婚約の行方
ピクニックに行った日からも、私は変わらない日々を過ごしていた。
彼から向けられる視線にはあのとき見せた揺らめくような色が時折混じることもあったけれど、彼はあの場所で話したことについて言ってくることはなかったし、私も触れることはなかった。
ただ毎日をどうでもいいことなんか言い合って、そうして笑って過ごして、でもそうやってなんの思惑も抱かずに会話することに慣れていくにつれ、心の内の不安も大きくなっていく。
私は今さら、ほかの貴族の元へと嫁いでやっていける? 一生貴族の仮面を被って、一人きりで頑張っていける?
そんな折、意外な来訪者がヴェルデ領に訪れた。
「えっ、ロランディ辺境伯が来てる?」
どことなく強張った表情でセシリオが頷く。
「ああ。先触れはなかったが、偶然立ち寄ったそうで……」
「そうなの。セシリオってあの方と知り合いだったのね」
「いや、知らない。君に会いたいから、と」
偶然なんて絶対嘘だ! 先触れなんか出したら逃げられるとでも思って出さなかっただけだろ、あいつら!
ヤバい、王都で色々と小細工を仕掛けてきたのを、すっかり忘れてた。
急に顔色が悪くなった私にセシリオの表情も険しくなる。
「会いたくないのなら、断ろうか」
いや、ダメだろ!
流石にここまで来たら追い返すような真似はできない。
私は心配するセシリオを伴って、慌てて応接間へと向かった。
色褪せた応接間には、相変わらず素敵な笑顔を浮かべているジェラルド・バルトリに、無理矢理な笑顔のロランディ辺境伯が待っていた。
そこにセシリオと一緒に着席する。……いや、この屋敷の当主なんだからセシリオがいて当然なんだけど、ちょっとあんまり遣り合う姿を見られたくないというか、やり辛いなぁー、なんて……。
「あらロランディ様、ごきげんよう。お会いするなんて驚きましたわ。王都にいらっしゃったはずでは?」
今はまだ社交シーズン中のはずだろ、なんでいるんだよ。
「ごきげんよう、ラディアーチェ嬢。訳あって領地に戻る途中なのです。あなたこそ、このような場所になぜ」
くっ、返された言葉がブーメランのように刺さる……。すぐに答えられなかった私に、ロランディ伯は笑みを深くした。
「ですがそれはまぁ、この際どうでもいいのです、ラディアーチェ嬢。今日私が伺ったのはただ、あなたとの約束を確かに果たしましたことをお伝えしに来ただけなので」
ロランディ伯はその表情とは逆に、瞳を怒りに燃え上がらせている。
「あなたがダリア殿が怖いと言うから、私はただただあなたのためだけに、必死にこの身を犠牲にしてきました。おかげで平穏に過ごせたでしょう? だがはっきりと申し上げます、これ以上は無理だ。奴の執念は恐ろしい。私ではもう太刀打ち出来そうにない」
「テオ様はですね、ダリア様に執拗に後をつけられて、ノイローゼ気味なんですよ」
何気なく付け足されたジェラルドの言葉にお茶を吹きそうになる。
「……それがラディアーチェ嬢と一体なんの関係が」
口を挟んできたセシリオに、ロランディ伯はキッと顔を向けた。
「あるのですよ! 関係が! ラディアーチェ嬢、長期に王都を空ける際の隠れ蓑に私を使いましたね?」
えへ、ばれちゃった?
「なぜか事あるごとにラディアーチェ嬢と会わせろと突っかかってくる。いくらいない、知らないと言っても聞かず、終いには隠し立てするのかと掴みかかってくる始末。その度に奴を宥めるのにどれだけ苦労したことか!」
最早笑顔を取り繕うこともなく、今までの苦労を吐き出すかのようにロランディ伯は捲し立てた。
「あの人形男に追いかけられたこの気持ちが分かりますか! 欠片も表情の変わらない男が、気が付いたらいつも後ろに佇んでいるんです。気味が悪いなんてもんじゃない、何度恐怖で叫びそうになったことか! おまけになぜか奴との男色の噂まで上がっている!」
「あら、そういうことでしたの」
「違う! 断じて違う!」
今にも噛み付かんばかりのロランディ伯の迫力に、ひょいと身を竦める。
「いいですか、ただでさえあなたとの婚約の話を纏めるために、今年は早めに領地から出て来ている。なのにあなたは私と婚約しないときた。それなら悪いが、私はもう領地に帰らせてもらう」
「こんなことを言ってますけど、結構気にして庇い立てしてましたよ、この人は」
ジェラルドの暴露に、テオドーロの額に青筋が浮かび上がった。
「べっ、別に庇い立てなんかしていない!」
……ロランディ伯のツンデレとか誰得なんですけど。
一人プンプンしてるロランディ伯を尻目に、ジェラルドは優しげな瞳を緩めて笑いかけてきた。
「文句ばかり言ってますけど、あなたのために身を張って頑張っていたことは、私の口からも伝えさせてくださいね」
「それは……どうもありがとう」
嫌味たっぷりの言葉に苦笑が返される。
「やっぱりテオ様と婚約する気にはなれませんか? まだ間に合いますよ」
「あの様子じゃ無理だと思うわ」
肩を竦める。
王都にいたころには考えられなかったであろう不躾な仕草をした私に、ジェラルドは目を瞬かせた。
「ラディアーチェ嬢……なんだか雰囲気が変わりましたね」
そっとジェラルドに片手をとられ、ほわりと微笑まれた。
「肩の力が抜けて、もっとお綺麗になられました」
その言葉にドキリとする。そのまま恭しく持たれた手の甲に口付けをされて、らしくもなく照れてしまった。
「残念だなぁ、ロランディ辺境領にはあなたを迎えたかった」
口付けられた手を緩く握られて、ジェラルド・バルトリはじっと目を覗き込んできた。柔らかなヘーゼルの瞳に吸い込まれそうな錯覚。
不意にカタリ、と音がして我に返る。
「ジェラルド、用は済んだ。帰るぞ」
言いたいことを言ってスッキリしたロランディ伯とセシリオが立ち上がっていた。
「あいつ、いけ好かない」
去っていく馬車を見ながら、珍しく不機嫌そうにセシリオが呟いた。
「……え?」
久しぶりにスマートな仕草で淑女らしい扱いを受けてちょっとぼうっとしていた私は、上手く反応出来なかった。
「君、あんなのが好きなのか?」
「あんなのって……な、なんのこと?」
「ヴィヴィエッタ、君のタイプはジェラルド・バルトリなのか?」
そりゃ……正直に言えばそうなのかもしれない。
あんな風に素敵な笑顔で優しくエスコートされれば……でも誰だってうっとりすると思うんだ。
ただ今のセシリオにそれを言うのはちょっとまずい気がして、私は曖昧に微笑んだ。
「あんな腹黒がいいのか……」
セシリオはそんな私を見て珍しくガシガシと髪を掻きむしると、やや置いてからおもむろに手を差し出してきた。
「ヴィヴィエッタ様、よければお手を。少し歩きませんか」
差し出された手を見て、それからセシリオの顔を見上げる。バツが悪そうに逸らされた視線。急に顔が熱くなってくる。
「……ええ、喜んで」
私としたことが、蚊の泣くような声しか出せなかった。
お互い着飾った姿じゃないけれど、ここには華やかな庭園も、目を瞠るような画廊もないけれど、差し出された腕に手を添えて、私たちはゆっくりと歩む。
細身に見えてもセシリオの腕は筋肉質で、薄いシャツ越しに体温が伝わってくる。それが気恥ずかしくて、なんだかセシリオの方を見ることができなかった。
「ダリア家のエヴァルド殿から婚約の打診がきてるって、本当だったんだな」
ぽつりと、セシリオが呟くように言った。
「もしかして疑ってた?」
「いや、疑っていたというか、エヴァルド殿ほどのお方から婚約を打診されているのに、まさかここにくるなんて普通思わないだろ?」
普通はね。やっぱそういう認識になるよね。
正直エヴァルド・ダリアに一歩も二歩も出遅れている感は否めない。
昼間、ロランディ伯に言われた言葉を思い出す。
『出立する前、奴はラディアーチェ家にいい手土産が出来たとほくそ笑んでいましたよ。その笑顔がとんでもなくキモ……コホン、怪しいものでしたのでよく覚えています。あの執念なら、この居場所もそう遠くない内に嗅ぎ付けるでしょうね。残された時間は僅かだと覚悟した方がいい』
このままだとダリア・エンド一直線なのだろうか。
思わず溜息をつく私に、セシリオの声が追い打ちをかけてくる。
「エヴァルド殿ならラディアーチェ家にとって不足ない相手じゃないか」
「うーん、まぁ……現状、最有力候補ではあると思う」
「エヴァルド殿自体も、君を熱烈に望んでいると聞いた」
「……」
ノーコメントでお願いしたい。
あれはもはや逃げ回る私を捕まえようと躍起になっているだけなんじゃないか?こっちから迫れば逆に醒めそうだが……恐ろしすぎて実行する気には到底なれない。
「なら、なぜ婚約しない」
「それ、本気で言ってる?」
立ち止まって硬い声を出した私に、セシリオは振り返った。
「悪かった。意地の悪いことを聞いた」
そよ風が私の長い髪を浚っていく。
頬にかかったそれをセシリオは優しい手付きで払ってくれた。
「ごめん、エヴァルド殿に望まれていると知って、ちょっと意地悪したくなったんだ」
頬を掠った手は冷たい。
「自分がこんなに馬鹿だったなんて、気付くのが遅すぎた」
その手は悪戯に髪を滑り、今度は確かな意思を持って、私の頬に触れてくる。
「ずっと、君がここにいてくれるような気がしていた。代わり映えのしなかった景色に君がいて、笑いかけてくれて。それに甘えてなんの行動も起こさなかった」
セシリオの顔に、自嘲的な笑みが浮かんでは消える。
「でも君はずっとここにはいられないって、今日突きつけられてやっとわかったよ」
馬鹿なのは私の方だ。私もこの環境に甘えていた。現実から逃げていた。
――セシリオに拒否されるのが怖くて、一歩前に踏み出せなかった。
「今でも正直、怖いんだ。けど、」
セシリオは一度俯くと、その眼差しの色を変える。
「それ以上に、君のそばにいたいと思ってしまったから」
ゆっくりと跪いた彼は、震える手を差し出した。
「ヴィヴィエッタ・ラディアーチェ嬢」
眩いプラチナブロンドの髪が、サラリと後ろに落ちかかる。揺らめく熱が突き刺さるような、強い眼差しだった。
「あなたとの婚姻を望みます。私の婚約者になっていただけませんか?」
そっと伸ばされた手に手を重ねる。セシリオはぎこちない手付きで口元へ運ぶと、手の甲へと口づけた。カサついた、冷たい唇だった。
もう後には戻れない。
自分が望んだことだけれど、この後のことを考えると答える声が震えそうになる。私もセシリオのことなんて言えない。人を巻き込んで運命を変えることが、こんなにも恐ろしいことだなんて。
「あなたにその覚悟があるのなら」
それでも最初に巻き込んだのは私の方だ。ならば怖気づいてどうする、ヴィヴィエッタ・ラディアーチェ。
そう精一杯勝気に見えるように微笑んでみせる。そんな私にセシリオは恐れるような、泣きそうな顔で笑い返してきた。