思いがけない申し出
6月16日、月曜日。
児玉さんの前で失態を演じた翌朝は、少しばかり気まずかった。
けれど、彼女の態度は以前と変わらず、おかげで俺の緊張もすぐに解けた。
そうは言っても、ほとぼりが冷めるまでは、児玉さんをうちに招待するのは控えた方がよさそう。
態度は変わりがなくても、俺が児玉さんにしがみついて「帰らないで」と言ったのは事実で、それがどう受け止められているのか分からないから。
伊藤先生がこっそりと「横川先生と上手く行ったんだよ。」と打ち明けてくれたのはその日。
授業の空き時間らしい3時間目、図書室にやって来て、「秘密なんだけど」と言いながら、前日のデートのことを楽しそうに話してくれた。
きっと、誰かに自慢したかったんだ。
ひと通りデートの様子を披露したあと、ふと真面目な顔になって、こんなことを言い出した。
「実はね、横川先生が雪見さんのことを好きなのかもしれないって不安だったんだよ。」
「僕をですか? あははは、そんなこと、あり得ませんよ。」
あんなに美人の先生が、俺なんかを相手にするはずがない。
「そんなことないよ。雪見さんは、なんだか女性をほっとさせるような雰囲気があるから。」
「そうですか? ありがとうございます。」
この体型のせいかも?
・・・そういえば、俺にとって大事なことがあったんだ!
「ええと、実は僕・・・、その、伊藤先生は児玉先生と仲がいいので・・・もしかしたらって思ってたんですけど・・・?」
伊藤先生が横川先生のことを好きなのは分かっていたけれど、この際、そんなことはどうでもいい。
児玉さんと伊藤先生の関係を聞いておきたい。
「あ、児玉先生? 彼女は大学時代からの知り合いなんだよ。」
「大学時代から?」
「うん。児玉先生は僕の友人の・・・まあ、彼女でね。そいつが児玉先生の通っていた女子大と合同のサークルに入ってて。今はもう別れちゃってるけど。」
「あ、そう、なんです、か。」
児玉さんの彼氏・・・。
どんな人だったんだろう?
「児玉先生がこの学校に配属になったときには驚いたよ。それまでは2回くらいしか会ったことがなかったんだけど、共通の知り合いがいるとほっとするだろ? それに彼女、あのとおりいい人だし。」
「ええ・・・、そうですね。」
そうか。
伊藤先生とは何でもなかったんだ。
児玉さんは失恋したわけじゃなかったんだな・・・。
じゃあ、昨日、横川先生のことを話すとき、あんなに言いにくそうだったのはどうしてなんだろう?
「雪見さん、ちょうどよかった。」
放課後、机の本を入れ替えるために職員室に戻ると、坂口先生から声がかかった。
一緒にいるのは、同じ3年生の担任の倉本先生。俺より少し年上の女性。
手招きされてそちらへ向かうと、倉本先生が弱弱しく微笑んだ。なんとなく疲れて見える。
「雪見さん、おはなしってできる?」
いきなり尋ねたのは坂口先生。
「おはなし?」
おはなし・・・こうやって会話はしてるけど・・・。
坂口先生が言っているのは違う?
「なんかさ、ほら、大勢の前で昔話を話したりする、あれ。」
「ああ!」
ストーリーテリングのことか。
坂口先生、よく知ってたな・・・。
「ええと・・・練習すれば、それなりに・・・。その道を極めている人には及びませんけど・・・。」
「そう? よかった! いや、実はね、来月のLHRでやってもらえないかと思ってさ。」
「え? LHR・・・ですか?」
急にどうしたんだろう?
今まで授業時間内の計画には、あまり積極的じゃなかったのに。
「うん。毎年のことなんだけど、夏休み前になると、3年生がイライラし始めてね。」
坂口先生の言葉に、倉本先生が困った顔でうなずいて付け加える。
「そうなんです。部活動を引退して発散する場がなくなるし、進路の決定が近付いてくるし、成績も気になるし。ちょっとしたことでいざこざが起きたりして。」
ああ、なるほど。
「通常はね、」
倉本先生の話を引き取って、また坂口先生が話し出す。
「夏休み前のLHRは進路指導ってことになってて、まあ、話すことがなければ自習にしているんだよ。だけど今、倉本先生に、少し息抜きの時間があるといいって言われて、思い付いてね。」
「おはなしを・・・ですか?」
「うん。先週、図書室で見付けて読んだんだよ、 “おはなし” がどういうものかっていう本を。司書教諭の資格を取るときに、そういうものがあることだけは勉強したけど、具体的には知らなかったから。」
そうか。
坂口先生が資格を取ってるってことは、少なからず興味があったってことだ。
今までは忙しさに紛れて、忘れていたのかも知れない。
「なんて言うか・・・癒し効果みたいな、リラックスできる時間が作れるかな、と思ってさ。ほら、ついでに “利用者3倍” にも貢献できそうだろう?」
「そうですね・・・。」
語る話をうまく選べば、楽しい時間になるはずだ。
夏休み前のLHR・・・あと3週間くらい?
「ええと、ご希望としては、LHR全部を使って、ですか?」
「うん、そうだね。うちと倉本先生のクラス、それぞれ一回ずつ。」
「絵本と語りを組み合わせて・・・30分くらいかな。でも、僕が一人でやると、生徒が飽きてしまうかも知れません。坂口先生と倉本先生も、短い絵本か朗読でもやりませんか?」
「え、わたしが? 無理です、無理!」
倉本先生が慌てて首を振る隣で、坂口先生は思案顔。
「僕はやってみようかな・・・。うん、たまにはいいね。朗読なら何とかなるかも知れないな。雪見さん、何か選んでくれる?」
おお!
4月の初日には「忙しいから」って言ってた坂口先生が、「やってみようかな」なんて。
国語の先生だから文章を読むのは慣れているのかもしれないけど、やっぱり先週読んだという本の効果なのかも。
「はい、喜んで。じゃあ、坂口先生の練習時間を考えて、坂口先生の2組が夏休み前最後の週で、倉本先生の5組がその前でいいですか?」
「そうだね。ああ、なんだか楽しみだなあ。生徒たちがどんなふうに聞いてくれるのかと思うと・・・。」
「リラックスして眠ってしまうかも知れませんよ。」
「それならそれでいいよ。昼寝だって、癒し効果があるからね。ははは。」
そのくらいの気持ちでいどむ方がいい。
強制的に聞かせるものではないから。
「そうですね。では、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。」
「楽しみにしてるよ。」
ああ・・・、なんだか嬉しい。
坂口先生が図書室に来てくれるようになったことがきっかけで、こんな展開になった。
それも元々は、先月、机の上に本を置くことにしたのが始まりだ。
1クラス30人ちょっと。
2クラスで65人くらい。
すごいじゃないか!
図書室に戻ると、図書委員の佐藤さんが待っていた。
「あれ、今日、当番だっけ? さっき、みんな帰ったと思ったけど・・・?」
「あ、いいえ、違うんです。今日は部活のことで相談があって・・・。」
部活?
そういえば、先週話したな。
「ああ、ボランティア部だよね?」
児玉さんが顧問の。
「僕に相談? どんなこと?」
「あのう・・・、この本を読んだんですけど・・・。」
先週借りて行った本?
ああ、おはなし会の。
「こういうのって、わたしたちにもできますか?」
「おはなし会? うん、できるよ、練習すれば。小学校なんかだと、お母さんたちがボランティアでやっていたりするし。」
「あの・・・、対象年齢が高くても?」
「大丈夫だよ。大人のためのおはなし会をやってるところもあるくらいだから。」
「そうですか・・・。」
ほっとした顔して。
何か計画してるのかな?
「うちの部で、文化祭におはなし会をやろうかと思うんですけど・・・。」
「文化祭で? ああ、楽しそうだね。」
自分たちの友達や、学校見学に来た中学生くらいが対象になるのか。
選書も楽しいだろうな。
「はい。まだ決定ではないんですけど・・・、もし決まったら、あの・・・。」
「うん?」
「相談に乗ってもらえますか?」
「ああ、うん、いいよ。役に立つように、僕も勉強しておくよ。」
「よかった! ありがとうございます!」
「え、ああ、うん。」
そんなに喜ばれると、逆に恐縮してしまう。
本当にちゃんと勉強しなくちゃ。
「ちゃんと決まったら、また来ます。よろしくお願いします。」
あんなに喜んで・・・。
どうしたんだろう?
坂口先生と言い、佐藤さんと言い、今日はおはなし会の日?
うん、きっとそうだ。
こういう日があってもいいよな?