買い物のお礼は
「ほんとうに、どうもありがとう。お礼は何がいい?」
電器屋からの帰りの車の中で児玉さんが尋ねた。
お礼。
一番欲しいものは口に出しても意味がない。
その次の願いは ――― 児玉さんと一緒の時間を作ること。
「いろいろ考えて……、図々しいかも知れないんですけど。」
「なあに?」
「俺の料理を食べに来てほしいんです。」
「……料理? 雪見さんの?」
「はい。今日じゃないんですけど……、そうですね、再来週あたり。」
そのくらいになれば、料理にも慣れてくるだろう。
「手料理をご馳走してくれるってこと?」
「はは! “ご馳走” なんてものじゃないですよ。その…、誰かが食べてくれる方が、作るのもやる気が出るので。たいしたものは作れませんけど。」
「それって……、何か変じゃない?」
「そうですか?」
「うん。お礼をする立場のわたしがご馳走になるって、変だよ。雪見さんに何かメリットはあるの?」
あるんですよ。
児玉さんがうちに来てくれるっていう嬉しい展開が。
「ありますよ。自分で作った料理を、一緒に食べてくれる人がいるっていう楽しみが。」
「でも……、材料を買うお金も、料理する手間も、雪見さんがかけるのに……。」
「そうは言っても、俺が作るのは普通のメニューですよ。しかも、自炊は久しぶりですから、美味しいかどうかもわかりません。」
「そんなことは構わないんだけど……。」
だけど?
迷っている本当の理由は、一人暮らしの男の部屋に来ること?
「ねえ、ほかにないの? わたしにやってほしいこととか。」
口に出せることは、何も。
「そうですね。思い付かないんです。毎日、お弁当を作ってもらってますから、それ以上のことは……。」
「そう……。」
ダメ……なのかな、やっぱり。
でも、簡単に撤回したくない。
「あの、もしよかったら、誰かほかに呼んでも……。」
「ほかに?」
俺としては不本意ですけど、児玉さんが来てくれるなら。
「ええと、お世話になっている堀…」
「ああ、じゃあ、横川先生を誘いましょうか?」
横川先生?
「え、ええ、そう、ですね。お弁当もいただいたことがあるし……。」
どうして横川先生なんだ?
まあ、確かによく話してはいるけど……、児玉さんとも仲がよさそうだし……。
「じゃあ、わたし、声をかけてみます。」
「そうですか? よかった。ありがとうございます。」
まあ、いいや。
児玉さんにちょっとでも感心してもらえるかも知れないから。
それに、いきなり俺の部屋で二人きりとか、そんなに都合よくは行かないよな?
「でもね、それだけだと申し訳ないので、」
え?
“申し訳ない” って……そんなことはありませんけど?
「今日のお夕飯、ご馳走します。」
「……え?」
「せっかく新しい炊飯器を買ったから、それで炊きたてのご飯を食べて行ってください。ね?」
“ね?” って ――― 。
“新しい炊飯器” ?
“炊きたてのご飯” ?
もしかして、児玉さんが手料理をご馳走してくれるってことか?
それは、児玉さんの部屋に俺が招かれたってことか?
………いいのか?
「あの、ええと、い、いいんですか?」
どこまで期待していいんでしょう?
「はい。だって、雪見さんの提案だと、わたしが一方的に恩恵を受けているだけだもの。」
「はあ…、そうですか……。」
まったくいつも通りの態度。
やっぱり単なるお返し?
……でも、いいか。
今日はまだ一緒に過ごせる時間があるってことだ。
それに、児玉さんの部屋に招かれたってことに間違いはないわけだし。
「さて、そしたら、夕飯用の買い物をしなくちゃ。雪見さん、ついでで悪いけど、スーパーに寄ってくれる?」
「いいですよ。」
児玉さんと一緒なら、いくらでも、どこへでも行きますよ!
「でね、うちで荷物を降ろしたら、いったん車を置いてから来てくれる? そのあいだに、ちょっと部屋を片付けるから。」
「わかりました。」
うわ……、「部屋を片付ける」って。
なんだか実感がわいてきた。
ドキドキしてきたよ〜。
それに、「車を置いて来て」ってことは、要するに “ゆっくりしていってね。” ってことじゃないのか?
そんな〜! やっぱり?
いつまでゆっくりしていいんだろう?
ゆっくりって、どんなふうに?
あ〜〜〜!
想像だけが果てしなく……。
「うちの前の道路、路上駐車してるとすぐに通報されちゃうの。近所に神経質な人がいるらしくてね。」
「…あ、そうなんですか。」
「おとといの夜も、警察と車の持ち主が揉めてたんだ。そんなことになったら気分が悪いもんね。雪見さんの家が近くてよかった。」
「そうですね……。」
失礼しました。
“ゆっくり” は適度にとどめることにします。
「ごちそうさまでした。お邪魔しました。」
やっぱり、何も進展はなかった……。
もちろん、児玉さんの手料理は十分にあったけど。
それに、もちろん美味しかったけど。
「炊飯器が変わるだけで、ご飯があんなに美味しくなるなんて思わなかったね。今日は、ほんとうにありがとう。」
「いいえ、こちらこそ。車を出すくらいのことでしたら、いつでもどうぞ。」
夕食のあと、皿洗いを手伝い、児玉さんが入れてくれた紅茶でおしゃべりした。
それでも、まだ8時。
独身女性の部屋に招かれた “ただの友人” としては、このくらいの時間が限度だろう。
おしゃべりよりももう少しお近づきになりたいのは山々だけど、微妙な雰囲気になって、これからの関係が危うくなるのも困る。
警戒されて、うちに来る約束を白紙撤回されたりしたら元も子もないし。
「外まで送らなくていいです。ここで。」
誰にも見られることのない場所はここまで。
楽しかった時間の最後に、お別れの “何か” は望めない。
「そうですか?」
笑顔でまっすぐに俺を見上げる児玉さん。
淋しい顔はしてくれないんですね……。
その組んでいる手を握ったらどうしますか?
その頬に唇を寄せたらどうしますか?
その小さな体を抱きしめたらどうしますか?
ふ………。
ため息は胸の奥だけで。
「ごちそうさまでした。……おやすみなさい、児玉さん。」
一瞬、瞳が揺らいだように見えたのは、錯覚?
「おやすみなさい、雪見さん。気を付けて。」
いつもと同じ、優しい微笑み。
おやすみなさい。
こんなに名残惜しいサヨナラは初めてだ。
もっと児玉さんを好きになると、ますます辛くなるんだろうか?
長いあいだ忘れていた。片思いがこんなにせつないなんて。
道路に出たところで振り返る。
児玉さんの部屋は3階の一番端。外廊下に玄関のドアが並ぶだけの眺め。
「外まで送らなくていい」と言ったのは、俺。
俺のアパートまで7、8分。
人通りのない住宅街。
そうだ。
児玉さんにうちに来てもらったときには、ちゃんと送って来なくちゃ。
……そうか、横川先生もいるんだっけ。
車で駅まで横川先生を送って、それから少しだけ児玉さんと……?
約束は再来週の日曜日。
児玉さんが楽しんでくれるといいんだけど。