インデックス・ファンドの恩返し
むかしむかし、ある地方都市に、心優しいけれど少しばかり将来に不安を抱えた二十歳の青年が住んでいました。名を「信一」といいます。
ある日のこと、信一がSNSのタイムラインを眺めていると、見るに堪えない光景が広がっていました。そこでは「MSCIオール・カントリー・ワールド・インデックス(通称:オルカン)」という名の**インデックスファンド**が、短期投機家たちにボコボコに叩かれていたのです。
「おい、この指数は成長が遅すぎるぞ!」
「今はレバレッジをかけた仮想通貨の時代だ、こんな退屈な投信なんて窓から投げ捨てろ!」
心ない言葉の投石を浴びせられ、画面の向こうでオルカンは真っ赤な下落チャートを流しながら泣いているように見えました。
信一はたまらなくなって、全財産をはたいてそのファンドを買い支えました。「大丈夫だよ、僕が君の価値を信じているからね」
すると、暴落の嵐は止み、インデックスファンドは感謝のしるしに一度だけキラリと緑色に輝くと、デジタル空間の彼方へと消えていきました。
数日後の夜。信一のアパートの扉を叩く音がしました。
「トントン」
扉を開けると、そこには驚くほど**スリムな姿**をした美しい投資信託が立っていました。彼女の胸元には『業界最低水準の運用コスト』というバッジが光っています。
「先日は助けていただき、ありがとうございました。私はあの日、あなたに救われたインデックスファンドです。恩返しに、あなたを本当の『自由』へと導きましょう」
彼女は信一に、一つの厳格な契約を提示しました。
1. **毎月三万円ずつ、私に積み立てなさい。**
2. **四十年間、一歩も引かずに続けなさい。**
3. **六十歳になったら、蓄えた財産を「四%ルール」で少しずつ取り崩しなさい。**
そして、彼女は冷徹なまでに真剣な表情で付け加えました。
「**ただし、約束してください。途中で決して、株価(私の中身)を確認してはいけません。** 私が何を作っているのか、今いくらになっているのか、それを見ることは禁忌です。ただ信じて、自動引き落としの通知だけを受け取りなさい」
信一は頷きました。「分かった。君を信じるよ」
### 禁断の果実、ログインパスワード
最初の数ヶ月、信一は約束を守りました。毎月三万円が口座から消えていきます。しかし、一年が過ぎた頃、悪魔の囁きが聞こえてきました。
(今、世界景気がいいらしいじゃないか。僕のオルカンはどれくらい増えているんだろう?)
一度気になると、夜も眠れません。信一はついに、彼女との約束を破り、スマートフォンの証券口座アプリを開いてしまいました。
画面に表示された数字は、驚くべきものでした。年利換算で**プラス二〇%**。
「すごい! 寝ているだけでお金が増えている!」
信一は有頂天になりました。毎日、仕事中もトイレの中でも、一日に何度もチャートを確認するようになりました。彼女が裏の部屋でパチパチと世界中の企業の利益を編み上げている姿を、覗き見ているような背徳感がありました。しかし、増え続ける数字に目はくらみ、信一は「自分は投資の天才だ」と勘違いし始めたのです。
しかし、幸福な時間は長くは続きませんでした。
ある日、世界を揺るがす巨大な経済危機が勃発しました。画面の中の数字は、まるで滝のように流れ落ちていきます。昨日まであった利益が消え、元本までもが削られ、ついには資産の半分が吹き飛びました。
「そんな……! 助けてくれ!」
信一はスリムな彼女にすがろうとしましたが、彼女はただ黙々と、全世界の株を買い付け続けるだけです。
「待てば海路の日和ありだ。またすぐに戻るはずだ」
自分に言い聞かせた信一でしたが、ここからが本当の地獄でした。株価は底を打ったまま、上がらず下がらず、どんよりとした横ばいが十年間も続いたのです。
世間では「インデックス投資は死んだ」「失われた時代」と騒がれ、かつての仲間たちは次々と市場を去っていきました。信一の心はボロボロでした。
「三万円あれば、もっと美味しいものが食べられた。旅行にも行けた。僕はなんて無駄なことをしているんだ……」
絶望の淵で、彼は彼女の顔を見ることさえ辛くなっていました。
積み立て開始から二十数年が経った頃。ようやく、暗雲が晴れました。
景気は回復し、株価はゆっくりと上昇。ついに信一の資産は、あの暴落前の水準、つまり「元本プラスアルファ」の場所まで戻ってきたのです。
信一は安堵の溜息をつきました。
「ああ、助かった。死ぬかと思った。もうこんな苦しい思いは御免だ。損失を出さずに済んだだけで御の字じゃないか」
彼は彼女の警告を思い出しました。『四十年間、続けなさい』という言葉を。しかし、恐怖が理性を上回りました。
「悪いね、僕はもう、君を信じきれないんだ」
信一は震える指で、**「全額売却」のボタンをタップしました。**
すべてを現金化したその瞬間、目の前にいたスリムな彼女は、悲しそうな、それでいてどこか悟ったような表情を浮かべて、スッと消えていきました。
その、わずか四日後のことです。
世界を根底から覆すような技術革新が発表されました。市場はかつてない熱狂に包まれ、株価は**歴史的な大暴騰**を記録しました。一日で数%、それが連日のように続き、指数は宇宙を突き抜けるような角度で上昇していったのです。
もし、信一があと一週間待っていれば。
もし、彼女との約束を守り、画面を見ずに積み立てを続けていれば。
彼は六十歳を待たずして、老後2000万円問題を解決できていたはずでした。
信一の手元に残ったのは、長年の苦労に見合わない、わずかながらの現金だけでした。
一方で、彼が手放したインデックスファンドは、空の彼方で黄金色に輝き、別の「信じる者」たちに莫大な恩返しを続けています。
信一は、今でも時折、スマートフォンの古いアイコンを眺めては呟きます。
「インデックス投資で一番難しいのは、何もしないことだったんだな……」
欲と恐怖に負け、鶴の羽ならぬ「複利の種」を自ら引き抜いてしまった男。彼はその後も、汗水垂らして働き続けましたが、二度とあのスリムな彼女が目の前に現れることはありませんでした。




