不安
フットサルの大会の翌日、いつもより早く出勤して、校長先生が到着するとすぐに俺たちのことを話しに行った。
俺は目が覚めてからずっと緊張しっぱなしで、校長室に入るときは、鼓動で胸が破れるのではないかと思うほど。
「児玉先生と、春に、結婚する予定です。」
たったこれだけの文章がどうにか言えたのは、出勤の途中でぶつぶつと繰り返し練習してきたおかげ。
雀野駅から学校までの道で、児玉さんはそんな俺のことを笑い通しだった。
「そうなるんじゃないかな、と思っていたんだよ。」
校長先生が、机の反対側からニヤリと笑いながら言った。
「何回か、目撃情報もあったしね。」
「はあ……、そうでしたか……。」
見られてたんだ……。
あ〜、恥ずかしい。
いったい何人の先生が、俺たちのことを察していたんだろう?
その人たちは、学校での俺たちを、どういう目で見ていたんだろう?
緊張しまくりの俺とは対称的に、児玉さんは普段と変わらぬ落ち着きよう。
俺が校長先生の質問に答える余裕がないことがわかると、俺に代わって、にこやかに応答してくれた。
それをありがたく思いながら、一方で、自分の気の弱さにどーんと落ち込んだ。前日の黒川さんの言葉も思い出して……。
朝の打ち合わせで、校長先生は、俺たちのことを発表しなかった。
なのに、俺は周囲の視線が気になって、職員室を出るまで誰とも視線を合わせられなかった。
何も知らない先生たちには、俺が何か後ろめたい隠し事をしていると思われたかも知れない。
けれど、ほっとしたのは束の間のこと。
事情を知った先生たちが、バラバラにお祝いや冷やかしの言葉をかけてくれるのだ。
そのたびに俺は恥ずかしくておろおろしてしまい、こんなことなら大々的に発表して、一気に終わらせてしまえばよかったと後悔した。
生徒たちには月曜の午前中から、ものすごいスピードで広まったらしい。
休み時間に廊下からのぞき込んで、くすくす笑っている生徒がいると思っていたら、昼休みには当番以外の図書委員も友達を連れてやって来たりした。
何も知らない生徒もいたに違いないけれど、俺には全員が俺を見て心の中で何かツッコミを入れているに違いないと思えてしまった。
顔なじみになっている生徒には
「ねえねえ、たまちゃんと結婚するんだって?」
と、単刀直入に尋ねられた。
ほかの生徒がいる前でそんなことを言われると、どうしても恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
そうやって俺が照れるものだから、ますます面白がられてからかわれた。
黒川さんとの勝負について、励ましの言葉をかけてくれる生徒も何人かいた。
それだけではない。
町田くんたちは、俺が考えていたよりもずっと色々な情報を伝えていたのだった。
廊下を歩いていると、女子生徒から
「ユキちゃーん!」
と、手を振られた。
「たまちゃんに、どんな料理をご馳走したの?」
というのもあった。
サッカー部顧問の内田先生には、
「今度の日曜に試合があるんだけど、雪見さんの美人の知り合いに連絡してもらえないかなあ?」
と言われた。
月曜日から水曜日までの間に図書室にやって来た生徒は、普段のほぼ三割増し。
家庭科の先生は2人しかいないから、生徒の約半数が児玉さんを直接知っている。そのことも、ウワサの広まり具合に大きく影響していたと思う。
それにしても、自分のスキャンダルで人を集めることになろうとは思わなかった。
けれど、これが続けば5倍までなんとか……、なんて考えて、厳しい現実にため息が出た。
「そろそろ下火になってくるんじゃない?」
木曜日の朝、児玉さんが電車の中でなぐさめてくれた。
俺に比べて余裕の表情だ。
「みんな、すぐに飽きちゃうから。今の高校生には、楽しいことがいっぱいあるからね。」
「だといいんですけど……。児玉さんは、生徒たちに何も言われなかったんですか?」
「うふふ、言われてるよ。授業の初めに『おめでとう!』っていうのから、『どうりで図書室の話ばっかりすると思った。』とか、『決め手は何ですか?』とか。まあ、今週いっぱいは続くでしょうね。」
「平気なんですか?」
そんなふうに当たり前の顔をしていられるなんて。
「予想してたから。それに、最初に “教えない” って態度で示せば、諦めておとなしくなるものよ。」
教師としての威厳か……。
俺に足りないのはそれだな。
「あ。もしかしたら、その分、雪見さんのところに行ってるのかもね。」
「う……、そうですか……?」
「うん。わたしに訊いても面白くないから、雪見さんのところに。」
「ああ……。で、俺がおろおろするから、ますます面白がって……。」
「そうね、ふふ。」
仕方ないな。
どうも俺は、人前で何か言われたりするのが苦手だから。
他人の目に自分がどう映っているのか考えると、どうしても冷静じゃいられなくなってしまう。
今だって、児玉さんと俺がまわりの人たちにどう思われているのか気になる。
まったく知り合いじゃないけれど、通勤時間帯の顔ぶれはだいたい同じだから、俺と児玉さんがいつも一緒に乗って来ることは知られているはず。
同僚や家族に、「毎朝一緒になる二人連れなんだけど、仲が良くって、見ていられないんだよね。」なんて話されていたら恥ずかしい。
増してや、学校では全員が関係者なわけで。
「まあ……、図書室に来る生徒が増えたからいいです。」
「お疲れさま。」
そうやって、児玉さんが優しくねぎらってくれることも嬉しいです。
烏が岡の乗り換え通路を歩きながら、指輪を買いに行くことを思い出した。
生徒の何人かにも、指輪のことを訊かれたのだ。
児玉さんが婚約指輪を嵌めていないのは、黒川さんとの勝負が決まっていないからなのか、と。
べつに黒川さんのことを気にしているわけじゃないけれど、やっぱり約束の品として、指輪は早く渡したい。
児玉さんが俺と結婚してくれるということを、目に見える形で表したい。
「児玉さん。今度の週末には指輪を決めましょう。」
「あ……、そう……?」
「はい。俺のものは後回しでいいですから、児玉さんが気に入ったものを選びましょう。思い切って高級ブランドの店ものぞいてみましょうか?」
「そんな……、いいよ、高いものじゃなくて。雪見さんのお給料はだいたい分かってるから。」
「はい……。ありがとうございます……。」
なんとなく複雑な気分だな。
黒川さんだったらいくらくらいの……いや! 金額の問題じゃないんだ!
「お店をたくさんまわれるように、早く出かけましょう。」
「はい。」
どのあたりがいいだろう?
老舗の宝石店が集まっているところとか?
……児玉さん?
なんとなく静かだ。
淋しそう? 困ってる?
「児玉さん? 何か心配事ですか?」
「え? ううん、何もないけど。」
「そうですか?」
「うん、大丈夫。あ、電車が来るよ。」
「あ、はい。」
大丈夫……なのかも知れないけれど、絶対に普段と違う。
どうしたのかな……?
4時間目の途中、司書室でお弁当を食べているところに児玉さんがやって来た。
誰もいないところに来られたことで、先週の踏み台事件を思い出してドキドキしてしまう。
「ええと、何か探しものですか……?」
「ああ、そうじゃなくて……。」
落ち着かない様子で俺の机の反対側に座る。
その姿は俺に、期待ではなく不安を抱かせる何かが……。
「どうしたんですか……?」
「あの……、今度の週末のことなんだけど……。」
週末?
「あの、もしかしたら、ちょっと用事が入っちゃうかも……。」
「あ……、そうなんですか?」
指輪を買いに行けないってこと?
そうか。
早く決めたいけど。
「用事なら仕方ないですよね。」
「うん……。あの、でも、まだ決まったわけじゃないの。だから……、中途半端でごめんなさい。」
「いいですよ。そんなに気にしないでください。」
「ごめんね。」
申し訳ないと思ってくれるのは分かるけれど、その淋しそうな表情はどうしてですか?
笑顔を作っても、消えていませんよ。
「あ、あの、もう食べ終わりそうだね。せっかく来たから、食べ終わるまでいてもいい?」
「もちろんです。この肉巻き、美味しいですね。」
俺には言えないことですか?
俺には関係のないことですか?
「あ、そう? 雪見さんはいつも美味しいって言ってくれるから、作り甲斐があるなあ。」
買い物に行けないのは仕方ないですけど……、児玉さんの様子が気になります。
なんとなく落ち着きがないですよ。
何か、迷っているんじゃないですか?
本当に言いたいことは、別にあるんじゃないですか?