4月2日(火) その1
あ、人が多い。
朝、駅へのバス停に並ぶときの印象。
今度の学校は今までよりも遠いので、20分くらい早く家を出る必要がある。
家は駅から3つ目のバス停、徒歩2分。
新しい職場へは、こちらの鳩川駅から烏が岡駅で乗り換えて、そこから3つ目の雀野駅、さらに徒歩10分。
歩く分を含めて1時間10分くらいか。
駅前のコンビニで昼用の食事を買ってホームに降りると、そこもやっぱり混んでいた。
まあ、この路線では乗れないほど混雑することはないだろうけど。
新しい時間帯なので、新参者らしく控えめな気持ちで並ぶ列を選ぶ。
背が高いうえに最近は太ってきたので、混んでいる乗り物に乗るときには申し訳ない気がしてしまう。
だから、乗り換えには不便でも、なるべく空いていそうな場所に乗ることにしている。
ほかよりも短めの列に並んで時計を見ると7時11分。
8時くらいには着きたいけど……。
「おはようございます。」
女性の声?
後ろから……俺か?
知り合いなんていないはずだけど……。
勘違いだと恥ずかしい。
でも、無視したことになったら困る。
とりあえず、そうっと。
違っても言い訳ができるように。
窺うようにゆっくりと振り向く……と、にこにこ笑って俺を見上げるたまごさん。いや、違う。先生だった。
きのう、職員室で見覚えがあると思った小柄なショートカットの女の先生。
白っぽいコートに淡いオレンジ色のストールを巻いて、茶色いパンプス、茶色の大きなバッグ。
春らしい軽やかな服装が、親しみのこもった笑顔によく似合う。
「おはようございます。」
人違いじゃなくてよかった。
「もう覚えてくださったんですね。」
俺の言葉にたまごさん……じゃなくて先生が、下を向いてくすくすと笑う。
その笑い方も屈託がなくて可愛らしい。
新しい職場に俺を受け入れてくれそうなひとが、とりあえず一人はいることにほっとする。
「雪見さん、わたしのこと、覚えてませんか?」
あ。
先生も?
ってことは、話したことがある?
「あの……、すみません。見覚えがあるな、とは思っていたんですけど……。この辺りでお会いしましたっけ?」
「いいえ。一応、わたしはお見かけしてはいましたけど。」
違うのか。
じゃあ……?
「思い出せないです。ほんとうにすみません!」
頭を下げると、先生はまたくすくす笑って小声で言った。
「児玉です。児玉かすみ。」
児玉……かすみさん?
やっぱり名前も “たまご” と似てる。 ……じゃなくて!
何か聞き覚えが……。
だけど、その名前と目の前の女性の姿が結びつかない。
いつまでも首をひねっていると、児玉先生が口元に片手を寄せて背伸びをした。
周囲に聞こえたら困ること?
小柄な彼女の方に少し体を傾けると、ふわりとさわやかな香りが通り過ぎる。
柑橘系ではない、清々しい新鮮な香り。シャンプー? コロン?
一瞬のうちにかすめた疑問に頭をめぐらす暇もなく耳元で囁かれたのは ――― 。
「お見合いの相手です。」
「えっ?!」
大声を出してのけぞったのと同時に、ホームに電車が入ってきた。
小柄だと思ったのは本当で、児玉先生は頭のてっぺんが俺の肩くらいだった。
それなりに混んでいる電車の中では個人的な話はできず、隣にいる先生の存在を感じながら、最初のお見合いのことを必死で思い出してみる。
たしか、おととしの夏だ。
ホテルのレストランだった。
相手の女性 ―― 児玉先生は、淡いピンクのワンピースを着て、長い髪が肩にかかっていた。
年齢は、俺より一つ上。
学校の先生だと聞いていたけど、小さくて優しげな姿を見て、小学校の先生だと勝手に思い込んでいた。
そこまでは、いい。
どうしようもないのは俺の態度だ!
お見合いそのものが嫌で、ふて腐れていた。
誰からか忘れたけど、 “男から断るのは相手に落ち度があるときだけ” (こんなこと言うのは清江伯母さんか?)と聞かされていたから、なんとか断られようと、わざと不愉快な態度を見せた。
二人で話したときには横柄な口のきき方をして、ろくにエスコートもしなかった。
思い出すと、冷や汗が止まらない。
あのあと伯母さんにこっぴどく叱られたけど、その根本の部分がなんなのか、ようやく今、心からわかった。
相手をよく知ろうともせずに、お見合いだという理由だけで拒否していたなんて、なんて大人げない態度だろう。
児玉先生には何も悪いところなんてなかったのに。
ものすごく失礼だ。
しかも、雰囲気が変わっているからと言っても、名前を言われても思い出せないなんて!
ああ、落ち込む……。
「あの、ほんとうに申し訳ありませんでした。」
烏が岡駅で乗り換えのために降りたとき、心からのお詫びの言葉と一緒に頭を下げた。
「あら。」
児玉先生は楽しそうな笑顔のまま、俺の腕をぽんとたたいて「行きましょう。邪魔になっちゃいますよ。」と言った。
こんなにいいひとに、あんなに失礼なことを……。
ますます落ち込む……。
速足で乗り換え通路を歩きながら、児玉先生は周囲に目を配りつつ小声で打ち明けてくれた。
「いいんです。わたしも仕方なくお受けしたお見合いでしたから。」
「そうだったんですか……?」
「はい。母が俳句の会でお世話になっている方からのお話だったので。」
そういえば親戚で集まると、清江伯母さんが俳句の話をしていた気がする。
「雪見さんのご様子を見て、断ってほしいんだってわかってほっとしました。うふふ。」
「そうですか。……でも、やっぱり失礼しました。」
若気の至りとは言え、ふて腐れて、それを初対面の相手に態度に出すなんて信じられない馬鹿者だ。
断ってほしければ、二人で話したときに、そう伝えればよかったんだ。
このひとなら、きっと分かってくれたはず。
こうやってお詫びが言えて、ほんとうによかった。
「もういいですよ。……ねえ、雪見さん。あれからも続けてらっしゃるんですか?」
「え?」
「お見合い。伯母さま…でしたよね? ずいぶん気合いが入ってらっしゃるようだったから。うまく行きました?」
プライベートなことを尋ねられているのに、不思議と嫌な気分にならない。
児玉先生ににこにこ顔で言われると、気軽に何でも話してしまいたくなる。
俺の失敗をすでに知られているという安心感? それとも人柄?
「あれからですか? しましたよ、2回ほど。どちらも断られましたけど。」
「そうですか。ご苦労さまです。」
「ああ、いえ……、まあ。」
断られるように仕向けているお見合いなんて、よく考えたら変だよな。
「この前、伯母さんに言われてしまいましたよ。」
「何を?」
「太ったって。」
「プッ!」
先生が片手で口を押さえて向こうを向いた。
「これじゃあ、写真が詐欺みたいだって。……やっぱり児玉先生もそう思ってるんですね?」
がっかりした顔をして言うと、児玉先生はなんとか笑いを飲み込んで俺に視線を向けた。
「い、いいえ。思ってません。」
真面目顔がわざとらしい。
「ホントですか?」
「ええ、はい。ただ少し…」
少し?
「貫禄がついたなって……思いましたけど。うふっ。」
やっぱり笑い出した。
“貫録がついた” 、ね……。
オブラートに包んだ言い回しだけど、この年齢には似合わないよな?
少しは自覚していたけど、やっぱりがっかりだ。
でも……、全然不愉快じゃない。
それどころか、笑ってもらえたことにとてもほっとした。