狗と呼ばれて 3
ヘリオ・ブレイズの帰還指令が出てから、二日経った日の夕方の事であった。
ドン・ドン・ドン
「はーい、どうぞ」
激しく扉を叩く音に、鈴音が答える。
ドン・ドン・ドン
「鍵は掛けてないですよ、どうぞ、入って下さい」
ドン・ドン
「鈴音、手がふさがっているのかもしれない。開けてやってくれ」
「はい」
快い返事と共に鈴音が扉を開けた。
ガチャ、ドサ……
「キャー!」
自分の方に向かって倒れてくるものに驚き、鈴音は悲鳴と同時に、頭を両手で覆ってへたり込んだ。
それを見た俺は慌てて鈴音に声をかける。
「何だ! どうした鈴音!」
「に、兄さん……アリエラちゃんが……」
「何だって」
俺は鈴音に近づくと、埃まみれのアリエラが倒れて込んでいた。
「おいアリエラ、どうした。大丈夫か?」
俺はうつ伏せのアリエラを、抱え上げながら仰向けに起こし、そして問いかけた。
するとアリエラはうっすらと目を開き、か細い声で返事をする。
「か、神楽兄さん、す、鈴音姉さん……ただいま教習より……戻りました。
でも……もう駄目かも……神楽兄さんの……腕の中で逝けるなら……アリエラは幸せです」
そういうとアリエラは静かに目を閉じた。そしてその体から力が抜けていった。
「えっ、ちょっ、こらアリエラ、訳わからんこと言ってないで……おい、傷は浅いぞ!」
俺は、抱え上げていたアリエラの小さな体を、そのままお姫様抱っこした。そして鈴音の羨ましがる様な、それとも嫉妬に燃える様な、とにかく複雑な視線の弾が飛び交う中、長椅子まで運び寝かせた。
そのとき一瞬、アリエラが「ニヤリ」と笑ったように見えたのは、気のせいだったのだろう。
「一体何なのでしょう。帰ってくるなり騒がしいわ」
冷静な判断を取り戻した鈴音から、厳しいツッコミが入り出す。
「落ち着けよ鈴音、今は静かじゃないか」
「兄さんはアリエラちゃんに、甘過ぎです!
この娘はこのまま放置です。さっさと仕事を片付けますよ」
俺は鈴音に言われるまま、アリエラをそのまま寝かせて、仕事に戻った。
すると五分もしないうちに、紙をめくる音と、ペンを走らす音だけが響いていた部屋に、アリエラの可愛らしい寝息が、静かに響き始めた。
「随分疲れれてたようだな。本格的に寝ちゃったよ」
「私も覚えがありますわ。あの野外教習は辛かったし……魔法使いだからとか、なんとか理由をつけられて、他の人の五割り増しの荷物を背負わされた覚えが……今考えると、いじめよね」
「俺は鈴音の荷物を半分持ってやれって、重量を増やされたな。
アリエラもやられたのかな」
「ところで兄さんは、またアリエラちゃんにやられましたね」
「えっと、やられましたねって……」
その時俺の脳裏にアリエラの「ニヤリ」がよぎった。
「あっ! あれか……」
「私は兄さんを見くびっていた訳ではないですし、最初に慌てたのは私ですし、今回は許して差し上げます。
ですが、一つ条件をつけます」
「なるべくお手柔らかにお願いしますよ」
「私を……なさい」
突然声が小さくなった鈴音は、耳まで桜色に染めてうつむいた。
「はい? よく聞こえませんでしたが」
「私を……こしなさい」
「鈴音さん、ですからはっきりとお願いします」
「あぁんもう! 鈍いわね! おひめさまだっこ!」
「わかりましたよ、お姫様。ところでそれは、今ここでするのですか」
「そ、それは……後でお知らせします。とにかく私が望む時です」
「了解です。
ところで、アリエラはこんなんで大丈夫かな」
俺は、教習で疲れきったアリエラが、彩華のいるトゥルーグァに、無事に辿り着く事ができるのか心配だった。
「兄さんは、まだアリエラちゃんの事が気になるんですか」
「だって、明日から彩華のところに行くんだろう。三日間歩く訳だよ、こんなんで大丈夫かなって思ったんだ。しかも鈴音が同行するんだろう。
途中で『おんぶして』なんて言い出しそうだよ」
「それは困るわね。どうしましょう兄さん」
「今から大石原総長に相談してみるよ。
とりあえず鈴音は、アリエラが起きるかもしれないから、ここにいてくれ」
「わかりました」
部屋を出た俺は、既に一般業務も終わり、職員のほとんどが退所をして、静まりかえっている庁舎内に、足音を響かせながら小走りで、大石原総長の部屋に向かった。
総長室に着いた俺は、扉脇の札で大石原総長が在室なのを確認し、扉を軽く叩いた。
コンコン
「……どうぞ」
中から秘書官の、いつ聞いても無愛想な返事が返ってくる。
それを確認した俺は扉を開けて中に入る。
「天鳥神楽筆頭魔術師です。
至急、大石原総長にお話したい事がありまして、取り次いで頂けませんか? 明日のアリエラ・エディアスの件と言って頂ければ通じると思います」
「……しばらくお待ちを」
俺を一目した秘書官が、無愛想にそういうと席を立って、総長の執務室に入っていった。
すると、すぐに扉が開き、秘書官に呼ばれた。
「……どうぞ」
そう一言いうと、秘書官は自分の席に戻った。
そして俺は執務室に入り扉を閉めた。
「失礼します。
遅くに申し訳ございません」
「アリエラ・エディアスの事と聞いたが、どういった事かな」
「先ほど、アリエラが教習より戻ってきたのですが、疲労困憊の様子で明日よりの任務にも、支障をきたす可能性があります。
できれば二、三日、いえ一日でよろしいのですが、休みを取らして頂けないかと、お願いに伺った次第です」
俺がそう言うと、大石原総長は腕を組み、目を閉じ、しばらくの後に口を開いた。
「今は戦時中や緊急時と違って一応平常時だ。時間にもゆとりがあるのでな。
アリエラ・エディアスが回復してからトゥルーグァに向かうがよい。同行する鈴音も共が疲労困憊では辛かろう」
「お気遣いありがとうございます」
「しかし神楽、お前は本当に甘いな。
この件は、アリエラのためか、それとも鈴音のためか……まあ深くは追求せぬが、鈴音の気苦労が手に取るようにわかるわい」
「大石原総長、言ってる意味が……はは」
「神楽よ、あまり鈴音に気苦労をかけるなよ。
とは言っても無理かのう。可愛らしい女子に囲まれておる上、お前は若いからな。今のうちに存分に楽しんでおけよ」
「あの……楽しんでとかって……周りで見ている人達の事ですよね。
とりあえず、今日のところは……失礼します」
ばつが悪くなった俺は総長室を後にして、再び静まり返った庁舎内に足音を響かせながら、鈴音の待つ軍務室に戻った。
「ただいま、鈴音。了解とれたよ」
俺は総長室での話を、組み立て直して鈴音に話した。
「兄さん、お疲れさまでした」
「ん、結局アリエラは目を覚ましていないか」
「どうしましょう」
「まあ、無理矢理起こすのも可哀想だし、今晩はここで過ごすか」
「はい、喜んで」
「って鈴音さん、居酒屋じゃないのですから」
「とりあえず、晩ご飯を用意しますね」
「ありがとう、腹ぺこだよ」
食事を済ませた俺達は、交代で風呂にも入り、就寝準備を整えた。
「兄さん、約束覚えていますか」
「抱っこの件か?」
「はい」
「どこまで運ぶんだ」
「そんなの決まっているじゃないですか……うふ」
「でも、アリエラが起きるぞ」
「大丈夫です。アリエラちゃんは決して朝まで起きませんわ」
「……鈴音、何かしたのか?」
「あら、私はなぁんにも、していませんわよ。
そんなことより……えへ」
こうして俺達の怪しい夜は更けていった。
朝を迎え、俺が目を開けると、既に鈴音が機嫌良さそうに身支度をしていた。それを見た俺は胸を撫で下ろした。
「おはよう、鈴音」
「あ、兄さん、おはようございます」
「そういえば、アリエラはどうなんだ?」
「先ほど見てきましたが、全く動いていません」
「それって、動いていないではなくて、動けないのでは……まあいいや」
俺は起き上がり身支度を整えると、軍務室の長椅子で寝ているアリエラの様子を見に行った。
そしてアリエラの顔を覗き込むと、既に目を覚ましているようだ。ただ鈴音の言う通り、全く動いた形跡がない。
「おはよう、アリエラ。体の調子はどうだい」
「お、おはようございます、神楽兄さん。でも、デ・モ・ヨ、動けませ・ン。
アリエラが言う事を、アリエラは全く聞いてくれませ・ン! どういうことカ・シ・ラ」
「教習で、かなりしごかれたようだね。
教習中は緊張とかで案外気にならないけど、終わって緊張の糸が途切れると、一気に疲労が押し寄せくるからね。
でも、すぐに動くようになるさ。少しの辛抱だよ。なにかあったら、俺か鈴音に言うといいよ。それとも医務室に行くか?」
「お気遣い、ありがとうございます。神楽兄さん。でもアリエラは、大丈夫です」
「それならいいけどね。
そうそう、早ければお昼頃にはヘリオ・ブレイズが戻ってくると思うよ」
「……そうですか……でも、予定より早いですね」
「彼は今、精神的に疲労しているみたいなんだ。その報告を受けた総長達が、早めに戻した方が良いと判断したようでね」
「やっぱりですか……」
「やっぱりという事は、予想していたんだね。
それでアリエラは知っているのか? 彼が守っていたものを」
そう言いながら俺は、床上へ直に座った。するとアリエラは、首をまわし頭を俺に向けて、話し出す。
「アリエラも、ヘリオ先輩から直接聞いた訳ではないので、確実ではないのですが……」
「よかったら教えてくれないか」
「構いませんけど、神楽兄さん。一つお願い……」
そこまでアリエラが言ったところで鈴音が軍務室に入ってきた。
「ん? どうしたアリエラ、お願いって」
「……ひっ! 何でもありません」
「あらアリエラちゃん、おはよう。お話ができるようになったのね。私に構わず続けて下さいね」
鈴音は突き刺すような視線で、アリエラを牽制してそう言うと、手際よく軍務室の掃除を始めた。とは言っても、アリエラの言葉を聞き逃さないために、しっかりと聞き耳は立てているようである。
「さてアリエラ、続きをお願いするよ」
「あ、はい、えっと……ヘリオ先輩はあんなヘロヘロに見えて、実は正義感がすっごく強いんです。
いつも困らせているアリエラなのに、守ってくれるんです。だから最初は、アリエラだと思っていたんです。
でも、デ・モ・ネ、違ったみたいなんで・ス」
「確かにね。アリエラを守る事だけなら、よかったんだけどね」
「ヘリオ先輩は、個人というよりもっと大きなものを、守りたいと思っていたみたいなんです」
「それは皇帝やその一族っていう意味かい」
「いいえ神楽兄さん。ヘリオ先輩はバルドア帝国そのものを守りたかったと、アリエラは思っています」
「それは俺も予想していた事だけど……確かにそれを平然と言えるだけの力を、俺達は持っているしね」
「でも、デ・モ・ヨ……ヘリオ先輩が一番信じるからこそ守りたかった国に、最後は裏切られるような形になって……しかも、シ・カ・モ・ヨ、それで結果として国が無くなっちゃった訳だし……それに、ソ・ノ・ウ・エ、敵だった人達に助けられて……
でもその神楽兄さんや鈴音姉さんのおかげで、今では前と同じように生活できてます。だからこそヘリオ先輩だけじゃなくて、アリエラも複雑なんです」
そう言うとアリエラは、俺の方に向けていた頭を戻し天井を見つめた。その目尻からは一筋の涙が流れ出していた。
「その気持ちがわかるとは言わない。だけど、俺も複雑なんだ」
俺はその涙をハンカチで拭き取りながら声をかけた。
「神楽兄さん、ありがとうございます」
「そうだ、アリエラ。彩華のところに行って警察任務にあたる、派遣命令を聞いているだろう」
「きょ、今日出発ですね……ひえっ! アイタタタ……でも、早くしないと鈴音姉さんに……」
アリエラが、まだ自由にならない体を起こそうとしたが、まだ無理のようだ。
「アリエラちゃん、時間はあるから無理しなくて良いわよ」
「ひっ! 鈴音姉さん、ごめんなさい。い、今すぐに準備します」
いきなり鈴音に顔を覗き込まれたアリエラは、慌てて起き上がろうとしたが、どうにも無理なようだ。
そして今にも泣き出しそうな顔と、「お願いですから叱らないで」と懇願するような目で、鈴音を見つめた。
「だから大丈夫よ。二、三日延期してもらいました」
「鈴音姉さん、ありがとうございます」
「私じゃないわよ、兄さんよ。
昨日のアリエラちゃんの様子を見て、それはもう心配で心配で、堪らなくなったのでしょう。
アリエラちゃんが寝付いたあと、私をほったらかしにして、大石原総長のところへ延期の申し出に行ったよ。ねえ、兄さん」
「何だか言葉の端々に棘を感じるぞ。
まあそう言う事だ、二、三日ゆっくり休みなさい。
それにヘリオも帰ってくるから、話を聞いてやってくれ」
「神楽兄さん、鈴音姉さん、本当に、ありがとうございます」
アリエラはそう言うと、先ほどまでの泣き出しそうな顔から一変、笑顔を浮かべ、なにやら軽やかな歌を口ずさみ始めた。
「ところでアリエラちゃん。教習が終わってから、お風呂にも入らずにここに来たんでしょう」
「あ、はいそうですが……教習が終わって嬉しくてつい……」
「そんな埃まみれで汗臭い女の子は、兄さんに……嫌われますよ。それに服や下着だって汚れいるんでしょう……はしたない……」
「ひっ……」
アリエラは短い悲鳴を上げ、自分の匂いをかぎ出した。そして俺の方を向くと一言いった。
「に、臭いますか?」
「えっとアリエラさん、そう言う事は異性に聞かないで下さい」
すると鈴音が手を叩きながら割って入ってきた。
「はいはいアリエラちゃん、はしたない事はやめて、今から私とお風呂に入りますよ」
「ひえっ! な、何で鈴音姉さんとですか」
「アリエラちゃん、あなた一人じゃまだ動けないでしょう。それとも私とじゃ嫌かな? 兄さんとなら入るのかな?」
「ひっ! ご、ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないんです」
「わかりました。じゃあ兄さんは、アリエラちゃんをお風呂場まで連れて行って下さい。
私は着替えを用意したら、すぐに向かいます。
それからアリエラちゃん、お風呂に入ったら、体をほぐしてあげますからね……ふふふ」
「ひえっ! 鈴音姉さんそれは……それだけは……許して下さい……お願いします」
まだ午前中という事もあって、風呂場には鈴音とアリエラの二人だけである。
アリエラの移動役を鈴音から仰せつかった俺は、時々アリエラの怪しい悲鳴が聞こえてくる外の廊下で、鈴音に呼ばれるまで待っている。
しばらくの後、鈴音に呼ばれ風呂から上がって、グニャグニャになったアリエラを抱え、俺は軍務室に戻った。
アリエラは鈴音がほぐした甲斐あって、多少は楽になったようだ。しかし、まだ動き回る事はできないようだ。
「アリエラちゃん、どうかしら、ちょっとは楽になったかな」
「は、はい」
「それはよかったわ。じゃあ今晩もお風呂でほぐしてあげるわね」
「ひっ! そ、それだけは、ご勘弁を……許して下さい」
「フーン、そうなんだ、遠慮するんだ。
まあいいわ、どうせアリエラちゃんは一人じゃ動けなさそうだから、されるがままよね……うふ」
鈴音は、小悪魔じみた目つきでアリエラ睨み、一言いった直後、俺の方に向き直し一言付け加える。
「兄さん、アリエラちゃんって、本当に可愛いわね。
私、見ていると、どうしてもいじりたくなっちゃうわ……ふふ」
「だから鈴音さん、それ怖いからやめましょうね」
そして俺達は軍務室でヘリオ・ブレイズの到着を待つ事にした。
読み進めていただき、ありがとうございます