第6話 いつも通りの翌日
「……勝った。完全勝利だ」
午前8時25分。
鈴木悠作は、朝の清々しい空気の中、ずっしりと重いレジ袋を両手に下げてスーパーの自動ドアを後にした。
袋の中には、熾烈な争奪戦を勝ち抜いて手に入れた1玉98円の瑞々しいキャベツ、100g当たり78円の豚コマ肉のジャンボパック、1Lの成分無調整牛乳、そして30%引きの食パンと、通常価格ではあったが背に腹は代えられず購入したバターが入っている。
「キャベツは外側の葉も捨てずに味噌汁の具にすれば、あと3日は戦えるな。牛乳と食パン、バターも確保した。これで明日の朝飯も安泰だ」
悠作は、彫刻のように整った顔に、わずかばかりの満足感を漂わせた。
昨夜の出来事——仕事の邪魔をした大型のトカゲを、ポーターの基本技術である小石の投擲で追い払った程度の、ごくありふれた業務上のトラブル——による疲労など、特売品のラベルに踊る「割引」の2文字がもたらす多幸感の前では霧散して消える。
彼は一度アパートに戻ると、手早く食材を冷蔵庫に収め、炊飯器のタイマーをセットした。朝食はギルドから帰宅した後にゆっくりと調理する予定だが、まずは昨日の清算のためにギルドへ向かわなければならない。
スマホの電源は落としたままだ。どうせ起動すれば、またあの「環境破壊の罰金連絡」か、あるいは「当たり前の仕事内容にいちいち確認を求める面倒な通知」が押し寄せ、なけなしのバッテリーを食いつぶすに決まっている。
悠作は、いつもの色落ちしたジャージを整え、重い腰を上げた。
彼にとっての「昨日」は、仕事の途中でトラブルに巻き込まれ、残業を強いられた挙句に帰宅が遅れたという、運の悪い業務日でしかなかった。自分が「仕事中だから映っていても構わない」と放置したカメラの向こう側に、何が起きていたかなど、考えるまでもない。
探索者ギルド日本支部。
普段は活気と荒っぽさが同居するその場所が、今日は異様な熱気に包まれていた。
入り口付近には、昨日までは見かけなかったような高級車が並び、高そうな装備を纏った探索者たちが、ピリついた空気でロビーを徘徊している。
「なんだ、えらい混んでるな。……ああ、そうか」
悠作は、ロビーの中央に設置された巨大なモニターを見上げた。
そこには、昨夜から何度もリピートされているであろう映像が映し出されていた。
画面の中の男は、退屈そうに指先を弾く。
次の瞬間には、トカゲの頭部は消滅し、巨体が崩れ落ちる。
そして映像の最後、男は足元に転がるカメラを邪魔そうに跨ぐと、一瞥もくれずに暗闇へと消えていった。
「……なんだ、あんなトカゲ一匹どかすのに、最近の奴らはどれだけ手間取ってるんだ。あんな脆い生き物をわざわざ大画面で流して……ギルドも相当暇なんだな」
悠作は、モニターを指差して騒いでいる新人探索者たちの後ろを、気配を消して通り過ぎた。
彼は自分の姿が映っていることに気づいてはいる。だが、その解釈は徹底して「ギルドによる嫌がらせ」だった。
(あんなにデカデカと晒し上げて、ギルドも悪趣味だな。確かに俺がトカゲを殺したせいで、掃除の手間が増えたりしたのかもしれないが。……それにしても、あんなデコピン程度の衝撃で頭が弾け飛ぶなんて、あのトカゲは見た目の割に相当脆かったんだな。よほど病気か何かで弱ってたのか。とにかく、あんな日常的な一幕をこうも大袈裟に宣伝されるのは、俺に対する何らかの嫌がらせに違いない。きっと、ポーターのミスでも探して、罰金でも吹っかけようとしてるんだ)
悠作の足取りは、これから突きつけられるであろう「組織による理不尽な責任追及」への懸念で自然と重くなる。
ロビーを歩く悠作の周囲で、奇妙な現象が起きていた。
騒がしかった探索者たちが、悠作の姿を視認した瞬間に、まるで電源を切られたかのように沈黙していくのだ。
身長190センチ近い屈強な体躯。覇気のない死んだ魚のような目。しかし、その立ち姿はどこか峻厳な威圧感を放っている——ように、周囲には見えていた。
「おい、あれ……」
「まさか、本物か?」
「『虚無ニキ』だ……! 間違いない、あの時のジャージだぞ!」
「しっ、こっちに来るぞ! 目を合わせるな、空間ごとデコピンで消されるぞ!」
ひそひそという囁き声が、波紋のように広がっていく。
悠作が歩む先で、探索者たちがモーセの十戒のように左右に分かれ、道を作っていく。
悠作は、その異常な光景をこう受け取った。
(……おいおい、マジかよ。やっぱり相当呆れられてるな、みんな。ギルド始まって以来の不始末をしでかした不届き者を見るような目だ。やっぱり、あの脆いトカゲはギルドにとって重要な『掃除しちゃいけない対象』か何かだったんだな。それか、俺みたいなポーターの分際で、本来は上位探索者がやるべき『とどめ』を先に済ませて、組織の面子を潰したと思われてるのか? これ、下手したら出入り禁止にされるぞ……)
悠作の頬を冷や汗が伝う。
彼は伏し目がちに、しかし最短距離で受付カウンターを目指した。
カウンター内では、普段は冷静な受付嬢たちが、悠作の接近に文字通り凍りついていた。
「……あ」
悠作は、内心で舌打ちした。
そこまで嫌われているのか。
残された唯一のカウンター席。そこには、1人の女性が座っていた。
伊藤みのり。
悠作が唯一「まともに会話ができる」と感じている存在だ。
小柄で親しみやすい笑顔が特徴の彼女は、周囲がパニックに陥っている中、いつも通りに悠作を見つめていた。
「おはようございます、悠作さん」
みのりの声は、驚くほど平坦で、慈愛に満ちていた。
その響きに、悠作の緊張が解けていく。
「……あ、みのりさん。おはようございます」
「昨日は大変な1日だったようですね。体調は大丈夫ですか?」
「ええ……。まあ、怪我はしてないんですけど。……あの、みのりさん。昨日の件なんですけど……やっぱり、不味かったですよね? あんなところで、あんなことをしちゃって……」
悠作が消え入りそうな声で言うと、みのりは少しだけ眉を下げ、困ったように笑った。
「そうですね。ギルドとしては、想定外の事態にかなり混乱しています。上の人たちも、昨夜から一睡もせずに会議室に詰めっきりですよ」
「やっぱり、そうですよね……」
悠作は、がっくりと肩を落とした。
ギルド上層部が徹夜で会議。これはもう、単なる個人の過失を超えて、組織全体の不手際として扱われているに違いない。
「でも、悠作さん。私は、あなたが無事で帰ってきてくれたことが一番嬉しいです。……おかえりなさい」
みのりの温かい笑顔が、悠作の心に染み渡る。
悠作は、昨日ギルドの夜間ボックスに放り込んできた荷物の受領証を差し出した。
「これ……昨日の荷物です。中身の確認をお願いしたくて」
「はい、承知いたしました。……それにしても、120kgを超える荷物を、あの状況からお1人で持ち帰られたなんて。さすが悠作さんですね」
みのりは手際よく書類を処理しながら、さらりと恐ろしいことを言った。
周囲で聞き耳を立てていた探索者たちが、「120kg!?」「あの状況から!?」「やっぱり化け物だ……」と、再び戦慄している。
「いや、ただの仕事ですから。……それで、清算の方なんですけど」
「はい。本来のポーター代に加え、今回は『不当な囮任務への補償』、ならびに『指定外ボスの討伐報酬』が発生します。……現在、本部の方で計算中ですが、おそらく悠作さんの生涯賃金を軽く超える額になるかと」
みのりははっきりと「報酬」と言った。悠作の耳もそれを正確に捉えた。
だが、悠作の脳内では、別の論理が働き始めていた。
(生涯賃金を超える……? そんな大金を、ただ脆いトカゲを追い払っただけのポーターに払うわけがない。……ああ、なるほど。これは『処分費用』か『迷惑料』の類か。この金を渡す代わりに、二度とギルドに関わらないようにするための手切れ金なんだな。……冗談じゃない。そんな金を受け取って『自由な仕事』を奪われたら、俺の生活は死ぬ。毎日特売に行ける今の気楽な生活こそが、俺にとっては生涯賃金以上の価値があるんだ)
悠作は、目の前に提示された「莫大な対価」を、自分の平穏な日常を買い叩き、組織から追い出すための理不尽な提案だと断定した。
「……そうですか。ですが、俺は今の生活を捨ててまで、それを受け取るつもりはありませんから」
悠作の言葉は、みのりの耳には「報酬などという俗世の数字で、私の信念は揺るがない。今の質素な生活こそが私の武の根幹だ」という意味に聞こえた。
悠作の顔は、完全な拒絶によって『究極の虚無』へと昇華された。
その表情を見たロビーの面々は、「生涯賃金を超える額を、文字通り『無価値』と言い捨てた!」「まさに無欲の極致!」と、さらなる神格化を加速させていく。
「あ、それと。みのりさん。実は朝のスーパーの争奪戦で体力を使い果たしてしまって。買ってきた食材の鮮度も気になるので、今日の仕事は休ませてもらってもいいですか?」
悠作の切実な願い。
みのりは、一瞬だけ目を見開いた後、楽しそうに笑った。
「ふふっ、わかりました。今日はゆっくり休んでください」
「……はい。ありがとうございます。それじゃ」
悠作は、足早にギルドの出口へと向かった。
彼の脳内では、すでに「角煮チャーハン」の隠し味に、今日手に入れたばかりのバターをほんの少し加えるかどうかの会議が始まっていた。
だが、彼がギルドを一歩出た瞬間。
眩しい日光とともに、彼の「いつも通りの翌日」を破壊する、新たな障害が待ち構えていた。
——だが。
カウンターの奥で1人、悠作の背中を見送っていた伊藤みのりは、彼が落としていった『レジ袋のレシート』を拾い上げ、そこに記された「30%引」の文字を見て、優しく微笑んでいた。
「30%引きのパン、無事に買えたんですね。……お疲れ様でした、悠作さん」
この狂騒の世界で、彼の「本当の価値観」を知る者は、まだ彼女1人だけだった。




