地獄
もう限界だ。
男はそう感じていた。男は自室で突っ立ったまま、何もない空間をただ見つめる。
その目に光はなく、暗く底がない沼の様だった。
男は静かに右手にある刃物を胸に当てる。
彼は、仕事で上司からのひどい嫌がらせを受けていた。何年も我慢した挙句、彼の精神はぼろぼろになっていた。死んで楽になってしまいたい。その思いだけが彼の頭の中を廻る。
もし、天国や地獄があるなら自分はどっちに行くのだろうか。ふと、男はそう考えた。しかし、それはほんの一瞬のことで男はどっちでもいいと結論づけた。上司と一緒にならなければそれでいい。
男は刃物を勢いよく、渾身の力を込めて己に突き刺した。
男が目を覚ました時、目に飛び込んできたのは黒だった。いや、黒よりももっと暗い。闇だった。
周りの風景は何もなく、ただ男の体の周りだけが薄く光っている。男は自分の胸元を見るが傷一つ無かった。
「おつかれー」
状況がよく掴めていない男の目の前にいつの間にいたのか、可愛らしい少女が立っていた。彼女の周りも薄く光っていた。
彼女は何か書類を眺め、もう一度男を見る。
「どう? 罪はちゃんと償えた?」
にこやかな笑顔で男に問う。男は首を傾げた。
そこで少女は「あー」と、なにかを思い出したように声を漏らす。
「君はさ、今罪を償ってる途中なんだよね。君がいままで生きてきたと思ってたところが地獄なんだよ。まあ、そう言っても分かんないか。その地獄にいる間赤ん坊のときだけ記憶があってそのあと徐々に消えていくからね」
少女の話を聞くに、男が罪を犯してしまったということらしい。しかし、その記憶がない男はあまり実感を得ることが出来なかった。
しかし、言われれば確かに男の人生は地獄ではあった。
男はほっとする。自分が何の罪を犯したのか知らないが、こうして地獄に行ったのだから元いた世界に戻れるということなのだろう。そう、思っていた。
しかし、次に男にかけられた言葉は男を絶望させるものだった。
「じゃあ、あと一回地獄に行ってもらわないとね」
「は?」
男は、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「君の罰は地獄二周って決まってるの」
冗談じゃない。そう、叫びそうになるのをぎりぎりのところで持ちこたえる。
目の前の少女は男の思いを知ってか知らずか、相変わらずにこにこと微笑んだままだった。
「ちなみに記憶がない君に教えてあげるよ。この地獄制度はね、実際に被害にあった人が制裁するんだ。この意味、わかる?」
男の顔は一瞬にして真っ青になる。
いままで自分だけ必要に嫌がらせをしてきたのは誰だったか。その人物の顔を思い浮かべて、吐き気までがこみ上げてくる。
「じゃあ、さっそくですがラスト一周がんばってください」
「まっ……」
「待って」と男が言う前に目の前の風景は歪んでいった。
次に男が目を覚ましたときに広がっていたのは、先ほどとは対照的に真っ白な部屋だった。
この独特な匂いは……。
男が考える前に、体が宙に浮かぶ。その理由は自分が何者かに抱え上げられたからだと気づく。そして、その抱え上げた人物とは――。
「可愛い赤ん坊だな」
男がこの世で最も会いたくない人物である、上司であった。
男は必死に暴れようとするが、上手く力が入らない。
そんな男を見て上司は口角を上げる。
「大事に育てなきゃなあ」
男は無駄な抵抗と分かっていても暴れ続ける。
「嫌だ。嫌だ……いやだあああああああ!」
病室に可愛らしい赤ん坊の泣き声が響き渡る。病室にいた人々はそんな赤ん坊を見て微笑んだ。
「あら、可愛らしいことね」
話がごちゃごちゃしてしまいましたが、なんとか書き終えてよかったです。
分かりにくかったとは思いますが、読んでくださりありがとうございます。