このタイミングで?!
「ええと……。」
膝に乗った児玉さんがチラチラと視線をはずしながら、落ち着かなげに俺を見る。
近距離で見つめ合うのが恥ずかしいのか、これからどうなるのかと心配しているのか。
彼女の困った様子が楽しくて、思わず笑顔になってしまう。
「んー……、あのね、放してくれないかな?」
「イヤです。」
当たり前じゃないですか!
「でも、玄関で質問したら帰るって言ったよね?」
「『入って。』って言ったのは児玉さんです。」
ああ、児玉さんの困った顔!
もう……可愛い!
「うっ、苦し……。」
「児玉さん、大好きです!」
頭に浮かぶのはそんな言葉ばかり。
そうだ。さっきのお返しをしなくちゃ。
児玉さんが俺を褒めてくれたお返し。
自信がないと打ち明けてくれた児玉さんに、児玉さんがどれほど素敵なひとなのか、ちゃんと伝えなくちゃ!
「児玉さん。俺、児玉さんの笑顔が好きです。怒っているところも、拗ねているところも、ものすごく可愛いです。」
「うわ……。」
「先生たちへの細かい心配りとか、みんなと仲良くできることとか、世話焼きのところとか、もちろん料理が上手なことも、全部好きです。」
「……う。」
返事とも、うめき声ともつかない声。
照れくさいのを隠すため?
あくまでも色気がないところがますます可愛い!
「小さい体でいつも元気なところを見ると、俺も元気が出ます。それから……お腹に触ってくれたり、褒めてくれたり、甘やかしてくれたりされると嬉しいです。」
「……やだ。」
児玉さんの返事の意味が分からない。
けど、きっと児玉さんだって、よく分かっていないんだろう。
「焼きもちさんのところも、泣き虫さんなところも、好きです。」
「もう。」
児玉さんは体をくねらせてやっと俺の肩に手をかけ、俺を押しながら体を離した。
「……雪見さんだって、泣いたじゃない。」
ちょっと恨めしげな瞳。
でも。
「そんな目も好きです。その髪も、おでこも。その口も。」
また目を剥いてる。
そんなに変ですか?
でも、キスさせてください。
「ゆきみ、さん……。」
困った顔をしている児玉さんにゆっくりと近付いて……。
「 ――― ん?」
唇が触れると思った瞬間、何か、脚のあたりで気持ちの悪い振動が。
微かだけれど、振動音も聞こえる。
電話? いや、無視無視!
あ、児玉さん、離れないで……。
「雪見さん。電話じゃない?」
「え? あ、そう、ですか?」
違います!
絶対に違います!
「ほら……、あ、あった。ほらね、やっぱり鳴ってるよ。」
ああ、パーカーのポケットなんかに入れておくんじゃなかった!
「いえ、あの、出なくても。」
あ、児玉さん、取り出さなくていいですから。
「そういう訳にはいかないでしょう? こんな時間に電話してくるなんて、緊急の御用かもしれないし……あ、黒川さんだ。」
「えぇ?」
よりによって、このタイミングで?!
絶対に “緊急の御用” なんかじゃない!
「わたしは一緒にいないことにしてね。」
う〜〜〜、出るしかないのか?
くそー、呪ってやる!
『あ、悪いね、こんな時間に。仕事が忙しくて、なかなか時間が取れないものだから。』
「……いいえ。」
いっそのこと、徹夜で仕事になってしまえばよかったのに……。
隣に椅子を持って来て心配している児玉さんに催促されて、音声をスピーカー機能に切り替える。
黒川さんの用事は予想した通り、例の “勝負” のこと。
俺の最近の運動状況(月1度のフットサル)を確認したあと、自分と同じくらいだと判断し、来年2月に開かれる鯨崎市のマラソン大会の10km部門への参加を指定した。
すかさず児玉さんが、手帳で来年のカレンダーを確認する。
『参加の手続きはこっちでやっておくから。』
この大会では黒川さんの会社が、例のスポーツドリンクの宣伝でスポンサーになっているらしい。
「わかりました。」
10kmのマラソンか……。
もう何年もちゃんと走ってないけど、最近は体重も減らなくなっていたところだから、ジョギングはちょうどいいかもな。
勝負となると、それなりに練習は必要だろうけど、4か月もあれば……。
『キミが負けても、かすみと別れろとは言わないから安心してていいよ。』
隣で児玉さんがうんうんと頷いている。
児玉さんと俺とのあいだに、あなたは関係ありませんから ―― と、心の中で言っておいた。
『キミは、以前のかすみを知らないだろう?』
さっさと電話を切りたい俺にかまわず、黒川さんが話し出す。
この前と今日で、黒川さんが口が達者なひとだということは十分に分かった。
『今はずいぶん……勇ましくなったけど、本来の彼女は違う。あれは、俺と別れて一人で生きて行く決意をして身に付けた鎧だ。』
“鎧” って……本気でそう思ってるのか?
思わず児玉さんを見たら、児玉さんは懸命に「違う!」とアピールした。
『人はそう簡単に変われるものじゃない。本当の彼女は今も、か弱くて庇護されるべき存在なんだ。』
“本当の彼女” ?
“か弱くて庇護されるべき存在” ?
――― 何言ってんだ、こいつ?
お腹の底から、白々とした想いが湧いてきた。
「本当の彼女」なんて、ずっと会っていなかったくせに、よく言えるものだ。
『2年間、彼女は一人で頑張って来た。そこにキミがタイミング良く現れて、そばにいるようになった。ただそれだけさ。彼女は自分で気付くはずだ、俺の方が頼りになる男だってことにね。俺と一緒になれば、何も心配はいらないって。』
マラソンの勝負でそこまで伝わるのか?
それとも、この前の俺を見て判断した結果?
どっちにしても、あのとき児玉さんにきっぱりと言われたにもかかわらず、相変わらずの自信過剰ぶり。
隣で本人が聞いているとも知らないで。
「そうですか。」
『だから、俺がわざわざ別れろと言う必要はないのさ。はははは。』
「…………。」
返事をするのも馬鹿馬鹿しい。
『当日は、もちろんかすみも来るんだろう? ゴールしたあと、彼女がどっちに走り寄るか、今から楽しみだよ。あはははは!』
はいはい。
俺も楽しみにしてますよ。
黒川さん。
あなたは、児玉さんのことを何も分かっていない。
今ならはっきり分かります。児玉さんがあなたを断った理由が。
児玉さんは、誰かに幸せを与えてもらいたいひとじゃない。
お互いに喜びを与え合って、一緒に幸せを作っていくひとなんです。
電話を切って児玉さんを見たとき、最初に出た言葉は、
「児玉さん、ほんとうにあの人のことを好きだったんですか?」
だった。
児玉さんは、
「大学生のときには素敵に見えたんだけどねえ……。」
と、ため息をついた。
よくあんなヤツを……と思ったところで思い出した。俺だって、2年前のお見合いのときは、ひどい馬鹿者だった。
その馬鹿者を、今の児玉さんは、結婚の相手に決めているのだ。
人間は変わることができる。
黒川さんは「簡単に変わらない。」と言ったけれど、俺はそうは思わない。
悪かったと気付いたら、良くなるように努力すればいいい。
今でも俺は完璧ではないけれど、児玉さんは俺の頑張り屋のところが好きだと言ってくれた。
「そういえば、児玉さんって、以前は今とそんなに違ったんですか?」
黒川さんが、 “鎧をまとっている” と言うほど?
「ああ、うん、そうよ。」
にっこりと、楽しそうに微笑む児玉さん。
彼女は変わったことを後悔していないのだ。
「どんなふうに……?」
「うふふ、それはまた今度ね。今日は遅いから帰りなさい。」
え?!
「だって、ほら、もうすぐ12時だよ。寝なくちゃ。」
「そんな……、さっきの続きは?」
「また今度。ね?」
うー……。
こんなふうに言われたら、諦めるしかないか。
雰囲気も壊れちゃったしな……。
「じゃあ……、帰ります。」
まあいいや。
今日は、お互いの気持ちをきちんと確認できたんだから。
靴を履いている途中で、児玉さんが思い出したように言った。
「ねえ、来るときに助けてあげたベビーカーの女の人に、赤ちゃんを抱っこしてほしいって言われなかった?」
「は? いいえ。どうしてですか?」
「ほら、なんか、そういう幽霊っていなかったっけ? 赤ちゃんを抱いた女の人が、通りすがりの人に『この子を抱いてください。』って頼むの。で、抱っこしてあげると、その赤ちゃんが重くて、石だったりするの。」
幽霊って?!
「児玉さん!」
「……あ。怖かった?」
「怖いですよ! 鳥肌立ってきました。」
「ごめんね。でも、大丈夫だよ、ベビーカーだったんでしょ? 抱いてたわけじゃなくて?」
自分で言ったくせに!
「幽霊だって、現代風に変わってるかも知れないじゃないですか。どうしよう? 怖くて帰れません。」
「そうだったよね、ごめんごめん。バス通りを行けば……。」
「ダメです。もう無理。今夜はこのまま泊めてください。明るくなってから帰ります。」
「何言ってんの?! それじゃあ、わたしのほうが怖いよ!」
「ダメですか……?」
「ダメです。」
仕方ない……。
「わかりました。いいですよ、走って帰りますから。」
上り坂ですけどねっ!
「今日からジョギングの練習ができてラッキーだったね。」
ああ……、ものごとの明るい面を見るのは大事なことですね……。
「はい。」
「あ、雪見さん、ちょっと。」
内緒ばなし?
と思ったら、ほっぺたにキスしてくれた。
「無事に帰れるように、おまじない。おやすみなさい、雪見さん。」
「……おやすみなさい、児玉さん。」
児玉さんの笑顔で勇気が出た。
……少しだけ。