痛みと苦しみと熱の中に君を想う
※鬱成分しかないので注意が必要です。
金曜の夜は、兄さんの家に寄って夕飯を一緒に摂るのが社会人になってからの俺の習慣。最初は二人で、下手くそな料理を下手くそな盛り付けで、交代交代、新しい遊びのつもりでやっていた。
それに変化が起きたのは五年前。兄さんの料理の腕が格段に上がって、しかもイタリアンに傾いていった。美味しかったけど意外だった。食事なんて腹に入れば何でも一緒だと公言して憚らなかったひとだから。
「彼女が出来たんだ」
「へぇ……。どんなひと?」
「今度会わせるよ。……結婚、考えてるんだ」
「おめでとう、兄さん」
結婚式はイタリアンレストランでの青空ガーデンパーティだった。秋空は晴れ上がり、祝福のライス・シャワーが降り注ぎ、誰も彼もが二人の門出を祝っていた。
俺の微熱は下がらなかった。
兄さんは結婚してからも金曜の夜の習慣を崩そうとしなかった。俺は言った。
「ミワさんに悪いから……」
「大丈夫だって、気にするなよ。それよりいつまで他人行儀なんだ、姉さんって呼べよ。お前、姉さんが欲しいって泣いてたじゃないか、昔」
「いつの話をしてるんだよ!」
「まぁまぁ。とにかく、来いよ、な?」
一方的に切れた電話に、声もなく立ち尽くした。
心臓が煩く騒ぎ立てる。痛みが、苦しみが、身体の全てが「行くな」と警告を出していた。だというのに、俺の足はあのひとのところへ向かっていた。
馬鹿だと分かっていても抗えなかった。兄さんの幸せそうな表情が俺を苛む。金曜の夜は俺の一番の天国と地獄に変わった。
声を聞くと胸が踊った。
顔を見るとわけもなく笑いたくなる。
同じ空間に居られることが心地よく。
その手に触れたかった。
俺に話し掛けているんじゃなくて。
俺に笑かけているんじゃなくて。
俺の隣に居るんじゃなくて。
触れたくても触れられない。
……気が狂いそうなくらい、愛しくて、悲しくて、触れたくて。あのひとが笑う度に心臓が跳ねた。他の誰でもなく、俺だけを見てほしい。
朝が来なければいいと思った。夢の中でだけは気兼ねなくあのひとを抱いていられるから。俺の腕の中で微笑む彼女の全てを暴いて、俺だけのものになれと願った。
金曜日。
テーブルの上の料理は二人前。俺の向かいに彼女が座る。今日の夕飯は鷹の爪がきいたペンネ・アラビアータだ。サラダとガーリックトーストとコンソメスープが同じく卓上にある。そして俺の前にだけ焼いたソーセージの皿がある。そんな小さな気遣いが嬉しい。
白ワインを開けた。手振りで「飲む?」と勧めたが、彼女は首を横に振って断った。
「仕事には?」
「さぁ……。まだ、分からないわ」
「待ってくれるんだ?」
「ええ、まぁ」
ぎこちない会話だ。
「一人でここに居るのは良くないよ、姉さん」
「そうね……。分かってるわ」
でも、と続くのだろうと俺は思った。
「でも……離れがたくて」
ほら。思ったとおりだった。
「急なことだったからね。けど、だからこそ、友達に来てもらうとか……」
「いえ、ここは……。私だけの家じゃないから…」
「…………」
リビングのテレビ台の横、二人の結婚式の写真が飾ってある。あれがほんの一年前のことだなんて信じられない。
「俺が一緒に住もうか?」
「だめよ」
ふいに出た言葉だった。
それなのに間髪入れずに拒絶されて、怒りが心を支配する。
「……どうして」
「それは……。分かっている、はずよ」
どくん、と心臓が大きく震えた。
まさか……。まさか知られていたのだろうか?
隠し続けていたこの想いを?
言うか……それとも……。このまま誤魔化し続けるのか……。
カラン……、とワインクーラーの氷がステンレスの器を鳴らす。まるで薄紙を破るようにいとも容易く、小さな異音は沈黙と共に俺と彼女の関係すら打ち壊した。
「もう今日は帰って。また、私から連絡するわ」
そんな白々しい嘘で取り繕っても、後戻りなんて出来やしない。それは彼女も分かっていた。小刻みに震える肩が、こちらを見ることのない目がそれを教えてくれている。
「いつから……?」
細い体が怯えたようにおののいた。ゆっくりと持ち上げられる白い首、俺の愛した長いまつげに縁取られた優しい垂れ目が痛みを宿してまっすぐに射抜いてきた。
「…最初からよ」
かすれた囁き声さえ甘く優しい。これを手に入れるためならばなんだってしたというのに。なぜ彼女の声は否定の冷たさを含んでいるのか。
「最初、から……?」
「そう。出逢ったときから分かっていたわ。貴方は私しか見ていなかった」
「なら、どうして! なぜ黙ってた! 俺の気持ちを知っていながら貴女は……」
「どうして言えるの? 貴方が言わないことをどうして私から言えるの……」
互いに口を閉ざして見詰め合った。
俺の愛を知っていてそれを無視したのか。笑いかけたのか。俺がどれほど心から血を流しながら貴女の側にいたのか、貴女にはきっと分からないんだろう。今すぐこの胸を掻き毟って心臓を引きづり出してやりたいくらいに体の奥が痛んだ。
そんな恨み言をぶつけてやれば気が済むだろうか。いいや、空しくなるだけだ。
ただただ彼女の茶色の瞳を覗き込んだ。そこに答えがある気がして。
透明なしずくが溢れ出す。彼女の涙は誰のためへの涙なのだ。
「……せめて、遠くへやってくれれば良かったんだ」
「出来ていれば、そうね。その方が良かったわね」
その言葉だけで理解してしまった。彼女はきっと俺を遠ざけようと、もしくは遠ざかろうとしたのだろう。間違いの嫌いなひとだから。だがきっと兄さんはそれを許さなかったに違いない。あの幸せで欲張りな兄さんは、大事な弟と愛する恋人の両方を手にすることは当然だと譲らなかったのだと、俺には分かった。甘え上手でワガママで、ちょっと強引な兄さんを頷かせることなんて出来やしない。何でも言うことを聞いてくれるんだろうと信頼しきった目で見詰められたら、俺だって何も言い返せない。そんな魅力のあるひとだった。
「姉さん」
「!」
腕を伸ばして。
俺の動きに引っ込められそうになった手首を掴んだ。
テーブル越しに捕らえたその手を離さぬように、立ち上がって回り込んだ。小さく悲鳴を上げて、俺から顔を背ける彼女を後ろから抱き籠めた。想像していたよりも細い、弱々しい体を、その温もりを感じた。紅茶色のさらさらとした流れの合間から覗くうなじに口付けて、そこから立ち昇る香りに酔いしれた。
彼女の嗚咽も、腕に感じる反発も、全てが愛おしい。唇へキスしたくてこちらを向かせようとしたけれど、彼女は泣いて膝から崩れ落ちてしまった。
兄の名を呼びながら。
ああ……! どうして死んでしまったんだ、俺たちを遺して!
「泣かないで……。俺がいるよ。ずっと、側にいるから。貴女を大切にしたいんだ……」
「だめよ……。それは、だめなの。許されないわ……」
誰に許されないというんだ!
間違いなんてどこにもないのに。過ちなんてどこにもないのに。
「愛している……」
「私は、愛してないわ」
「嘘だ」
「嘘じゃない……」
だったらどうして、俺を招き入れたんだ。
俺の愛に気付いていながら。
今にして思えば、俺が想いを封じ込めていた間にも、あれと考えることはあったのだ。
勘違いだと、頭の隅に追いやって忘れてしまっただけで。
それでも彼女には俺の兄さんという恋人がいて、だから彼女もまた心を封じ込めていたのだろうか。
「好きだ、と、言ってくれないか……?」
「…………」
「そうしたら、諦められる気がする」
嘘だ。確かめたいだけだ。
「ねぇ。俺を好き……?」
「……いいえ」
「そう……」
「…………」
「だったら最後に、思い出だけくれないか? 全部とは言わないから、貴女の温もりが欲しい」
「な、にを……」
「抱きたい」
「!」
彼女は顔をくしゃっと歪めて泣いていた。痛そうに。
痛いだろう! 俺だって痛い! 心がバラバラに千切れてしまいそうだ。
「姉さん……」
「………………」
そっと胸を押し返された。謝るかのように頭を下げて。
俺を見ないままに首を横に振られた。
「キスすら許してくれないなんて……。酷い、ひとだな……」
「そうしてしまえば、みっともなく貴方にすがって泣くことしか出来なくなるもの……。お願いだから、これ以上、私に、私自身を捨てさせることしないで……」
固い言葉で自らを冑う彼女が悲しかった。
憎まれても、恨まれても良い、殺されたって構わないから、あのまま抱いてしまえば良かった。二人きりで壊れてしまえば良かった……。
どうして俺たちはすれ違うだけで、一緒にいられないんだろう。
俺も彼女も互いが互いを求めていたというのに。
たとえ後ろ指をさされたって俺は彼女がいれば何も考えずにいられるのに。彼女はそれを許さぬ高潔な心の持ち主で、誰かを不快にさせないためならどんなものだって諦めるんだろう。恋人の弟に好かれて好いたあの日からずっとそうしてきたように。
恋人と別れてその弟と関係を持つことは悪いことじゃないというのに、彼女はそれを良しとはしなかった。かといって、何の落ち度もない恋人と別れて新たな恋を探すには優しすぎて。結局、兄さんは幸せなまま死んでいき、その早すぎる死はなおさら彼女を傷つけただろうに彼女は俺にすら慰めを求めない。
こんなに近くにいるのに、こんなに遠くに感じるなんておかしいじゃないか。
俺の愛は苦い後味を残して粉々に砕け散り、その欠片は俺を今も苛む。
それから二度とあの家を訪れることはなく、彼女は行き先も告げぬままに俺を去り、いつかどこかの街角で出会ったとして、俺たちはきっと……。
俺の微熱は、まだ下がらない。