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第7話 大物たちの接触と塩対応

 探索者ギルド日本支部のロビーは、不気味なほどの静寂に包まれていた。


 鈴木悠作は、背負い慣れた仕事用のリュックサックのストラップを軽く直し、受付カウンターを後にした。

 先ほど、みのりに昨日の荷物の受領証を渡し、清算の続きは後日ということで話をつけてきた。手元にあるのは、リュックのサイドポケットに無造作に突っ込んだ、清算の控えが印字された1枚の紙切れだけだ。

 120kgあった荷物は、昨夜のうちにギルドの夜間回収ボックスに叩き込んである。今の彼の肩は驚くほど軽く、だからこそ一刻も早く、この騒がしい場所から立ち去りたかった。


(……よし、これで今日の義務は果たした。あとは帰って、さっき冷蔵庫に放り込んできた豚肉とキャベツを調理するだけだ)


 悠作の頭の中は、今朝スーパーで勝ち取った戦利品たちのことで一杯だった。

 家を出る前、炊飯器のタイマーをセットしてきた。予定では、あと15分もすれば、四畳半の部屋に炊き立ての米の香りが充満しているはずだ。

 スーパーで買ってきたばかりの豚コマ肉。あれは鮮度が命だ。冷蔵庫に入れたとはいえ、ドリップが出る前に手早く下処理を済ませ、角煮の残りのタレで最高のチャーハンを作る。それが、30歳のフリーターである彼が今朝、自分自身に課した最優先ミッションだった。


「……ん?」


 出口へと向かう悠作の歩みが、ピタリと止まった。

 自動ドアの手前。そこを塞ぐように、3人の人物が立ちはだかっていたからだ。


 中央に立つのは、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした、威厳溢れる初老の男性。

 その左右には、全身を鈍く光る魔導合金のプレートアーマーで固めた男と、冷徹な美貌を湛えた女性が、護衛のように控えている。

 ロビーにいた他の探索者たちが、彼らの姿を視認した瞬間に、まるで電源を切られたかのように沈黙し、壁際へと後退りしていく。


 だが、悠作の目には、彼らは「最短の帰宅ルートを妨害する、非常に質の悪い障害物」としか映らなかった。


(なんだ……? あの派手な鎧。……ああ、さてはギルドの新しいポスターの撮影か何かか? 邪魔だな。撮影ならもっと端っこでやってくれればいいのに)


 悠作は関わり合いを避けるため、視線を足元に落とし、彼らの脇をすり抜けようとした。

 今の彼にとって、目の前の見知らぬ大人たちよりも、炊飯器の中で蒸らされているはずの米のコンディションの方が、数万倍も重要だった。

 しかし、中央の老人が重厚な一歩を踏み出し、よく通る声で悠作を呼び止めた。


「待ってほしい、鈴木悠作殿」


「……はい? なんでしょうか」


 悠作は、隠しきれない不快感を顔に出しながら足を止めた。

 呼び止められた。それだけで、最高の状態で米を食べるためのタイムスケジュールが、数分単位で狂い始める。


「私は探索者ギルド日本支部の長を務めている、近藤という。唐突な接触を許してほしい。そしてこちらは、国内ランキング3位の『剛力』と、5位の『氷華』だ」


 近藤ギルド長。

 日本のダンジョン利権を統括し、政府に対しても強い発言力を持つ、いわばこの業界の頂点に立つ男だ。

 だが、悠作にとってその名前は「ニュースの隅っこに出てくる政治家の一人」程度の認識でしかなかった。それよりも、隣にいる『剛力』という男が腰に下げた大剣の鞘が、歩くたびにカチャカチャと音を立てるのが、耳障りで仕方がなかった。


「はぁ……。それで、何か御用ですか。俺、今から家の用事があるんで、手短にお願いしたいんですけど」


 悠作の声には、一切の畏怖が含まれていなかった。あるのは、純粋な「面倒くささ」だけだ。

 あまりに緊張感のない、投げやりな態度。

 左右に控えていた二人の探索者に、一瞬で鋭い眼光が宿った。

 特に氷華と呼ばれた女性は、周囲の気温が数度下がるほどの魔力の揺らぎを放ち、悠作を射抜くように睨みつけた。


 だが、悠作はそれを「ギルドの冷房が、今日は少し効きすぎているな。このままだと、帰るまでに体が冷えて、チャーハンの味がぼやけてしまうかもしれない」としか感じなかった。


「……驚いたな。私の殺気を、これほど自然に無視するとは。それどころか、私の顔すら見ず、どこか遠くの……今日の天気の心配でもしているような……。なんという底知れなさだ」


 氷華が戦慄し、僅かに後退りする。

 悠作は、彼女が突然黙り込んだのを「ようやく道を開けてくれる気になったのか」と前向きに捉えた。


「鈴木殿」


 近藤ギルド長が、一歩詰め寄る。


「昨日のトカゲ退治の映像、拝見させてもらった。……あのような芸当ができる者が、長年ポーターとして埋もれていたとは、ギルドの痛恨の極みだ。ぜひ、折り入って話がある。場所を変え、我々との正式な協力体制について——」


(……やっぱりこれだ)


 悠作の思考が、警戒モードに切り替わった。

「協力」。その言葉を聞いた瞬間、悠作の脳裏には、かつて深夜のコンビニバイトでしつこく勧誘された、怪しい投資詐欺や、研修と称して無償労働を強いる求人票が浮かんだ。


(協力、ね。……要するに、あんな脆い生き物を一匹どかした程度で『実はすごい人』扱いして、俺を面倒なボランティアや、ギルドのPR活動、あるいは無償の残業に駆り出そうって腹だろう。一度でも頷いたら、俺の四畳半の平穏は終わりだ。毎日、朝から晩までギルドの事務作業や、新人の教育係、あるいは地味な素材採取のノルマに追われる生活……。冗談じゃない。俺の自由な時間は、1秒たりとも渡さない。そんなことに時間を使うくらいなら、スーパーのチラシを隅から隅まで読み込みたい)


「協力、ですか。……申し訳ないですが、興味ないです。他を当たってください」


 悠作は、近藤の言葉を遮るように言い切った。

 あまりに冷淡で、慈悲のない拒絶。

 近藤は、まるで物理的な衝撃を受けたかのように言葉を失った。


「な……!? お、おい、貴様! ギルド長が直々に、君の待遇を改善させようと言っているんだぞ! この意味がわからんのか!」


 剛力が耐えかねたように声を荒らげる。

 彼の放つ圧倒的な威圧感。

 悠作はそれを、「スーパーのレジ待ちで、後ろからカートを何度もぶつけてくるマナーの悪い客」と同じカテゴリーに分類した。


「待遇とか、どうでもいいんで。……どいてください。時間がないんですよ。米が炊きあがっちまう」


「米……だと?」


 悠作は、背負った空のリュックを軽く揺らして見せた。

 120kgの荷物を運んだ昨日とは違い、今のリュックの中には財布と家の鍵、そしてスーパーのチラシくらいしか入っていない。

 だが、剛力は、その「何も背負っていないかのように軽い、無防備な仕草」に、自分との絶対的な実力差を見せつけられた気がして、思わず口を噤んだ。


「礼儀を知らない男だな……。だが、あの無防備な立ち姿。どこから攻撃しても一瞬でカウンターを食らいそうな、完璧な『無の構え』だ……」


 剛力は冷や汗を流し、一歩退いた。

 悠作は、道が開いたことに満足し、近藤の方を向いた。


「近藤さん。すみませんが、もう二度とこういう勧誘はやめてください。俺は今の生活で満足してるし、余計なトラブルに巻き込まれるのは嫌なんです。……失礼します」


 悠作にとっての「トラブル」とは、炊き立ての米が保温によって黄色く変色し始めること。

 だが、近藤の耳には「私はすでに世界の理を超越した。お前たちの小細工や利権争いに興味はない。私の静寂を乱すな」という、強者の峻厳な宣告として響いた。


「……なるほど。鈴木殿、君にとってギルドの地位も、名誉も、もはや塵芥に等しいということか。食欲を満たす以上の価値はないと、そう言うのだな」


「……はあ。まあ、そうかもしれませんね。名声じゃお腹は膨れませんから」


 悠作の言葉は、近藤をさらに愕然とさせた。

 地位。名誉。富。

 凡人が求め、権力者が縋るそれらすべてを、「お腹は膨れない」の一言で切り捨てる、圧倒的な無欲さ。

 近藤は、悠作の背中に、かつてこの国の礎を築いたと言われる伝説の武士の面影を見た気がした。


「わかった。……今日のところは引き上げよう。剛力、氷華。彼をこれ以上、世俗の理に引き摺り込むのは、我々の傲慢だ」


「ギ、ギルド長!? しかし、これほどの逸材を放置すれば……!」


「黙れ。彼は今、我々を試しているのだ。……鈴木殿。君の望む『平穏』、ギルドとしても最大限尊重しよう。だが、いつか君の力が必要になる時が来る。その時は——」


「あ、そういうのもいいんで。失礼します」


 悠作は、近藤の「いつか~」という勧誘の常套句を聞き流し、足早にギルドの出口へと向かった。

 彼の脳内は、すでに「今日の手料理」へと100%シフトしていた。


(ふぅ……。やっぱり、トカゲ一匹どかしただけで、あんな変な勧誘が来るとはな。これからはもっと慎重に、目立たないように仕事をしなきゃ。……よし、急げば炊飯器の蒸らしが終わるジャストのタイミングで帰れるはずだ!)


 悠作は、ギルドの建物を一歩出ると、周囲の視線を一切気にすることなく、最短ルートである裏道へと消えていった。

 後に残されたのは、震えながらその背中を見送るギルドのトップと、史上最高難易度の「勧誘失敗」を目の当たりにした探索者たちの、畏怖の視線だけだった。


 20分後。

 悠作は、一度も足を止めることなく、ボロアパートの自室へと帰還した。

 息一つ乱れていない。心臓の鼓動も平常通り。

 10年間、毎日100kg以上の荷物を運び続けてきた彼にとって、家までの速歩きなど、準備運動にもならない。


「……はぁ。やっと静かになった」


 悠作は玄関にリュックを置くと、深く安堵のため息をついた。

 スマホの電源を入れようとしたが、ふと思い出し、まずは故障したアダプタを確認する。

 やはり、うんともすんとも言わない。


「……明日、新しいのを買いに行くまでは、スマホは放置だな。どうせあんな勧誘のメールばかりだろうし」


 悠作は、世界中が自分の「塩対応」を武勇伝として語り継いでいることなど露ほども思っていない。

 彼は手を洗うと、冷蔵庫を開け、朝買ってきたキャベツと豚肉を取り出した。

 さらに、炊飯器の蓋を開ける。

 ふわぁっと、甘く香ばしい、完璧なコンディションの米の香りが立ち上った。


「よし……。完璧な蒸らし加減だ。お米も立ってる。セーフだな」


 悠作にとって、国内ランク上位の殺気よりも、ギルド長からの意味不明な協力要請よりも、この米が最高の状態で炊きあがっていることの方が、遥かに大きな勝利だった。

 強引に押し付けられそうになった『待遇改善』という名の厄介事よりも、目の前の98円のキャベツの鮮度が保たれている。

 それが、鈴木悠作という男の、絶対的な価値基準だった。


 彼はキッチンに立ち、昨夜からじっくり煮込まれた角煮を取り出した。

 飴色に輝く、ホロホロの肉。

 悠作は、それを丁寧に刻み、今日手に入れたばかりのバターを熱したフライパンに落とした。


「……いい匂いだ。やっぱり、バターの風味は裏切らないな」


 外の世界では、政府が悠作の扱いに頭を抱え、剛力が屈辱と感銘の狭間で震え、人々が彼の居場所を特定しようと血眼になっている。

 しかし、この4畳半のキッチンに満ちる香ばしい香りと、フライパンの上で踊る米と肉の音だけが、今の鈴木悠作にとってのすべてだった。


「いただきます」


 1人で呟き、完成した『角煮バターチャーハン』を口に運ぶ。

 濃厚な豚の旨味、バターのコク、そして隠し味の角煮のタレ。

 悠作の顔から、ついに『虚無』が消え、至福の表情が浮かぶ。


「……美味い。生きててよかった」


 悠作は、今日死守した最高の朝食を噛み締めながら、ようやく訪れた静寂を心から楽しんでいた。

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