第3話 配信機材の切り忘れ
薄暗い地底湖の畔。
B級ダンジョン『嘆きの谷』の未踏の深層エリアに、男たちの情けない悲鳴と足音だけが虚しく響き、やがて遠ざかっていった。
「す、すまねえっ! お前が囮になってくれ!!」
自分をここへ連れてきた張本人であるB級探索者パーティ『紅蓮の剣』のリーダー、炎上烈は、完全に正気を失った顔でそう叫び、俺の腕を力任せに前へと突き飛ばした。
そして、彼らは振り返ることもなく、一目散に元来た暗い通路へと逃げ込んでしまったのだ。
背中に120キロを超える荷物を背負わされた、ただのポーターである俺を、S級災害指定ボスモンスターの前に置き去りにして。
「……あーあ。最悪だ」
俺は、深いため息をつきながらゆっくりと姿勢を立て直した。
目の前には、地底湖の大部分を占めるほど巨大な漆黒の竜、『災厄の魔竜』が鎮座している。
全長は50メートルを下らないだろう。その巨体から放たれる殺気と魔力だけで、周囲の空気がビリビリと震え、常人ならば立っていることすら不可能な重圧を生み出していた。
実際、さっきまで威勢の良かった烈たちは、この重圧の前に完全に心がへし折られ、逃亡という最悪の選択をした。
しかし、俺は全く別のことで心をへし折られそうになっていた。
(道塞いでて邪魔だな。これじゃあ、夕飯の角煮の火を止める時間に、絶対に間に合わないじゃないか……!)
時刻はすでに夕方の4時を回っている。
俺が今朝、アパートの狭いキッチンで仕込んできた『豚の角煮』は、保温調理器の中で静かに熱を通されているはずだ。
保温調理器は確かに便利だ。火を使わずにじっくりと煮込むことができるし、ガス代の節約にもなる。だが、万能ではない。
理想的な煮込み時間は6時間から、長くても7時間。それ以上放置すると、いくら適温に保たれているとはいえ、豚バラ肉の繊維が崩れすぎてしまい、あの「トロトロだが肉の食感は残っている」という至高のバランスが崩壊してしまうのだ。
帰りの長々とした移動時間や、スーパーでの買い出しの手間を考慮すると、今すぐこのダンジョンを出てもギリギリの時間だった。
(くそっ……烈の馬鹿野郎。あいつが変な色気を出してこんな深層まで来なけりゃ、今頃はスーパーで半熟卵と長ネギを買って、ホクホク顔で帰路についていたはずなのに。まさかここでS級モンスターの足止めを食らう羽目になるとは……)
俺は心の底から湧き上がる憤りと焦燥感を抑えきれず、完全に無表情——一切の感情を顔面から消し去った『虚無顔』になっていた。
死への恐怖ではない。絶望でもない。
ただひたすらに「料理の失敗」と「自分の思い描いた完璧な夕食のプランが崩れること」に対する、静かなる怒りだった。
一方、俺がそんな極めて個人的な悩みを抱えていることなど露知らず、この状況を固唾を飲んで見守っている何万もの瞳が存在していた。
烈が俺を突き飛ばした際、パニックのあまりその場に放り捨てた『ハエドリ』のコントローラー。主の制御を失い、さらに魔竜が発する強大な魔力に直接あてられた追従型ドローンカメラ本体は、空中でバランスを崩して地面へと墜落していたのだ。
ハエドリは岩肌に激突した衝撃で飛行機能を失い、俺の足元から数メートル離れた岩陰にゴロンと転がっていた。
しかし、その強靭なカメラレンズと配信機能だけは、奇跡的に生き残っていた。
斜め下からのアングルで、巨大な魔竜の全身と、それに相対する俺の背中、そして少し横を向いた時の俺の『虚無顔』を、完璧な構図で捉え続けていたのである。
『紅蓮の剣』のチャンネルで生配信を見ていた数万人の視聴者は、突如として現れたS級モンスターの姿と、リーダーである烈の卑劣な逃亡劇にパニックに陥っていた。
【コメント欄】
《おい嘘だろ!? なんで嘆きの谷にS級の災厄の魔竜がいんだよ!?》
《逃げた! 烈のやつ、ポーターを囮にして逃げやがった!!》
《クズすぎるだろ……あのポーター、完全に終わった……》
《誰かギルドに通報しろ! 早く助けないと!》
《無理だろ、S級だぞ! 討伐隊が着く前にあいつは炭になる!》
《おい待て、あのポーター、全然震えてないぞ?》
《マジだ……あんな化け物を前にして、なんであんな真顔なんだ……?》
ネットの向こう側で悲鳴と混乱が渦巻いている中、目の前の魔竜は、自分に対する恐怖を見せない小さな人間に対して、明確な苛立ちを見せ始めた。
『ゴァァァァァァァァァァッ!!』
鼓膜を突き破らんばかりの咆哮。
魔竜が巨大な顎をカッと開き、その喉の奥で真紅の光が収束し始める。
竜の息吹。
放たれれば周囲一帯の岩盤をドロドロのマグマに変える、超高熱の破壊光線だ。
その準備段階の熱量だけで、地底湖の水が沸騰し、白い蒸気がもうもうと立ち込める。
(熱っ……なんだよ、サウナかよ。これ以上汗かいたら、帰ってからシャワー浴びる時間が余計にかかるだろ)
俺は心の中で毒づきながら、ゆっくりと右手を前へ伸ばした。
(時間がない。最短で終わらせる)
俺の天職である『ポーター』の固有スキル、【超次元収納】。
通常、ポーターのインベントリは、レベルにもよるがせいぜいトラック数台分の荷物を収納できるだけの「便利な四次元ポケット」に過ぎない。
だが、俺のインベントリは少し、いや、かなりおかしい。
俺のインベントリには、容量の制限が存在しない。
そして何より異常なのは、収納した物体を取り出す際の『出力設定』を、俺の意志で自由自在にいじれるという点だった。質量、速度、射出角度、その全てを脳内のイメージ一つで決定できる。
俺は何の詠唱も、魔力の練り上げも行わず、ただ頭の中でインベントリを開いた。
空間が歪み、俺の右手のすぐ前に、直径数センチほどの真っ黒な穴が開く。
そこから、俺は『あるモノ』を取り出した。
(えーと、確かこの辺に入れたはず……あった。いつだったか、どっかのダンジョンで拾った、やたら重い石ころ)
俺の手のひらにコロンと転がり出たのは、一見するとただの黒い小石だった。
だが、その実態は『神話級鉱石・グラビティオニキス』。
ビー玉ほどのサイズで、なんと数十トンもの質量を内包する、物理学を根底から覆すような超高密度物質である。
俺は【絶対運搬】のスキルがあるため、この石をただのプラスチックの破片のように軽く扱うことができるが、本来であれば、落としただけで地面に巨大なクレーターができる代物だ。
『グオォォォォォォォォッ!!』
魔竜の喉の奥で、光が限界まで圧縮された。
次の瞬間、世界を焼き尽くす一筋の極太の熱線が、俺に向かって放たれる。
圧倒的な光と熱が、俺の視界を真っ白に染め上げようとした、まさにその時。
俺は、右手の親指と中指でその黒い石を弾く構えをとった。
いわゆる、デコピンの要領だ。
(悪いが、角煮が待ってるんでな。……消えろ)
全くの無表情。
完全に感情の抜け落ちた『虚無顔』のまま、俺は黒い石を弾き飛ばした。
パチン、という気の抜けた音が鳴った。
俺のカンストした物理法則無視の基礎ステータスと、【絶対運搬】による質量の無視、そしてインベントリからの射出速度の加算。
それらが掛け合わされた結果、その黒い小石は、マッハを優に超える速度と数十トンという異常な質量を保ったまま、一筋の黒い閃光となって虚空を駆け抜けた。
直後。
——ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
地底湖の空間そのものが吹き飛んだかのような、規格外の爆音と衝撃波が荒れ狂った。
魔竜が放った超高熱のブレスは、黒い石が放つ圧倒的な運動エネルギーの前に、まるで激流に逆らう霧のように一瞬でかき消された。
そして、黒い石は一切の抵抗を許さず、魔竜の巨大な頭部を真正面から打ち抜いたのだ。
『——…………』
断末魔の叫びすら、上げる暇はなかった。
強固な黒鱗も、S級の魔力障壁も、紙くずのように貫通され、魔竜の頭部は首から上が文字通り「消滅」した。
頭を失った数十メートルの巨体が、まるでスローモーションのようにグラリと傾き、地底湖の水面へと倒れ込む。
ズドォォォォンッ……!
凄まじい水柱と地響きが、事の終わりを告げていた。
さしもの魔竜も、頭がなくなれば死ぬらしい。
「ふぅ……」
俺は、背中の120キロの荷物を背負い直すと、小さく息を吐いた。
「よし、終わった。これで急げば、なんとか特売の卵には間に合うか……? いや、最悪、コンビニのゆで卵で代用すれば、味玉のクオリティは落ちるが時間は短縮できる。背に腹は代えられないな」
そんなことを真剣にぶつぶつと呟きながら、俺は踵を返した。
足元に、ランプが点滅しているドローンカメラが転がっているのには気づいたが、俺の物ではないし、拾って届けてやる義理もない。そもそも、関わると面倒くさい。
俺はドローンを無造作に跨ぐと、逃げた烈たちが向かったのとは別の、より近道となるはずのルートを探して歩き出した。
その間、俺の表情は一切崩れていない。
巨大な魔竜をデコピン一発で消し飛ばしたというのに、誇るわけでも、安堵するわけでもなく、ただ「スーパーの特売」と「夕飯の角煮」のことだけを考える、完璧な『虚無顔』だった。
★★★★★★★★★★★
そして、俺が立ち去った後の地底湖。
地面に転がったままのハエドリのカメラは、頭部を失い沈黙したS級モンスターの死骸と、何事もなかったかのようにスタスタと去っていく俺の後ろ姿を、はっきりと映し出していた。
D-Tubeの配信画面は、数秒の完全な沈黙の後。
爆発的な勢いで流れるコメントの濁流によって、完全に埋め尽くされることとなる。
【コメント欄】
《……………………は?》
《え?》
《はあああああああ!?!?!?》
《今の何!? なにが起きた!?》
《竜のブレスが消えた!? いや、竜の首が吹っ飛んだぞ!?》
《魔法!? いや、詠唱してなかったし、何も見えなかったぞ!》
《デコピン……あいつ、今、指で何か弾かなかったか……?》
《嘘だろ、デコピンでS級をワンパンしたって言うのかよ!?》
《ていうかあいつ、一ミリも表情変わってないんだけどヒィィィ!》
《なんという達観……! 圧倒的強者の余裕……!》
《悟りを開いた武神の顔だ!》
《おい! あのポーターの名前特定しろ! 歴史が変わるぞ!!》
《『虚無ニキ』爆誕の瞬間を見た……》
俺がただ夕飯の心配をしていただけの『虚無顔』が、「悟りを開いた最強の探索者の証」として神格化され、全世界へと拡散されていく。
俺の平穏な日常が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
俺自身は、そんなことは露知らず、ただひたすらに半熟卵の確保に向けてダンジョンを早歩きで突き進んでいたのだった。




