4月2日(火) その3
「レイアウトの変更、ですか?」
鳩川駅の改札口を通り抜けながら、児玉先生 ―― 児玉さんが尋ねた。
館内レイアウトの資料を探して市立図書館と書店をまわり、自宅のある鳩川駅で電車を降りたところで児玉先生を見付けた。
少し大きな声で呼ぶと顔をしかめて振り向いたので、一瞬、声をかけてはいけなかったかと不安になった。やっぱり俺のことは迷惑なのか、と。
けれど、彼女が小声で言ったのは、
「この辺りでは『先生』って呼ばないでください。」
だった。
近所の知り合いなら構わないけれど、ただ周りを歩いているだけの人たちにまで自分の職業を知られるのは気持ちが悪いから、と。
「一人暮らしを始めてから用心深くなっちゃって。」
言われてみると、なんとなく分かる気がした。
で、学校の外では児玉先生は「児玉さん」だ。
俺が頭の中で付けた「たまごさん」と似ていて、思わず笑いそうになったけど。
「なるべくたくさんの生徒に利用してもらうための “案1” っていうところです。坂口先生から、利用生徒数3倍を目標にって言われてるんですよ。」
「3倍? たいへんそう。」
「ええ。それで、とりあえずは立ち寄りやすい雰囲気に変えてみようかと思って。」
「立ち寄るっていうと……?」
「待ち合わせとか……、お昼休みに雑誌を読みに来るとか。まずは、図書室のことを思い付いてもらえるように。」
そう言うと、児玉先生がにっこり笑って俺を見上げた。
「ふうん、コンビニみたいに? でも、いいかも知れないですね。どう変わるのか、わたしも楽しみです。」
勇気100倍!
味方になってくれる人がいると、こんなに気分が違う。
「ま、まあ、時間もないので、大きく変えるのは無理だと思うんですけど。」
あんまり期待されても困ります。
「お手伝いできることがあったら、言ってくださいね。」
「ありがとうございます。」
こんなに励ましてくれるなんて、ほんとうにいいひとだ。
あの学校に児玉さんがいてくれてよかった!
「あのう…、児玉さんはずっとこちらに住んでいたんですか?」
朝から気になっていたこと。
「いいえ。ここに越してきたのはあのあとです。」
あのあと……。お見合いのあと。
感じの良い笑顔。
ほんとうに、もう気にしてないのだろうか?
「初めに雪見さんを見かけたときはびっくりしましたよ。でも、雪見さんは気付かないようだったので、そのままに。ふふ。」
「すみません……。」
「いいんです。わたし、小さいですし、髪を切ってから雰囲気が変わったってみんなに言われてますから。」
うん。
たしかに全然違います。
「それにね、雪見さんはなんとなく……、」
なんとなく?
「ぼんやりして歩いてますよね?」
「ほんやり、ですか?」
夢の中の住人みたいに見えるのか……?
「あ、いえ、ええと、ああ、考え事をしてるっていうのかな?」
「あ、はあ……。」
「ああ、きっと背が高いせいですよね。視線が普通のひとの頭の上、みたいな。」
フォローしてくれてるけど、やっぱりきっと「ぼんやり」なんだな。
まあ、失礼の塊に比べればずっとマシだ。
「あ、僕はあそこの弁当屋で弁当を買って帰りますから、ここで失礼します。」
スーパーに向かうらしい児玉さんとはここでサヨナラだ。
もう少し話したい気もするけど、これからも一緒になることはたくさんあるだろうし。
「今日のお夕飯はお弁当屋さんなんですか?」
「あはは。今日だけじゃなくて毎日です。店はいろいろですけど。」
「そうなんですか……。」
あ。
今、ちらっと俺の腹を見ましたね?
「ええと、昔は作ってたんですけど……。」
「あ、ええ、一人分を作るのって面倒ですよね。うふふ。」
お互いに取り繕った笑顔。
「じゃあ…、さよなら。」
「はい。お疲れさまでした。」
……なんだろう?
別れた後も、ちょっと楽しい。
きちんと話をしたのは今朝が初めてだったのに、こんなに気持ち良く話せるなんて、やっぱり不思議だ。
お見合いで嫌な思いをさせたことも全面的に許してくれているみたいだし、児玉さんって、ものすごくいいひとなんだな。
ちゃんと知り合いになれてよかった。
いつもどおり、弁当を2つ買ってバスに乗る。
つり革につかまってぼんやりと景色を見ていたら、視界にふわりとオレンジ色がはためいた。
――― 児玉さん?
バス通りの歩道。
交差点の手前でスピードを落としたバスが、買い物袋を提げた児玉さんをゆっくりと追い越す。
――― 気付かないよな?
と思ったら、ちょうど俺の目の前で顔を上げた。
思わず手を振りそうになって…胸の前まで上げた手を止める。まだそんなに親しくないし……。
――― 気付いてくれた?
児玉さんの親しげな笑顔。
心の中がほっこりした。