第二晶「百花霊乱」
First Crystalline: A Fuse of Bombs
千の少女らの裸体しかし死体である所の祭り灯に照らされる死体回収者は裸体ではなく死体を回収しに来ていた、つまり少女然たる様の永劫欲しさを謳う悪趣味な美的感覚に適合する剥製素材の調達だとかまた死肉の塊にまだ以って少女の型を見その腐敗増進を助ける事に躍起になれる名状し難い愛の非常を往く者への理解だとかはまるで視野に入れていない、情動の影に飲み込まれる無抵抗なる究極静を宿す性玩具の取り扱い方など慎重に考えなくてよく、ただ、若き死のエキスを高純度で取得しそれを持ち運び易い物体に変えてしまえばいいのだ、目的とされているのは人の体ではなく、物の体、少女の体の整い様にも勝る意味合いを持ち得る或る一種としての個性を十二分に発揮した物たる格別それが欲しいのだ。であるからして選びの過程では外面のみに囚われ過ぎずかと言って無視し切るでもなく少女の死体に物としての未来を上手く透かし見る事が重要になって来る。この地から垂れ下がる花のどれが心も体もいつでも繋がっているのにどうしようもない程に一つの別個である私の片割れの一部となればアンバランスは形成されるだろうか、私の注意点はそこに集中する。私はこの花一つ一つが花に繋がっていた人の短い生の始終を語っていると考えている、波風立てずに静かに自らの死を受け入れた人、花を受け入れようとして花ではない自分を受け入れられなくなった人、花を破壊しようとして自分を壊してしまった人、花畑の景色に魅せられ過ぎてそこから動けなくなり果てた人、見えない何かを目指して必死で足掻いた人、見えない何かから必死で逃げようとした人、見えない何かを目指す事も無くそれから逃げる事も無くただ怯える事しか出来なかった人、ひたすら延命を目指しとことんまで花の都合に合わせた人、逆にそれを出来る限り蔑ろにして短命に終わった人、そういった様々な人生模様が花の姿の中に見え隠れしている気がしてならないのだ。その人生のどれも非難する気はないし賞賛する気にもなれない、一体何をどうする事が正解なのか、いやそもそも正解と呼べる物が存在するのか定かではないこの世界での過ごし方をどう評価していい物か皆目見当が付かないからだ。ただ分かるのは、時たま気がおかしくなって花との接続が解除された様になっている人が居た事だ、もはや死の足取りもその全てが判ると言う程に花との日々が終わりに近づいて来た頃になって頭の中の花園の住人と化してしまったらしき人々の墓碑である水仙を感じ取る度、私はこれぞと考えて収穫することにしている。もしそうした花が崩れ出来た水を私に繋がった花に与え続ければ花と人とは繋がっているべき物、と言うこの世界での狂気の常識が覆るかも知れない、安定した強固さを示す私と花とを縛る鎖に錆が生まれるかも知れない。勿論基本的に私と花との繋がりが絶たれれば即ち死が待っている事になっているが繋がりを無理やりにではなく自ら絶ってみせた人の存在の証拠をこの花畑で感じ取る事が出来ない以上、これはやってみる価値の有る事だと言えるだろう。私側にも、花側にも等しく爆弾は置かれ、その導火線は一本に繋がっている。それで如何に上手い事導火線の花側寄りに着火して見せるかだ、九分九厘それで私は死ぬが花をまず砕いてみせる事に意味の有りや否や、そんな悲惨な希望だけがとある一囚人に独房の外の見えない何かに対する抵抗意欲を抱かせてくれるのだった。
Second Crystalline: Third Eye
見えぬ異界の門を幾度も潜り抜け常態御辞儀の慇懃無礼者は予め収穫する事になるやも知れぬ遠くない未来の一時における妻の胃袋の住人として足る少女候補らに安っぽい感謝と哀悼の意を撒き散らかしつつ練り歩く、少女ら一人一人の吟味をしつつ御辞儀の表明する所の心に無さを顔に張り付けられた苦痛が描写する表情画で証明し蹌踉めきうろつく。妻の胃は私の胃でも有りそろそろ新たな生命力補給への一式が揃えられぬのならば花と人とが空間を越えて重なり合って出来ている人花また同時に花人と呼ばれなくてはならない怪物の首が支える所の頭にして茎が支える所の花である部位が重たかったのだ、知らず知らずこんな時にさえ私は常態の平常を無視し切れなかった、少女らに囲まれた一人の祭りの心躍り様がひたすら胸を捉えて離さず首折れの私に有るべき危機感を麻痺させた。もう私に一刻の猶予も許されては居なかった、危機的状況を分かっていた筈ながら限界まで少女らと楽しみ過ぎた罰と言うべき物であろう、とにかくも次に繋がる尊い犠牲を探し出し抜き取り丸め運び出しそして愛の巣に帰って私の愛の確かさをそれによって提示せねば命は無い様だった。そうと分かっても中々行動らしい行動には移れないのが実情で、私はこれと言う少女の亡骸を見つけ出す為に瞑想にも似た途方も無い神経集中を必要とされる。しかもその沈思黙考は花の各々に対し成されなくてはならない、私の神経の網はその広がりを目の前の少女にだけしか生かす事が出来ないと言う訳だ。ただこれだけ膨大な数の花を完全に一つずつ相手にしなければならないのなら私は疾っくに花の一つに「花に与えるべき水仙に拘り過ぎて倒れた人」として刻まれ果てているだろう、或る程度の絞込みまでなら対複数に有効な勘が働くのはその時までの経験から熟知していた、そしてその勘の精度は良くて五分、当たるも八卦当たらぬも八卦のちょっとした賭博の体裁をこの花選びの儀は持っているのだ、賭けられているのが私の首で有ったと言うのがまた笑えない。
研ぎ澄ます、精神を、私と水仙以外絶対零度を脱する有限事象の何も無い無限の凍て付く広がり、宇宙空間さえ暖かく潤った常春と囁かれる程の夢か悪夢か定かではないがともかくも幻に満ちた純粋虚無帯に在る事を目指す為に。幻の透明に首折れによる苦痛の黒が滲み込んで行くがその影響の程が分からない、人間に透明自体を直視する能力など無いからだ、その透明の向こう側に透かし見える何物かを知る時に人は透明と言う不明を察知する事が出来るだけで結局透明が不明である事実を払拭出来る状況はまず皆無である、加えて私も幻に包み込まれてしまおうと必死で第三の目を抉じ開けようとするがそれは幻を幻として見るだけの目で有るしまた初期より在る人の二つ目とは現実を見据えるだけの道具で有るので幻の向こう側に現実を探り当てる事また現実を幻の壁の向こうに感じ取る事双方適わぬ。以上二重盲によって私には幻の透明に満ちた空間の示す黒と幻などではない首折れの苦痛がこの透明幻想の領分に流れ込んで行く為の必然である擬似無色を宿した空想上の血としての黒の違いが見えない、私はこの時淀んだ現実と幻の混ざり合う狭間での混濁の中心点にて確かに透明の不明を感知していた。見つけるのだ、恒星を、私の第三の目に映る幾つかの煌きから月を除外し、月を月として照らし出している太陽を。
Third Crystalline: Angels in the Sky
擬態を生業としてごく自然で居られるのは苦痛に滲む黒き血だけではない、私の見つけねばならない目的物それ自体もまたこの暗い広がりの静寂においてどうしようも無い程に無口で生物性を放棄していて風化寸前に背景の或る装飾に終わっているのだった。だが私はそれが余りに饒舌で生物の基本的意味合いをふんだんに持ちそれ以上削られてしまうのを許さない宝石にしてこの黒をこよなく愛する前衛画家が無作為に作り上げたかに見える、「黒に落ちる月と月、月とそして月、月の隣にまた月、いや一つの日は月に紛れ込み黒を白く塗り込む光の塗料を隠し持っているがそれは絵画の中に閉ざされた物で私に使えるキャンバスの下地は黒でしか有り得ない、何故なら私は日などではなく周りから白のお零れを頂戴して細々光る振りを続ける月の一人でしかないから」と言う題の曖昧模糊とした表現技法による絵画的な明度の与えられた事物数が絞り込まれた空間における力点、中心軸上の主体格で有る事を知っている、今までもこうして花畑でのかくれんぼに付き合って来てその全てにすれすれの勝利を収めた中で一つとして見つけられてしまった少女のばつの悪そうなはにかみに心躍らなかった勝利の余韻は無い、隠れている時太陽は途轍もなく静かで透明な月の振りが上手いと言うだけの話で見つけてさえしまえばやはり太陽は太陽なのだ、私が求める小さな希望の欠片なのだ。
だがこの時には異質な問題点が捻じ込まれていた、このかくれんぼには、第三者がいてしかも違う遊びを勝手に仕掛けているのだ。それは、黒き血の事だった、或る程度臨場感の篭った真に迫った物言いが出来る事を願うが、この時の私は存在として危ない状況に置かれていた。
精神に痛みが混ざる、この状況はまず普通に生きていれば有り得ない話だろう、痛みを感じるのは肉体の役目で有って精神はそれに反応して痛いだとか悲しいだとか助けてくれだとかもう駄目だとか言葉の粒を弾けさせていればいい。また心の痛みと言う言回しが有るが痛覚の観点から言うとそれが本当に痛みと呼べる代物で有るのかは疑問符の付く所である。だがこの時私は肉体が内包している筈の精神の海に入り込んでいた、肉体と精神の在り方が丸きり逆になっていたのだ。私が痛みを感じれば恐らく精神そのものが損傷する、そして肉体は痛いだとか悲しいだとか助けてくれだとかもう駄目だとか言葉の粒を口から飛ばし続けるだろう、精神が正常に直らない限り永遠に。勿論経験論ではこうした事は語れないので一つ私がこれを支持する所であると考える事象に触れておきたい、私が求めんとしている水仙にその人生の宿った気狂い人の発狂理由だ、彼らはただ単にこの世界の不条理さに耐え兼ねて精神バランスを崩壊させたのではないのだと思う、原因はそれぞれ有るだろうが何れにせよ自分と花を生命的に追い詰めて仕舞って苦痛に満ちた中で水仙の傍だけで可能な精神世界の海への直接ダイブを敢行した際に嫌と言う程苦痛と言う異常濃度の塩水を心に染み込ませてしまったのではないだろうか、綺麗で透明な純水に満ちていた筈の心を失ってしまったのではないだろうか。こう言う傷付き方でどうなる物かは見当も付かないがそれでも傷付き破れた心のケアは可能なのかも知れない、だがそんな事は彼らには無関係である、彼らは心も体もどうしようもなくなっている余りにも人として救われない状態をそのまま保存されているのだ、心が治る隙も与えられないまま延々汚され続けているその只中に思い報われず倒れてしまったのだろうから。こうした事をしっかりと考えられる様になったのは私が死の海から求める水仙を見つけ出して数日後の事で有ったので特別初回時憐憫を胸に感慨深く海を潜って行ったと言う様な話ではないのだが今心の中で再度死海への潜行を試みる前に、改めて彼らを弔っておきたい。貴方がたの死を決して無駄にはしない、私は死海を彷徨った中でも水仙選びへの妥協をしなかった、それは貴方がたの死が今尚生命の火を高々と燃す白を強く遺していると考えるからです。貴方がたは最後、思うその理想の形では無かったにせよ苦痛の黒から開放されていました、ならば貴方がたで燃える火の後には、きっと黒い燃え滓など残らないのでありましょう、苦痛の色に染まった悔恨など遺さず、貴方がたは透明な者として、天使として天の光をその髪その輪その翼から放つ第二の生を得ているのでありましょう。貴方がたの舞う空は雲ひとつ無く晴れ晴れとしていて爽快さの代名詞ではありますが少し寂しい、もしも私が貴方がたの仲間になる日が来たのなら、天気雨でもいい、涙を流して頂けますか、花に水を与えるばかりで自分は何もかも乾いていくだけである私の為に、ほんの少し、貴方がたの七色の睫毛より滴る思いの雨を降らせて頂けますか。
ずっと瞳閉じていた私は久しぶりに空を見た。相変わらず瞳の太陽が私を笑いながら光で刺し続けている。そして瞳もまだ笑う太陽を見て微笑んでいる、涙を流す様な、自らに宿した愚かな幻想を洗い流してしまおうと言う様な意気はそこに見受けられない、私の居場所はまだここではない様だ。空の世界は私にはまだ早い、そう呟くと一人また心の深海の奥底へと沈み込む事にした。
Forth Crystalline: Seven Stars
死海は、それ自体死んでいて尚そこに入る生ある者を否定し破り捨てる不可侵領域であるが私は自分の心に広がるその黒の魔境を深く潜り込んだ、そこで浄化され透明な天空の民となった人々が羽ばたいて行く時に遺した光の羽根を回収する為に。私が欲しいのは天使の羽根であって苦痛がそのままに逝ってしまった人々の地獄にて永遠に魂すら焼かれ続けている映像の投影された冥府と現世の合間を滑空する変に明るい炎に包まれた烏のそれではない、黒を白として見せ付ける為により一層の不浄の色を宿した肉叢を食む煉獄鳥の食事現場での乱舞を執拗に物語る白の異常発色を私は注意深く避け可憐な花弁の一片舞い落ちるをかつて実演した作り物などではない混じり気無しの美色としての白持つ煌きを着実に追い求めるべきなのであった。第一海、私が精神の網を幾つか天使の羽根をその花弁に紛れ込ませていると推測される水仙に張り巡らせその包囲網の只中に自意識をも投げ込んだ作成第一回目の死海、そこに光る白は五つ有った、その一つ一つを自分の求める綺麗な羽根と仮定して真剣に診断せねばならない。そうした五つの中に純正の煌びやかさが隠れている可能性自体が半分有るか無いかと言う状況である、これが第二海第三海と作成回数を重ねる毎に集中力の関係で精度が落ちていく、更にはこの死海を死海たらしめている苦痛の黒き血が滲む量も増えていくのは間違い無かった、まさに命の危機と呼ぶに相応しい局面であった。水仙の園に着いて真っ先に取り掛かるべき事には違いないがそれでも一人の祭り等に興じてこれを先延ばしにしてしまったのは死がすぐ傍まで寄って来ているのならいっそ束の間の憩いを味わってからその死に相対しようと言う寂然とした心持の成せる業であったろう、首折れが始まった時から私は心の何処かでこのまま全てから開放されてしまう道もいいと考えてしまっていたのだ、それ程に私の首が支える人と花の両頭は重かった。
果たして、と言う言葉を持って来るのも随分と死を軽んじていて自分の存在が紙切れにしか見えず物悲しい滑稽さが滲み出て来てしまうのだがやはりに果たして第一海は試行での作為掛かりし精神被写体であって私を死以外の何処かへ近付けてくれる魔力を秘めた聖の嫋嫋は揺蕩っては無かった、若しや羽根か、と瞬時判別が有った脳内における淋漓たる行動原則の一、向希望を貫く過程において私が触れれば即時体の塩と化すであろう苦痛の黒を徹底して避けやっとの思いで辿り着いた羽根と思われた白放つ浮き物は何処かの誰かが粉々になって出来上がった塩でしかなかったのだ。塩は海での翼を人に与える、だがこの浮上への思いに満ちた海はいまや人に塩を与え過ぎてしまう、人を構成する物全てを否定して天使の粉塩で人を埋め尽くし破壊してしまう。それでは無い、私の終着点はそこではない、私の目指すのはあくまで空への翼である。目指す物の高い事に目も眩む様な思いでは有るがしかしその位に願っていなくては私はこのべた付く様な花に与えるべきとさせる水で形作られている幽閉の海に泳ぐ囚われの日々を逸脱する事は適わないであろう、私は海の青は空から来た光の姿で有る事を、海は空を盛装する青の舞妓である事を良く知っている。海の青、水仙の青そこに見える青の青白さに違和感を見出し、私は本当の青を追い求めなくては、きっと天使の羽根と言う真実を目の当りにする事もないのである。第二海。そこに見えた白は七つ、ここを死地とする水仙の中に映る彼らの声無き声とその数字は感じられた。
Fifth Crystalline: Black Devil
点在する七の天使像、その内の六は確実に白き虚無、乾きの骨頂たる水の潤いを寄せ付けぬ水が差し入れられれば即時その集合を解除してしまう天使の型を持つ塩の柱である、残る一つに関してもやはり天使の羽根などその背面に広がる鳥人の証を模した地平に安定する事を知らぬ歪な縮小山脈に相容れる物ではないと言う結論を用意して良いのかも知れぬ。だが、論理と言う条件付けを優先するまでも無く私はそれら一つ一つの口元の微笑、風に靡くその一瞬が氷結された髪の流れ、触る物全てを慈しみで満たしてくれそうな手、太陽を見た瞬間名を月と、花を見た瞬間名を太陽と人を見た瞬間名を睫毛の草原に咲く太陽の様に溌剌として月の様に優美である瞼の蕾を割って顔を出す瑞々しい花とする瞳、そう言った美を物言わずとも語る天使像を天使像たらしめている全てがただただ恋しく、近付きたい、近付いて少しでも永く彼らの美を我が傍に在る物として受け止められる柔らかな時間に埋もれたいと感じてしまっていた、目的とされる天使像の真偽判定及び偽りであった場合の事後対策などはいっそこの感情の波に促されるままにしてしまった方が余程効率の認められる所であろう、私の心の渇きはそれに相応しいだけの冷徹な審美眼を呼び起こしていたのだ、欲望のうねりの前では論理が出来る行動への軌道修正など無きに等しい。
まず私は花を見た瞬間それを髪に刺そうとして抜いて絶命した天使像の前に来てしまった、それを理解する為にまず五分間程天使像の前で感覚を押し広げなくてはならない、一人分の感覚では物足りない、他人の死に様を理解する為には感覚の器は池から小さな湖の規模を持たなくてはならないのだ。そして十分に感覚の器が広がったらそこにそれが小さな湖となれる様に水が継ぎ足される、赤い生命の水、死に様に彼らが流した苦痛の涙、血の十分量が私の中に入り込んで来る。私はそれに悲鳴を上げる事は許されない、私を包む全体としての感覚の海これは実際私の心であり私が口を広げると言う事は心を飲み込み千切る事に繋がる。落ち着いて、今受け入れた鮮血を元の水仙の聖杯に注ぎ直し、広げた感覚の海を萎ませてその用途を死に様の追体験から天使像の再度探索へと書き換えて私は黒い深海を突き進む。次、花の花弁の枚数を数えていたらいつの間にかその枚数数えが髪に移っていてあまりの枚数の多さに苛立ち髪を抜こうとしたら花弁を抜いてしまって絶命の人、その次、花の蜜の甘さを知りたくなって花に舌を入れたらそれに付着する唾液を花に与えられた水だと勘違いされて乾燥し切って絶命の人、そして次は空を目指して跳ね続けてしまい足を壊して水の運搬能力消失と看做され強制絶命の人。最後のはかなり私の求める死に様に近いものである、私はこの場合で足よりも先に頭が壊れてしまった人を求めている、空を目指して跳ねていたらいつの間にか跳ねる事自体が目的になってしまっていた様な、目的が伴わなければ行動を取る事の出来ない理性と言う鎖に縛られた人間の常識の外側で活動していた人の死に様が欲しいのだ。少し目的に近づけたかの様に思いいい気になってしまった私は油断した、黒の血がその赤黒い口を開いて虎視眈々と私と言う光乏しき海を進む盲目気味の魚を喰らいたがっている事実を一瞬心から捨て去ってしまった。私は、かくして自分から生じた黒い苦痛の名を持つ悪魔と接触した。
Sixth Crystalline: Dive into the Darkness
そこは、闇の極みとも言うべき空間であった。人間どんな闇の中に居ても瞼の開放を光探求の自由を奪われる事はまず無い、その意味で闇はとても穏やかかつ無関心である。だが、苦痛が演出するこの血で染まった闇は違う、更なる闇を追い求め闇に突入した哀れな闇ならざる者を餌だと考えるのだ、たとえその者を八つ裂きにして滲んだ色が黒でなくともその者の滲んだ色とはまた別の色素を持つ欠片と混ぜ合わせて何処までも黒の晴好雨奇を実現させてしまう。つまりは黒い和紙に縦横無尽に描かれた水墨画に使われている墨汁がこの闇の別名である、黒の晴れも晴れを覆い隠す黒の雨も全天に広がる途轍もない黒の風景でしかないのと同様、苦痛自体が生み出す死んだ色黒と生ある者を殺しその体の欠片をごちゃ混ぜにし作り上げた色黒はどちらも結果としては純度のこの上なく高い不浄の透明色黒なのだ。私はそんな黒い悪魔が囁く透明擬態賛歌、そこに無き者として存在する喜びの唄に耳を貸す事はしたくない、この苦痛の血が私の周りに有る事で絶対的に感じる事になってしまう苦痛を死によって逃れる為口を広げ苦痛の血と我が血とを交わらせ悪魔との血の契約を交わしその果てに透明人間ならぬ透明死した人間になる道など選ぶつもりは無い、それならあくまで尊厳の元死に体の有り様に何の差異無いとしても亡き者として華々しく散ってやる道を選び切ってみせる、苦痛の血に包まれつつも口を一切開かず、誰に届くとも知れない悲鳴を上げる弱者行動をせず何より心を引き千切る無様を晒さず、最後まで意識を我が物として抱きかかえたまま静かに息絶えてみせる、それが私の油断が生んだ未曾有の生命の不安定状況において私が導き出した覚悟であった。
要は苦痛の種類としては水仙に刻み込まれた花と繋がった人々の死に様の私への流し込みと大差は無いのだ、だが、その程度が大きく違う、口を広げれば口から生が抜け出ていく、と言う観点からここは人が水中にて息を止める動作を引き合いに出すのが良案と考えるが死に様の流し込みは口を開ければ即正常な脳が奪われると言う点を除けばせいぜい水面に顔を埋めて自発的にいつでもその苦しみから抜け出せる状態なだけであるのと違って苦痛への突入をしてしまうと水面に顔を埋められた赤子になってしまう、自然と言う神の殺意無き穏やかな豪腕の振れに心臓を潰される一幕を持ち出すなら足の着かない血の海で溺れ死ぬのを考えれば良いか。とにかく、生命の安全域へ辿り着くまでの予想がまるで付かない恐怖がこの時の私を包み込んでいた。口は勿論の事そのままにしておくとじわじわと浸食される様子であった事から海水中においてに近しく光の婚約者目も開ける事を許されない中、私はこの悪魔の部屋へ入り込んだ入り口へ戻るより出口を探す方を選んだ。この苦痛の血が捕食者の体を持っているなら被捕食対象をそう簡単には脱出させない仕組みになっている気がしたのだ、目を開けても闇に次ぐ闇でしかないのでなんにせよ空想するしかないが例えば入り込んだ場所の傍の血を徐々に凝固させて逃げ惑う餌を泳げなくさせてしまうであるなり、旋回動作に一回回ろうとしたら最後と言わんばかりの強烈な必要以上の助けを加えて方向感覚を失わせてしまうと言うより単純に耐え切れぬ苦痛の血との超高速接触を味合わせるであるなり計算され尽くした入り口からの脱出に関する蜜の味の罠が仕掛けられている様に思われた。
その予想の是非はともかくも幸いにして私は闇の回廊を潜り抜けた。もう二度と入り込むべきでは無いにせよそのあまりの純粋な黒の集合に対する変な憧れを拭い切れないまま、私は第五の光る天使の像を目指す事にした。
Seventh Crystalline: Five is to live, seven is to go heaven
突然だが、私は昔から五角形が好きだった。四角形の男性的な整合性と六角形の女性的な優美さの間に有る何処と無く不安定なそれには、男性でも女性でもない者、いや人にはまだ成り切れて居ない者赤子を連想させられる。これから己の存在定義を始めようとする力強さを秘めつつも尚それ自体に揺るがざる個としての価値を漂わせている印象は私に勇敢な前向きさを与える優しい音色である。だから私は第一海を五の塩の柱が支えていた事実で口笛を吹く事が出来るしこの第二海の七の礎は中に二つの安定軸を含めた五角を形成している物と信じて疑わない、そうであると言い切るだけの好ましい夢見心地が私の心の奥深くで暖かい春の歌を演奏している。だが逆に言うと、私が安定軸である二つを触る状況、つまり第七の天使像に至るまで真なる羽根を見つける事が出来ない状況がまるで想像の外側に置かれている、私は、七角形が恐い。七角形は、その形をあまりに脳裏に思い描きにくい、限り無く確かさの下存在はしているのだろうがその印象があまりにもばらけている、それはあたかも生の束縛から解放された有機物が秋空に舞い散るかの様な不安さと共に嫌な色合いで私の心を埋め尽くそうとする、血がその新鮮な明るみを失い自然に還る時の色、そう、土の色だ、空を目指す私が一番避けたいと願う、生物と言う子らの活動をそこに留めさせる強欲の巨大なる母大地の色彩だ。私の精神の海が七の水仙を墓場とする天使候補死者を選び出したのは多分、次の第三海が遠いからである、もう私には時間が無い、この第二海で全てを終わりにさせる事が出来ないのならここが死地となるであろう事の無意識的代弁なのだろう、私もまた光の粒子として死を迎え、七の暗き光線として引き裂かれこの不気味なまでに無表情の青を抱く空に虹を描く事になるという事の。だからこそこの死地として十分予定され得る第二海から後を見出せ、己の生を宿した道筋の枝分かれに際し動物の在るべき道を選べ、植物の陰を追って動物が完全な植物的存在と化す唯一の方法死の道を選ぶな、と私は私自身に忠告しているのだ、この七の輝きを抱く小さな星の海の有様で。この第五の天使像にて私のこの後を勝ち得てみせる、こう構えてみた所でどうになるものでもないのだが私は願掛けの意味も込めて自分にそう言い聞かせると辿り着いた第五の像に対する識別の沈思に耽ることにした。
Second Clustering「万解、インケルディアス・ハイメン 花の人片、シーカ・ヴァイトマー」
私の思考は、黒の七を五と柔和解釈した時点で散ってしまった様だ。七は七であり、私にとって恐怖の、死の数字と言ってもいい物だった。生命の散らばり、百の霊達の散花。それを体現する様な最終思考ルーチンが有り、そしてそれがそのまま止めとなった。
そもそも最大で五つしか有り得無かったのだ、あの塩の羽と呼んだ人だった誰かと言う仮定存在の黒い死に様は。最初見えた五つをイメージの特段の具体化無く素通りしてしまったのは、それが七と言う死の数字に飛び込む為の準備運動の様な物だったから。そして、次に見えて来た本番である七のうち、一つ目から五つ目が自分の思い描く突飛では有るが事ここに至ってある種リアルな理想として抱え込んでいた花との折り合いの付け方その上位五位、つまり死に様ベストファイブ。よくよく考えると五個目が無いのはご愛嬌で、単に生き抜く意志を持っていたその最後の抜け道、名残とでも言うべき悲しき性の成せる業だ。六つ目、これに触れた時点で死が訪れる。私に七のうち二組四つをそれぞれ同位置に有ると安堵の内に見させた悪意の二片の一つが、終わりへのスイッチだったのだ。そして隠れていたうちのもう一つ、七つ目が未来への黒にも白にもなる置き土産、死んだ感想はどうですか、これから死ぬ人間に対し与えられる情報は有りますか、ちなみに前の人間が植え込んだ罠は”何百回も水仙の園に入ったとする安堵感”だったそうだ、私はまんまとその悪夢的な罠で陥れられてしまった。
七角形を七角形として瞬時に思い描けていたら、私や私の他に死んでいった水仙の民達はどうなっていたのだろう、むしろ思い描いた人物も居たかもしれないがあの五角形への甘美な誘惑の中でそう出来るのか今となってはそれは分からない。私の五角形信仰が出て来たのも唐突だったし、生前果たしてその様な思考を抱いた事があったろうか。
さて、置き土産だがどうしようか。前回の人物は単純に私を陥れてくれた様だったが、苦痛を軽減させてくれる設定だったとも言える。慣れ親しんだ筈の水仙狩り、上手く出来ない筈は無いと。何を思い描き遺恨の種としようとそれは表裏一体、次の花の愛人に解釈は任せるとしようか。そして、私は、”花を愛している筈なのに水を上げる事の出来ない無常感”と言う心にも無い事を残した。この無常なる水やりゲームの果て、いや、無いのかも知れないが、そこに一つまみの愛の欠片有らん事を。