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第4話 虚無顔ワンパンと大バズり

 インターネットという名の情報の海に投じられた一石は、単なる波紋に留まることはなかった。それは天を突き、地を割るような巨大な津波となって、瞬く間に世界中を飲み込んでいった。


 事の始まりは、中堅パーティ『紅蓮の剣』が行っていた、何の変哲もないはずのダンジョン生配信だった。リーダーである炎上烈が、自分だけが助かりたい一心で操作端末を放り捨て、主の制御を失って地面に転がり落ちていた追従型ドローンカメラ、通称『ハエドリ』。

 そのレンズが捉え続けていたのは、人類がこれまで半世紀という時間を費やし、膨大な犠牲を払って積み上げてきた「ダンジョン攻略」という概念を、その根底から無慈悲に粉砕する、理不尽なまでの暴力の結晶であった。


 ——ズドォォォォンッ!


 地底湖の空間全体が、その強すぎる物理的衝撃に耐えかねて悲鳴を上げる。

 画面の向こう側では、首から上が微塵も残らず消失したS級災害指定ボス『災厄の魔竜』が、巨大な漆黒の肉塊と化して、煮え立つ地底湖の水面へと崩れ落ちていた。

 そして、その圧倒的な死の象徴を前にして、まるで散歩道に落ちていた邪魔な石ころでも適当に除けたかのように、無造作に、そしてあまりにも退屈そうに右手を下ろす、一人の男の背中。


 男は背中に背負った百二十キロを超える、あまりにも過積載な荷物の山を「よっこいしょ」と、重さを感じさせない軽やかさで背負い直すと、勝利の余韻に浸ることも、倒した獲物の希少な素材を確認することもなく、ただスタスタと画面の奥——出口へと繋がる、暗い通路へと消えていった。

 墜落したハエドリが、地面を舐めるような低いアングルから一瞬だけ捉えたその男——鈴木悠作の横顔は、彫りこそ深く、まるで彫刻のように整ってはいたものの、驚きも、恐怖も、あるいは達成感すらも完全に抜け落ちた、深淵のような『虚無』に支配されていた。


 その瞬間、配信をリアルタイムで見ていた五万人を超える視聴者の間には、呼吸をすることすら忘れたかのような、完全な静寂が訪れた。

 猛烈な勢いで流れていたコメント欄のスクロールが、まるで時間が凍りついたかのようにピタリと止まる。

 しかし、それは歴史という名の巨大な歯車が塗り替えられる瞬間の、嵐の前の静けさに過ぎなかった。


【D-Tube ライブコメント欄:アーカイブ参照】

《……………………は?》

《待て、今、何が起きた? 竜の首が……消えたぞ?》

《魔法……じゃない。あいつ、ただのデコピンだ。デコピンしただけだろ!?》

《嘘だろ。S級モンスターを、デコピン一発でワンパンしたって言うのかよ……!?》

《おい、あの顔を見ろよ。魔竜を殺した直後だぞ? なんで一ミリも表情が変わってねえんだヒィィィ!》

《なんという達観。圧倒的強者の余裕。これこそが、古の教典に記された『明鏡止水』、悟りを開いた武神の顔か……!》

《おい、このポーターは誰だ! ギルドの名簿を片っ端から探せ!!》

《紅蓮の剣が逃げた後、たった一人でこれかよ。ポーターってのは、実は隠し上位職だったのか……?》

《伝説の始まりを目撃した。俺たちは今、新たなる神話の立ち会人になったんだ》

《おい、世界中のSNSがこの動画のミラーで埋まってるぞ! 拡散が……拡散が止まらねえ!》

《これまでの常識が全部ゴミになった瞬間だな。俺たちの修行は何だったんだ》

《あんなにダルそうにS級倒す奴、人類史上初めてだろ……》


 驚愕はやがて狂乱へと姿を変え、その熱狂はさらなる混乱の渦を呼んで、物理的な国境すらも越えて世界中へと侵食していった。

 配信の切り抜き動画は、投稿からわずか数分でD-Tubeのトップページを独占し、あらゆるSNSのトレンドワードは瞬く間に「嘆きの谷のS級」「デコピン一発」「虚無ニキ」という、不穏で刺激的な言葉で埋め尽くされていく。


 世界中の探索者掲示板や、軍事レベルの解析能力を持つ専門家たちが集うクローズドなチャットルームでも、この映像の真偽を巡って、眠れぬ夜の激しい議論が巻き起こっていた。


「最新のディープフェイク技術だ。そうでなければ物理法則に説明がつかない」「いや、ギルドの公式中継サーバーを経由した生配信のアーカイブだ。捏造の余地は一パーセントも存在しない」「この男は誰だ? ギルドが秘匿していた隠し玉か? それとも、世捨て人となった伝説の元S級探索者か?」


 人類がこれまでの半世紀で築き上げてきた、緻密な魔法理論、魔力の練り上げ、そして厳格な詠唱の重要性。それら全てが、たった一人の男が放った、あまりにも投げやりな『デコピン』一つによって、無慈悲に否定されようとしていた。

 だが、そんな地球規模の騒動の、文字通りの中心地にいる男——鈴木悠作は、自分が歴史的な事件の当事者になったことなど、微塵も気づいていなかった。


★★★★★★★★★★★


「——ふぅ。全速力で走った甲斐があった。まだ特売の品切れにはなってないみたいだな」


 悠作は、自宅アパートからほど近い場所にある、昭和の面影を色濃く残した、年季の入った寂れたスーパーマーケットの惣菜売り場で、静かに、しかし深い安堵の息を漏らしていた。

 店内に絶え間なく流れる、中毒性の高い安っぽい電子音のBGM。そして、今日の献立について頭を悩ませる主婦たちの、喧しいほどに活気ある話し声。

 夕飯の買い出しに急ぐ人々が忙しなく交差する、このありふれた平和な日常の風景こそが、今の彼にとって、いかなるダンジョンの秘宝よりも価値のある場所であった。


 時刻は十八時十分。

 ダンジョンの深層から、他人の目——特にあの卑劣な『紅蓮の剣』や他の探索者たちの目——につかないようなショートカットを駆使して帰還した彼。

 その実態は、最短距離で地上に繋がる、厚さ数百メートルに及ぶ強固な岩盤を、【絶対運搬】の応用による超質量破壊で、まるで薄い壁でもぶち抜くかのように強引に「壁抜き」して直走るという、現役のトップS級探索者ですら絶句し、思考を停止させるような爆走であった。

 その甲斐あって、彼はどうにか夕方のタイムセールの終盤戦、最も激しい割引の応酬が行われる時間帯に滑り込んでいたのだ。


 悠作の持つカゴの中には、今まさに店員の手によって貼られたばかりの、燦然と輝く「半額」のシールが貼られた『特製味付け卵』のパックが鎮座していた。


「……本当は、今朝買った生の卵を自分で慎重に茹で上げ、黄身が絶妙な半熟の状態から、八角と生姜を利かせた特製のタレに六時間以上、じっくりと漬け込むのがベストだったんだ。だが、あの邪魔なトカゲのせいで、俺の完璧なタイムスケジュールは完全に崩壊した。この際、背に腹は代えられない。市販の味玉を角煮のタレに絡めることで、不足した時間を補い、少しでも手作り感を補完するしかないな」


 悠作は、まるで行き先を失った探索者が古文書を読み解くかのような、真剣で切実な眼差しで、味玉の賞味期限と、透明なパック越しに見える黄身の僅かな色の差、そしてタレの浸透具合を厳格に吟味していた。

 世界が、自分のあの瞬間の『虚無顔』を「悟りを開いた武神の貌」として神格化し、人類を滅亡から救う最強の守護者、あるいは利権に塗れた現代社会に背を向けた孤高の賢者として崇め奉っていることなど、彼の優先順位のリストには、末尾の注釈にすら載っていなかった。

 今の彼にとっての「敵」とは、魔竜でも、卑劣な裏切りのパーティでもなく、卵の黄身の質感を台無しにする「過度な煮込み」と、スーパーの棚から消えゆく「鮮度の高い食材」という、極めて身近で現実的な事象のみであった。


「おっと、レタスも一玉九十八円か。安いな。角煮の横に、千切ったレタスを添えれば、視覚的な彩りも格段に良くなるし、豚の脂っぽさもシャキシャキした食感で中和できる。……よし、これも購入しておこう」


 悠作は、十九世紀の芸術家が丹精込めて彫り上げた彫像のような、渋い美貌を、本人は一ミクロンも自覚することなく、もやしの十円の差やキャベツの詰まり具合に、一喜一憂していた。


 彼は満足げなホクホク顔でレジを済ませると、長年の経験が成せる慣れた手付きで、丁寧に、かつ効率的にビニール袋に食材を詰め込み、アパートへの帰り道を足早に歩いた。

 背負っていた百二十キロを超える荷物は、帰りがけにギルドの裏口にある、埃を被った夜間回収ボックスに、まるで不燃ゴミでも捨てるかのように無造作に放り込んできた。

 中には炎上烈たち『紅蓮の剣』が自慢していた高価な予備武器や、一つ手に入れるだけで家が建つと言われる高純度の魔石、さらには配信用の予備バッテリーや彼らの着替えなども混ざっていたはずだが、悠作にとって、ポーターとしての業務は「ダンジョン内からギルドの敷地内まで荷物を持ち帰ること」であり、その後の仕分けや個別の返却は、契約内容に一文字も記されていない範囲外の仕事だ。

 あんな救いようのないクズたちのために、自分の大切な、何物にも代えがたい夕飯の時間を一秒たりとも削るつもりは、彼には毛頭なかった。


 築四十年を超える、古いボロアパートの。

 錆び付いた蝶番が悲鳴を上げるドアを、静かに開ける。

 その瞬間、廊下にまで漏れ出していた、甘辛い醤油の芳醇な香りと、豚肉の脂が熱によって昇華した、抗いがたいたまらない香りが、彼の鼻腔を強烈に突いた。


「よしよし、いい匂いだ。保温調理器の密閉性と断熱性能のおかげで、部屋全体が豚肉の匂いで充満することも防げているし、何より、火を止めた後の余熱による煮込みのおかげで、肉のパサつきも最小限に抑えられたはずだ」


 悠作は、外でどのような評価を受けていようとも関係のない、自分のテリトリーに帰ってきた安心感に包まれながら、急いで手を洗い、キッチンへと向かった。

 カチリ、とロックを外し、重厚な蓋を開ける。

 ふわぁっと立ち上る、濃密で黄金色の湯気とともに姿を現したのは、表面が完璧な飴色に染まった豚の角煮だった。

 八角のオリエンタルな香りと、生姜の爽やかな刺激が、醤油の焦げた香ばしい匂いと見事に調和し、嗅覚を暴力的に、そして慈悲深く刺激する。箸でそっと触れるだけでプルプルと小刻みに震え、力を入れずともスッと切れる完璧な仕上がり。余分な脂は適度に抜け、肉質はコラーゲンがトロトロのゼラチン状に変化しているのが、見た目だけで確信できた。


 悠作は、その芸術的な出来栄えに、人知れず感動に打ち震えた。

 炊飯器から、ふっくらと炊き上がったばかりのほかほかの白米を、大きめのどんぶりに山盛りにし、その上に分厚い角煮を三枚、豪快に乗せる。さらに、スーパーで死守してきた味玉を包丁で綺麗に半分に割り、黄身の鮮やかな山吹色を添え、彩りの仕上げとして、刻んだばかりのみずみずしい青ネギを、これでもかと散らす。

 至高の『鈴木流・豚の角煮丼定食』、ここに完成である。


「いただきます」


 神聖な儀式を執り行うかのように、彼は居住まいを正して正座し、丁寧に手を合わせてから、肉を一口かじった。


 ——美味い。


 豚の脂の濃厚な甘みと、長時間かけて芯まで染み込んだ秘伝のタレの深いコクが、口の中で暴力的に爆発する。肉は噛む必要がないほどにホロホロと解けていき、白米との相性はまさに悪魔的だ。味玉の黄身に角煮のタレをたっぷりと絡め、ご飯と一緒に口へ運ぶ。その瞬間に脳内を駆け巡る圧倒的な多幸感は、いかなる古代遺物や秘宝の発見をも、遥かに凌駕していた。


 ダンジョンでの想定外のトラブル、炎上烈の卑劣極まる裏切りによる生理的な不快感、魔竜が放った熱線による汗のべたつき——。それら全ての負の感情が、この一口を飲み込むごとに、完全に浄化され、消え去っていくのを感じた。


「あー……。やっぱり、頑張って早く帰ってきて正解だったな。生きててよかった」


 悠作は、世界中を恐怖と羨望で戦慄させたあの『虚無顔』を完全に崩し、ただの「美味い飯を食うのが何よりも幸せな、三十歳の独身男性」の顔で、どんぶりを夢中でかき込んだ。

 彼にとって、世界を救う英雄になることよりも、目の前の豚肉が理想の柔らかさに仕上がっていることの方が、遥かに重要で、人生を懸ける価値のあることだったのだ。


 ふと、部屋の隅に置かれた小さな、ブラウン管に毛が生えたような古いテレビに目をやる。

 夕方のニュース番組が、切迫した声で臨時ニュースを報じていた。


『——繰り返します。本日午後、国内B級ダンジョン「嘆きの谷」において、通常の生態系では到底あり得ない、推定S級災害指定ボスが確認されました。しかし、現在ネット上で急速に拡散されている複数の映像によりますと、そのボスは、名も知れぬ一人の、ポーターと思われる探索者によって、一撃で討伐されたとのことです。政府およびギルド本部は、現在、この人物の特定を最優先事項として急いでおり……』


「ん? なんか騒がしいな。嘆きの谷って、さっきまで俺がいたところか。あそこ、そんなにヤバい場所だったんだな」


 悠作は咀嚼しながらテレビに目を向けたが、画面に映る、首のない黒い竜の死骸と、その後ろを大きな荷物を背負ってスタスタと無関心に歩く自分の後ろ姿を見ても、「あー、あの邪魔なトカゲ、もうニュースになってるのか。あそこに変なカメラが落ちていたのは気づいたけど、まさか俺を映してたわけじゃないよな。誰かの落とし物かと思って、跨いで避けといて正解だった」と、以前の行動を思い返しつつ、他人事のように思う程度で、すぐに興味を失った。

 彼にとって、テレビの中の騒動は、宇宙の裏側で起きている出来事と同じくらい、現実味のない遠い国の話だった。


「それより、明日の朝食用の食パンが少し足りないな。バターもそろそろ切れるし……明日もまた仕事の帰りにスーパーへ行かないと。あとは、今日の残りのタレをチャーハンに再利用するか。……よし、そうしよう。楽しみだな」


 悠作はリモコンを手に取り、録画しておいた深夜アニメの録画一覧を表示させた。

 世界中のギルド支部が未曾有の事態に緊急会議を開き、アメリカや欧州のトップ探索者たちが「虚無ニキ」の正体を暴こうと、手段を選ばず狂奔し、数億人の人々がインターネット上で彼の名を叫び続けている中。

 悠作の、唯一無二の平穏な生活は、今はまだ、この街の片隅にある狭い四畳半のアパートの中に、静かに守られていた。


 ——しかし、その静寂は長くは続かない。


 翌朝。

 彼の安物スマホが、ギルドからの「至急連絡を乞う」「現在どこにいますか!?」「大変なことになっています」という、血を吐くような膨大なメッセージの通知音で、鳴り止ぬパンク状態に陥るまで。

 さらに、ギルドの看板受付嬢である伊藤みのりからの、心配と困惑が混ざった連投メッセージが届き、プロットに刻まれた「運命の歯車」が容赦なく回り出し、世界的な大物たちによる『殺人的な熱量の接触』が開始されるまで。


 鈴木悠作に残された、誰にも邪魔されない平穏な時間は、残りわずか数時間の、夜の静寂だけだった。

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