束の間の一休み
ある日のこと、いつものように貴族の名前当てっこゲームをしていた私たちを見て、兄は髪をくしゃくしゃにかきあげ呆れたように溜息をついた。
「君たちさぁ、くる日もくる日も……たまには息抜きに出掛けてみたら?」
兄のうんざりした様子に、私たちは目を見合わせる。
「毎日飽きもせずにマナーのおさらいにダンスのレッスン。空いた時間は貴族年鑑とにらめっこ。見てるこっちが息が詰まりそうでいやになる」
なんで当人のセシリオでなく兄の方が嫌気がさしてるんだ?
元々セシリオは勉強熱心な人だし、私もそんなセシリオを見ながら過ごすのに不満はない。むしろ外に出るとエヴァルド・ダリアと鉢合わせしそうで出たくないんだけど。
「……それでよくヴィヴィエッタの婚約者にーとか言えるよね。デートの一つでもしてくればって言ってるの!」
苛立った兄の言葉にセシリオはハッとする。
「そうか……ヴィヴィエッタ、ずっと気づかなくてすまなかった」
「いや、気づくもなにも、べつに気にしてないから……」
「本当に? ド定番デートスポット巡りが大好きなヴィヴィエッタが?」
兄よ! 余計な情報をセシリオの前でなぜバラす!
視線でギリギリと牽制するも、当の本人は飄々としてどこ吹く風だ。
お言葉ですけどねお兄様、ヴェルデ領では一応それっぽいことしてますから! 二人きりでピクニックをしたり、夜空を見たり……あれ? 傷の舐め合いしかしてなかった。
「ヴィヴィエッタ。もし君が良ければ、明日はどこか出かけないか?」
「うーん……あ、それなら――」
せっかくだ、どうせならあの日にしよう。
本当なら、今はまだあまり人前に姿を現したくなかった。セシリオのことは夜会の日まで出来る限り公にしたくなかった。
エヴァルドに嗅ぎ付けられたらどんな邪魔が入るか分からないし、私情だがセシリオを傷つけるような奴らにはギリギリまで近づけさせたくない。
けど、エヴァルドの異常性は誰も気づいてないし、兄の目には妹が連れて来た男を屋敷に閉じ込めている様が、あまり健全に見えなかったんだろう。
「久しぶりの自然はいいものだな……」
だけど、うーんと伸びをしながら寛いだ様子で歩くセシリオを見ていたら、やっぱり兄の見立て通り気晴らしは必要だったようだ。
ここはセントフォンタナ王立公園、上流階級のためのデートスポットだ。公園内は見通しがよく、整えられた遊歩道があり美しい花々が目を楽しませてくれる。なるべく人気を避けた地味な場所を通っての散歩ではあるが、それでも寛いでいる様子の彼にこっちまでなんだか和んでくる。
公園の名所である恋人たちの泉にも寄りたかったが、そこへ向かえば誰かしらに会うことは必至なので、今日は泣く泣く断念した。
……それともう一つ、人目を避けたい個人的な理由がある。
機嫌よく隣を歩くセシリオを盗み見る。
上質なコートに、スラリとした足にピッタリ沿ったトラウザーズ、美しい革のブーツ。実にラディアーチェ侯爵令嬢の婚約者として相応しい装いだ。
あのヨレヨレブカブカの生成り服とは比べものにならないくらい、今のセシリオは洗練されている。
睫毛も長いし足も長いし、なんか……悔しい。大して手も入れてないのに上品な美しさが出るのは高貴な血の成せる技か?
それと比べて、自分の格好を見て溜息をつきたくなる。
ピーコックグリーンのシンプルなドレスは首元がクリーム色の生地に小花柄のボウタイで、同柄の生地が袖口にもあしらわれている。可愛らしいのは可愛らしいんだけど、でも流行最先端とは言い難い。――私のクローゼットには、こんなシンプルで控えめなドレスしかない。
こんなことなら馬鹿真面目に殿下のため〜とか言ってないで、一着や二着流行りの挑戦的なドレスも持っとくんだった。兄の忠告を無視してたのがこんなところで裏目に出てしまった。
兄は常々『真面目すぎ。殿下のため〜とか言ってないで、自分にセンスがないの認めて勉強したら?』とチクチク言っていた。そんな風に言われてかえって頑なになっていたが、今さらだけど兄の言う通りになってしまった。
「どうした、ヴィヴィエッタ」
浮かない顔をしていたのに気付いたのか、セシリオが歩みを止める。
「疲れたか?」
「……ええ、少し。ちょっと休みたいわ」
セシリオは頷くと、腕を差し出してくれる。エスコートされてそっと連れられた先のベンチでは、さっとハンカチを敷いて手を添えて座らせてくれた。見事な気遣いを披露してくれたセシリオのポテンシャルが恐ろしい。
私の顔を見て、セシリオが怪訝そうな顔になった。
「なにか粗相が?」
「いいえ、逆よ。むしろ完璧」
慌ててにっこり微笑むが、セシリオは怪訝な顔を崩さない。
「その割には喜んでもらえていないようだが」
腕を押さえられ、じっと目を覗き込まれる。不思議な色合いの銀の瞳が、私の思考を汲み取ろうとでもするかのように、じっとこちらを眺めている。
「べつに、その完璧なエスコートに一体どれだけの令嬢方が惚れ込むか、今からやきもきしてるだけ」
冗談めかして言った言葉に、セシリオもフッと口角を上げた。
「なら、心配いらない。誰も引き篭もりのヴェルデ子爵など歯牙にもかけないだろう」
「そんなことないわ。今のセシリオは、その……とても、素敵だから」
セシリオは目を見開いた。
「俺が素敵だって?」
「うん……悔しいけど」
「やきもきするくらいに?」
「焦るくらいには」
セシリオは、しばらく無言で見つめてきたが、やがて囁くように告げられる。
「俺はむしろ、エヴァルド・ダリアに妬いているけどな」
「……え?」
「君と奴との間には過去になにかしらの因縁があって、それがいまだに君の心を煩わせている。それがなにかは知らないけど、ただ一刻も早く解決して、君の思考から奴を消したいって、俺はいつも思ってるんだ」
なんだかすごい言葉を聞いた気がして、瞬きを繰り返す。
いまだにセシリオに押さえられたまま近い距離で見つめられていることに、途端に落ち着かない気持ちになった。
「……ヴィヴィエッタって変わってる」
シルバーグレーの瞳が緩んで笑んだ。
「ダンスじゃいくら密着したって涼しい顔なのに、ちょっと顔を近づけただけでほら、頬が赤くなった」
「セシリオ!」
それこそ真っ赤になって怒っているだろう私に、セシリオはとうとう声を上げて笑い出した。
ブラブラと散歩をしたあとは、待ち合わせ場所であるレストランへと移動する。王都にあるこのレストランは個室を備えていて客が鉢合わせしないようにできており、今回みたいな密談や恋人たちの逢引に使われることが多い。
案内された部屋で、セシリオと私は殿下を待っていた。
王都に帰ってきたあの日、セシリオとの婚約の旨を手紙で知らせた際、殿下より話したいことがあると呼び出しを受けていたのだ。
「すまない、遅くなった」
王家特有の燃えるような赤毛をやや乱した殿下が現れ、私たちは立ち上がって礼をする。
「セシリオ、久しぶりだな」
「殿下におかれましては、――」
堅苦しい表情で早速口上を述べ始めたセシリオを、殿下は苦笑いで止めた。
「いい。今は公式な場でもないし、そう堅苦しくされると私も話しにくい」
セシリオが肩から力が抜けるのを待って、アーダルベルト殿下は話を切り出す。
「懐かしい昔話でもしたいところだが、あまり時間もない。単刀直入に訊こう。君がここにいるということは、決意してくれたと、そうとっていいんだな?」
深い紺碧の瞳がセシリオを推し量るように向けられている。
組んだ手を顎に添え答えを待つ殿下に、セシリオは深く頭を下げた。
「ええ、殿下。ですが一度放棄した継承権を主張することなど、許されるのでしょうか」
殿下は視線を伏せた。
「……それを断じるには、まず私の話を聞いてもらわねばならないだろう。これは、アルファーノ公爵家だけの問題ではない。王家の威信に関わることでもある」
鮮やかな睫毛が頬を彩る。覇気のない言葉に、珍しく伏せられた瞳。
殿下はあまり、私にこういった弱った姿を見せたことがなかった。あまり見覚えのないその姿に、最初から少し冷静さを乱されている自覚はあった。
でもそれ以上に殿下が語り始めた話は、衝撃的なものだった。




