第5話 【掲示板回】虚無ニキ爆誕
世界が、音を立てて変わろうとしていた。
事の発端となった一本の動画。それは投稿からわずか3時間で1000万再生を突破し、6時間後には世界各国の主要言語に翻訳され、地球上のあらゆる端末へと拡散された。
ダンジョンという異界が日本各地に出現し、それが日常に溶け込んで半世紀。人類が「魔力」や「魔石」を文明の基盤とし、探索者の戦いを高度にパッケージ化されたエンターテインメントとして消費するようになって久しいが、これほどまでに既存の常識を無慈悲に粉砕する『暴力』が記録されたことは、かつてなかった。
タイトルは極めてシンプル、かつ衝撃的だった。
『【驚愕】B級ダンジョンに現れたS級魔竜、謎のポーターにデコピンで瞬殺される』
画面に映っているのは、逃げ出したパーティが囮として置き去りにしたポーター——鈴木悠作の背中だ。
身長190cm近い、峻厳な彫刻を思わせる屈強な体躯。しかしその立ち姿には、熟練の戦士が放つ鋭い殺気も、高名な魔導師が纏う魔力の揺らぎも一切感じられない。ただ、夕飯の献立を案じているだけのような、どこまでも弛緩した、虚無の背中。
彼が放った一撃は、既存の魔法理論や武術の理では説明のつかない「純粋な質量の暴力」であった。
あるいは、人々の心を捉えて離さなかったのは、その後の彼の行動だった。
凄まじい水柱を上げて地底湖に沈んでいくS級の厄災を一切振り返ることなく、足元に転がっていた高価な配信ドローン『ハエドリ』を、ただの邪魔な落とし物として無造作に跨ぎ、無関心に立ち去っていく姿。
この、すべてを悟った賢者の諦観とも取れる最強の無関心が、ネット上の住人たちを狂熱の渦へと叩き込んだのだ。
★★★★★★★★★★★
【国内最大級・探索者専門掲示板:地下迷宮板】
【悲報】嘆きの谷のS級ボス、荷物持ちにワンパンされる【虚無】
1:名無しの探索者
おい、マジでこれ何が起きたんだ……?
動画見たけど、俺の脳が完全にバグってる。
あの黒い竜、S級災害指定の『災厄の魔竜』だよな? 間違いないよな?
2:名無しの探索者
1
間違いねえ。去年、北欧のA級パーティが2つ全滅した相手だ。
それが……デコピンだぞ? デコピン一発で首から上が消し飛んだ。
特撮かコラ動画だろって言いたいけど、ギルドの公式アーカイブ中継なんだよなこれ。
ハエドリの偽造防止チップが機能してる以上、捏造の余地は1%もねえ。
3:名無しの探索者
逃げた『紅蓮の剣』とかいうクズどもはさておき、あのポーターは何者なんだ。
あの背中の荷物、パッと見で100kg以上あるだろ。
それを背負ったまま、マッハ超えの石礫を指先で弾き出すとか……空間魔法の究極的な応用か?
4:名無しの探索者
俺が一番ビビったのは、竜が死んだ瞬間の顔だよ。
普通、あんな化け物倒したら「やった!」とか「助かった……」とかあるだろ?
あいつ、一ミリも表情変えなかった。
まるで「あ、道端の小石を適当にどけちゃった」くらいの無関心さ。
あの顔、ネットではもう『虚無顔』って呼ばれてるらしいぞ。
5:名無しの探索者
4
虚無顔(笑)
でも確かに、悟りを開いた武神って言われたら納得するレベルの静謐さだったな。
誰かが『虚無ニキ』って命名してて草生えた。ぴったりすぎるだろ。
6:名無しの探索者
虚無ニキwwwww
でもマジで、あのカメラ(ハエドリ)を跨いで無視したのが最高にロックだった。
あれ数百万する精密機器だろ? それを「邪魔なゴミ」みたいに避けて帰るとか、どんだけ大物なんだよ。
普通、ポーターなら「ラッキー、高価な遺失物だ」とか思うだろw
7:名無しの探索者
特定班、まだ動かないのか?
あのジャージ姿の武士、どこのギルドに所属してるんだ。
8:名無しの特定班
7
今やってる。
ただ、探索者名簿にあのレベルのステータス保持者がいない。
唯一見つかったのは、Fランクポーターの『鈴木』っていう30歳の男だが……。
まさかな。ステータス欄は全部「平均以下」で登録されてる。ただのフリーターだぞ。
9:名無しの探索者
8
仮にその鈴木ってのが本人だとしたら、完全に実力隠してるタイプじゃねえか。
ポーターとして底辺扱いされながら、実はS級をデコピンで屠る実力者……。
歴史の裏側で暗躍してる伝説の家系とかか?
10:名無しの探索者
【速報】海外のトップランク探索者たちが反応し始めたぞ!
全米1位の『ジャスティス・ガイ』がSNSで「彼と手合わせしたい。あの虚無の表情は、真の強者のみが到達できる、生と死を等価値に扱う者の領域だ」って動画付きでリポストしてる。
11:名無しの探索者
10
全米1位まで動かしたのかよ虚無ニキ……。
てか、あの動画、スロー解析すると指先から黒い閃光が出てね?
魔法陣なしの無詠唱、かつ超高密度。
現代魔法学の教授が「あれは魔法ではなく、空間そのものを弾いている可能性がある」とかいう意味不明な論文を速攻でブログに上げてるぞ。
12:名無しの探索者
空間を弾くデコピン(物理)
もう理論が追いついてない。現代魔法学の敗北。
13:名無しの探索者
それより、逃げた『紅蓮の剣』の炎上烈。
あいつ、ギルド本部から緊急招集を食らってるらしいな。
「S級実力者を囮にして見捨てた」って罪状、これ相当重いぞ。
しかも全世界にその醜態が配信されたわけだし、スポンサーも全員撤退したらしい。ざまぁwww
14:名無しの探索者
13
あいつら、戻った直後の簡易会見で「俺たちが削った」とか嘘ついてたからな。
動画の完全版が出た瞬間、手のひらドリルどころか地面に突き刺さるレベルの反応だったわ。
今さら「悠作くん(笑)はただの荷物持ちだと思ってました」とか言っても無駄だよな。
15:名無しの探索者
虚無ニキの正体……30歳のフリーター説が濃厚ってマジ?
昨日、スーパーのレジで角煮の材料買ってる武士を見たって目撃証言がSNSにあるんだがwww
「角煮の味付け卵、半額でゲットした。これで勝つる」って目撃されてるぞ。
16:名無しの探索者
15
角煮wwwww
魔竜を殺した後の夕飯が角煮かよ。
「世界の危機より角煮の火加減」ってか。
益々好きになったわ。あの顔で「角煮……」とか考えてたのかと思うとシュールすぎる。
17:名無しの探索者
あいつ、ハエドリを跨ぐ時に何か呟いてたよな。
音声解析班、まだか?
18:音声解析班(仮)
17
今やってるが、周囲の地響きが凄すぎてノイズが酷い。
ただ、微かに「……たまご……」って言ってるような気がする。
19:名無しの探索者
たまごwwwww
やっぱり特売のこと考えてたのかよ!
人類最強のポーター、実は主夫属性か?
20:名無しの特定班
悠作こと鈴木の住所特定が、ギルドの名簿流出から始まってる。
すでに一部の過激なファンや記者が動いてるから、あいつの平穏は今日で終わりだな。
21:名無しの探索者
てか、あのデコピンの瞬間に「重力異常」が観測されたらしい。
計測してた観測班が「一時的に地磁気が狂った」って報告してる。
指先ひとつで地球の物理法則と喧嘩してるのかよ。
22:名無しの探索者
虚無ニキのあのジャージ、しまむらの3年前のモデルじゃねえか?
世界最強の男がしまむらのジャージ着てS級瞬殺……。
これはしまむらの株価爆上がり確定だわ。
23:名無しの探索者
22
マジだwww 1980円のジャージで数千万の魔竜を屠る男。
コスパ最強すぎるだろ。
24:名無しの探索者
俺、あの地底湖の近くの街に住んでるんだけど、
さっきからギルドの黒塗りの車が何台も走り去っていったぞ。
本格的に「確保」に動いてるっぽい。
25:名無しの探索者
救世主なのか、それとも歩く天災なのか。
あの無表情が何を考えてるのか、誰かインタビューしてきてくれ。
死ぬ気で。
★★★★★★★★★★★
デジタル空間での狂乱は、留まるところを知らなかった。
悠作の「ワンパン」シーンに、重厚なオーケストラBGMを合わせたMAD動画が作られ、彼の『虚無顔』は「絶対的な余裕」の象徴として、世界中の人々のプロフィールのアイコンに使用され始めた。
「彼は、我々の知らないところで幾多の魔王を葬ってきた守護者に違いない」
「あの無表情は、何千年も生き続けた賢者が持つ、全てを見通した後の諦観だ」
ネット上では、悠作に対する過度な神格化——いわゆる「勘違い」が、雪だるま式に膨れ上がっていた。
そんな世界の激変を余所に。
東京都内、築40年のボロアパートの一室。
午前7時30分。
「…………っつ、うるさ……」
鈴木悠作は、枕元から響く不快な振動音で目を覚ました。
アラームの音ではない。スマートフォンの、絶え間ない通知によるバイブレーションだ。
眠い目を擦りながら、昨夜充電器に挿したはずのスマホを手に取ったが、給電ランプは消えていた。
コンセント側のACアダプタを確認すると、微かに焦げたような匂いがする。長年酷使してきた安物のアダプタが、ついに寿命を迎えて内部ショートし、夜中に息を引き取ったらしい。
その結果、朝起きた時のバッテリー残量はわずか2%。
悠作は情報の喧騒に巻き込まれるのが煩わしいため、他人の私生活が見えるようなサービスには一切手を出していない。彼が登録しているのは、探索者として義務付けられている『ギルド公式アプリ』と、趣味のアニメ動画を視聴するための『D-Tube』のアカウント、そして連絡用のメールアドレスだけだ。
しかし、その限られた窓口が、今この瞬間、完全にパンク状態に陥っていた。
全世界からの特定作業の結果、彼のメールアドレスが名簿から漏洩し、数千通のスパムまがいのメールが殺到。さらにギルドアプリのシステムチャットを通じて、面識のない職員や上位探索者からの「至急連絡」が、1秒間に何十件という単位で届き続けていた。
機内モードにする暇もなく、狂ったように届き続ける通知。
残量2%。アダプタは故障。予備のバッテリーもない。
「……は?」
悠作の思考が一時停止した。
一番上に表示されていたギルドアプリの通知を開いてみる。送信者は、ギルドマスターからだった。
『鈴木悠作殿。至急、本部へ連絡をされたし。貴殿の昨日の行動について、全世界が注目している。現在、貴殿のアパート周辺を報道陣が特定しようと動いているため、不用意に外出しないように——』
「昨日の行動……報道陣?」
昨夜のニュース映像を思い出し、悠作は一つの結論に達した。
どうやら、トカゲを倒したことが環境保護団体などの逆鱗に触れ、マスコミがこぞって面白おかしく取り上げようとしているらしい。ギルドマスターの警告は、厄介なデモ隊や記者が押し寄せてくる前触れだ。
(……面倒くさい。家を特定されて賠償金や取材の対応なんてさせられたら、俺の平穏な生活が終わるじゃないか)
悠作は「事なかれ主義」の権化である。トラブルに自ら首を突っ込むような真似は絶対にしない。
昨日の夜の時点では「明日は仕事の帰りにスーパーへ行こう」と考えていたが、状況が変わった。もし昼間や夕方に外出すれば、家の周りに張り込んでいるかもしれない面倒な連中に捕まる危険性が跳ね上がる。
(予定変更だ。奴らが本格的にこのボロアパートを包囲する前に、朝イチの特売で数日分の食材を確保し、今日はギルドに休みの連絡を入れて完全に引きこもろう。それが一番安全なリスク管理だ)
悠作の損得勘定とリスク管理のロジックが、彼なりの危機感のもとに再構築された。
朝食のチャーハン作りは後回しだ。今は一秒でも早く出撃し、物資を確保して安全地帯に戻ることが最優先される。
「そうと決まれば、モタモタしていられない。8時の開店に間に合わせないと……!」
悠作は慌てて、しかし極めて冷静にスマホを操作した。
昨夜の確認で不足していた食パンとバター、そして今日のチラシの目玉であるキャベツと豚コマ肉。
それらを「今この瞬間」に正確に把握して家を出ないと、近所の熟練した主婦たちの激戦に遅れをとる。
過負荷で重い挙動の隙間を縫って、悠作は超人的な反射神経でチラシアプリのキャッシュを開き、必要な情報のスクリーンショットを脳内と端末に叩き込む。
情報を確保した瞬間、悠作は残された僅かな電力を死守するため、再び電源を物理的にオフにした。新しいアダプタを買ってくるまで、このスマホは沈黙し続けるだろう。
「ふぅ……。よし、これで完璧だ」
悠作は、整った端正な顔を『完全な虚無』に染め、ボリボリと頭を掻いた。
彼が知らない間に、彼という存在はもはや1人のポーターではなく、人類の希望、あるいは未知の驚異としての『虚無ニキ』へと変貌を遂げていた。
だが、悠作にとって「世界」とは、依然としてこの狭い四畳半と、徒歩10分圏内にあるスーパーマーケットの中に完結していたのだ。
悠作は大きくあくびをすると、着替えもそこそこに、戦場へと向かうための準備を整えた。
それは、新たなる神話の主人公としては、あまりにも生活感に溢れた、しかし彼にとっては極めて真剣な、どうしようもない1日の始まりだった。




