今更感満載の前世の記憶
「なにをしている!」
男性の怒鳴り声に、はっと意識が戻る。
目の前には蹲り、私を見上げている桃色の髪の少女。
桃色、の、髪……?
ジンジンと痺れる自分の右手を見て、桃髪の少女の押さえられた頬を見て、それから駆け寄ってきて少女を庇うように抱きかかえた険しい表情の男性を見て。
「アーダルベルト殿下……」
私は状況を、理解した。
私はヴィヴィエッタ・ラディアーチェ。
花も恥じらう17才、ラディアーチェ侯爵家の令嬢。
真っ直ぐな黒髪に、菫のような淡い紫の瞳。色合いはちと地味だが、すらっとした手足に豊満な胸部が何ともいえないクール系美少女だ。
ちなみに先程少女を叩いたタイミングで、前世を思い出した異世界転生者である。といっても朧気なもので、自分がどんな人物でどのようにして生きていたのか、殆ど思い出せるものはないのだけれど。
でも急に蘇った前世の知識が今の私の立ち位置に警鐘を鳴らしている。この展開はもしかしなくても『悪役令嬢物』ではないかと。
私はもうすぐ婚約破棄されるのではと――。
少女にかけよりこちらを険しい顔で睨んでいた男性。彼はこの国の第二王子で、アーダルベルト・フォビオ・サルヴァティーニ。
見事なラディッシュに紺碧の瞳。キリッとした精悍な美貌が令嬢に人気の殿方だ。
そして私が先程頬を引っ叩いた女性はモニカ・ニコレッティ。桃色の髪に春の空のようなスカイブルーの瞳の愛らしい少女。
私はどうも彼女が私の婚約者であるアーダルベルト殿下と懇意にしすぎているということで、彼女に詰め寄っていたようだ。その現場を殿下に目撃された直後、どういう訳か私に前世の記憶が蘇った。
そしてその前世の知識を元にすると近々私は殿下に婚約破棄されて、そのときにニコレッティ男爵令嬢にした数々の嫌がらせも曝露され、国外追放されるのだ。
さしずめニコレッティ嬢が『ヒロイン』で、私が『悪役令嬢』というところか。
というか、前世の記憶を思い出すのが今更すぎる……。
私が前世で好んで読んでいた書物によれば、悪役令嬢といえども事前に対策をすれば、『ヒロイン』や『攻略対象』に『ざまぁ』できる場合もあるらしい。
ざまぁその一。
幼少時より攻略対象(私の場合は殿下か?)の心の闇とやらを晴らし、仲良くなっておき、ヒロインの立ち入る隙を与えない。
しかしこれは今更前世の記憶を思い出した時点で手遅れ感満載な策だ。既に殿下はニコレッティ嬢に恋慕の情を抱いているし。
ざまぁそのニ。
殿下とは程よい距離感を保ち、穏便に婚約解消していただく。これも今更だし、ニコレッティ嬢を叩いた後とあっては、穏便にとは言えまい。
ざまぁその三。
殿下に真っ向から歯向かい、味方を作って盛大にざまぁする。
確かに私という婚約者がいながらニコレッティ嬢ばかり優先してきた殿下はいまいち評判が良くない。現時点でこれが一番現実味のある策であるような気がする。
しかし、この策には重大な欠点がある。………私に根本的な人望がない。
というのも、幼少のころから殿下の婚約者と決まっていた私には、いくら社交界にて交友を広めようともどこまでも『殿下の婚約者』であり、貴族の子息はもちろん令嬢方でさえどこか一歩引いた付き合いをせざるを得なかった。
どんだけ親しげに会話してたって心の中じゃ常にメリットデメリットの度合いを測り、殿下のためにならないと思えば容赦なく切り捨ててきた。そんな私に貴族が開け透けに心を開いて打ち解けてくれるはずもなく。
私の周りにいる友人たちは、殿下のさぞかし有能な臣下となってくれるだろう人材、それ以上でも以下でもない。
それじゃあ実家のメイドや執事が支えてくれるかというと、メイドはどこまでいってもメイドだし、執事はどれだけ仲が良かろうとも執事である。関係は無論良好だが、雇い雇われの関係である私たちはプライベートなことをお互い話すことなどないし、ましてや私は『殿下の婚約者』である。それなりの立場にあるからには当然敬われる。
そこに私自身『ヴィヴィエッタ・ラディアーチェ』を見るような使用人はいなかったのである。
……私の知っている悪役令嬢ものでは、幼馴染の公爵令息に密かに想いを寄せられてて助けられたり、イケメン執事やイケメン騎士に支えられて乗り越えたりしていたが、私の周りにいる壮年執事や既婚者騎士にはどだい無理な話なのである。
それじゃあいっそ婚約破棄されて平民になり、前世の記憶を活かして成り上がればいいじゃないかと思った。
……思ったが、現実はそんなに上手くいかないよね。
確かにこの世界は前世でいう中世のヨーロッパっぽい。……っぽいが、恐らくなんらかの乙女ゲームが舞台になっているのか、衛生観念はしっかりしていて上下水道も整備されているし、食事も改革を起こすまでもなく普通に美味しい。
そんな状況でごく一般的な知識しか持たない私に一体なにができるだろうか。味噌作りか? 醤油作りか? いっそ自転車でも開発してみるか? って全部分かるわけねーだろ! 調味料や洗剤なんか店で買ったことしかないわ! ふわふわのパン作りに酵母が要る? 分かっとるわそんくらい! その酵母の作り方が分かんねーんだよ!
……と!少し取り乱してしまったが、よく考えたら分かることだ。
いくら前世の知識があれど頭脳は凡人だ。凡人の記憶力と思考力で皆の心を掴むような商品を作り出し、世に広められるだろうか。
答えは否だ。
……私の人生、詰んだ。