?
王家の澱を見事二人で打ち消してセシリオを助け出し、二人は功績が認められてめでたしめでたしって流れじゃないの?
「言いたいことは色々とありますが、殿下……」
しかもここまで聞いてしまったら、セシリオの様子を見ていたら、今さら降りる選択肢なんてないようなもんだろ……。
「王家の後ろ盾あってのお話ですわよね?」
殿下は一瞬目を逸らした。
「父上たちは、正直彼女について諦めかけている……」
その言葉にガクッと力が抜けた。
殿下は王家の頭痛の種であるベラドンナの罪を暴き、大きな功績を上げる。
セシリオは本来の権利であるアルファーノ公爵家の継承権を取り戻す。
私はアルファーノ公爵家嫡男と婚約する。
みんなめでたしめでたし、殿下はそういったシナリオが欲しいのか。
――足元を見られたものだ。
「殿下、最初に堅苦しいのはなしで、とそう仰いましたわね?」
殿下は眉を顰めながらも頷く。
「なら、言わせていただきますけれども」
視線を合わせる。私の目を見て、殿下は驚いた顔をした。
「なにか勘違いしていらっしゃるようですが、わたくしはもう殿下の婚約者ではありませんの。あなたの思い通りに動く駒だと思っていらっしゃるのなら、ちょっと改めてもらわなくては困りますわ。わたくし、べつにこのままヴェルデ子爵夫人になっても構いませんのよ?」
まぁ、それだと絶対に父からの許可はおりないから、実質構わないわけないんだけどね!
「でもわたくし、協力いたしますわ。それはひとえにセシリオ様をここまで苦しめるあ奴が許せないからです。そのためだけに! わたくしは動きますの。だから殿下、しっかりとその御心に刻んでいて下さいましね? わたくしはもう、決してあなたのためには動きません。わたくしはわたくしと、わたくしの愛しき婚約者様のためだけに今回の件に関わるということを!」
殿下は目を見開いて驚いたように私を見上げた。……珍しい、初めて見る殿下のお姿だ。
「もちろん、この不敬は不問に付してくださいますわよね? 私たち、殿下にとってとっても大事な駒ですものね。私たちがいないとベラドンナをどうすることもできないわけですし! なら、これ以上の長居も不要ですし、お暇いたしますわ。それではごきげんよう!」
突然まくしたてた私にセシリオも呆気に取られたのか、瞳にはもうあの暗さはない。それに少し安堵して、セシリオを馬車へと追い立てる。
「あ、それと」
大事なことを言い忘れてた。
「こんな大仕事をさせるんだから、それなりにふんだくりますからね。覚悟しててくださいよ?」
にっこりと満面の笑みを浮かべてから、部屋を後にする。
セシリオを促しながら馬車までの道のりを歩いている間憤りが収まらなくて、一人プンスカしてた。
でも馬車に乗り込んで、彼の呆気にとられた顔を眺めて、ようやく冷静な思考が戻ってきて……いかん、ちょっと言い過ぎたかも。よりにもよって殿下に向かって暴言を吐いてしまった。
頭を抱える私と魂の抜けたようなセシリオを乗せて、馬車はゆっくりと動き出した。




