第1話 不遇のポーター、鈴木悠作
「……よし、これは買いだな」
午前7時03分。
鈴木悠作は、使い古されたスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。
映し出されているのは、近所のスーパー『アオバ』のデジタルチラシだ。本日の目玉商品は、100g当たり78円の豚バラブロック。今の食肉相場を考えれば、これはもはや価格破壊と言ってもいい。
「角煮だな……。今日という1日を生き延びるための、確かな報酬が必要だ」
悠作は30歳のフリーターだ。本業は深夜のコンビニバイト。そして、時折ギルドから回ってくる『ポーター』の仕事で日銭を稼いでいる。
独身、独り暮らし、四畳半のボロアパート。そんな彼の唯一の生きがいが、手間暇をかけた自炊、そしてそれを最高の状態で食す瞬間だった。
悠作は迷うことなくジャージを羽織り、開店直後のスーパーへと走った。
熾烈な主婦たちの争奪戦を、無駄のない動きで潜り抜ける。190センチ近い長身と、10年のポーター生活で鍛えられた足腰は、こういう時にこそ真価を発揮した。
目的の豚バラ肉3パックを確保し、レジで会計を済ませる。さらに帰り道、八百屋で泥付きの生姜と青ネギも手に入れた。
帰宅後、悠作は淀みのない動作でキッチンに立った。
まずは豚肉を厚めに切り分け、フライパンで表面に焼き色をつける。脂の焼ける香ばしい匂いが部屋に充満する。それを一度取り出し、たっぷりの湯で下茹でする。浮いてきたアクと余分な脂を丁寧に取り除き、生姜の薄切りとネギの青い部分を投入した。
「ここからは時間の仕事だ」
醤油、酒、砂糖、みりん。黄金比の調味料を合わせ、落とし蓋をする。
本来なら数時間コトコトと煮込みたいところだが、これからギルドへ行く必要がある。悠作は、愛用の保温調理器に鍋をセットした。これで彼が仕事をしている間に、余熱が肉の繊維を魔法のように解きほぐし、芯まで味を染み込ませてくれるはずだ。
「帰ってくる頃には、最高の角煮ができている……」
悠作は、四畳半の部屋に残された甘辛い匂いに後ろ髪を引かれながら、仕事道具である巨大なリュックサックを手に取った。
世界にダンジョンという謎の空間が出現し、そこから得られる未知の素材や魔石が莫大な富を生むようになってから、およそ半世紀。
今や『探索者』と呼ばれるダンジョンに潜る職業は、子供たちの憧れの的であり、トップクラスの探索者ともなれば、プロスポーツ選手やアイドルをも凌ぐ人気と名声を手にする時代だ。
そんな時代の潮流を他所に、悠作は静かにアパートのドアを閉めた。彼にとってダンジョンとは、輝かしい栄光の舞台ではなく、ただの「重労働の現場」であり、角煮をより美味しく食べるための空腹を作る場所でしかなかった。
探索者ギルド・支部ロビー。
そこは、欲望と魔力の入り混じった、独特の熱気に満ちていた。
輝く魔導装備を身に纏った探索者たちが、これから向かうダンジョンでの戦果を夢見て、気勢を上げている。
悠作は、ロビーの隅で壁と同化するように気配を消していた。
彼の信条は『省エネ』、そして『隠密』だ。目立てば面倒な仕事が増え、人間関係の軋轢に巻き込まれる。それは平穏な夕飯を脅かす最大の敵だった。
「悠作さん! おはようございます!」
背後から飛んできた明るい声に、悠作は僅かに肩を揺らした。
そこにいたのは、同じポーター仲間の女子大生、山口純子だ。
まだ20歳そこそこの彼女は、なぜかこの地味な男を「ポーターの鑑」として慕っている、数少ない理解者だった。
「ああ……山口か。おはよう」
「今日も早いですね! 悠作さんのパッキング、私、昨日もこっそり見学させてもらったんですけど、重心の取り方が神業すぎて……。あれ、どうやってるんですか!?」
「……いや、適当に詰めてるだけだ。誰でもできる」
悠作は、純子のキラキラとした視線を避けるように、リュックのストラップをいじった。
彼にとって、荷物の重さを感じさせない歩き方や、効率的なパッキングは、10年間「いかに疲れずに帰宅するか」を突き詰めた結果、自然と身についた生活の知恵に過ぎなかった。
その時、ロビーの自動ドアが乱暴に開かれた。
カチャカチャと騒がしい金属音を響かせ、一団の探索者が現れる。
「どけ! この俺様が通るんだぞ!」
中央でふんぞり返っているのは、B級パーティ『紅蓮の剣』のリーダー、炎上烈だ。
名前の通り、真っ赤な魔導甲冑に身を包み、背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。彼は自身の探索をライブ配信することで稼いでいる、いわゆる『配信探索者』だった。
(……最悪だ。今日はあいつらの指名だったか)
悠作はさらに深く壁に背中を預けた。だが、烈の鋭い眼光は、ロビーの隅にいる悠作を逃さなかった。
「おい、いたぞ! 幽霊ポーター、鈴木! いつまで突っ立ってやがる。この俺様の準備が整っているのが見えないのか!」
烈が尊大な態度で悠作に歩み寄る。その後ろには、パーティメンバーの魔術師と治癒師が、これまた面倒そうな顔で続いていた。
「おはようございます、炎上さん……。今日は何を持っていくんですか」
「炎上『さん』じゃねえ! 『烈様』と呼べと言っただろうが! 何せ、この俺様が最深部のボスを討伐する歴史的瞬間を世界に届けるんだからな! 予備のポーション100本、魔力回復薬50本、それに予備の武器一式と、俺様の着替えの高級マント……全部持て!」
烈が指差したのは、床に積み上げられた3つの巨大なコンテナだった。
中身を合わせれば、総重量は120kgを優に超えるだろう。
通常のポーターであれば、魔導カートを使っても3人がかりで運ぶような分量だ。
「これ……全部ですか。カートは使わないんですか?」
「ダンジョンの深層は足場が悪いんだよ。カートなんてガチャガチャ鳴らしてたら、俺様の華麗な配信の邪魔だろうが! お前みたいな無能を雇ってやっている俺様の慈悲深さに、毎日感謝してるか? ああ!?」
烈は、悠作の胸ぐらを掴む勢いで詰め寄る。
純子が「ひどいですよ、炎上さん! それは1人の重さじゃないです!」と抗議しようとしたが、悠作はそれを手で制した。
(……120kgか。まあ、少し重い気はするが、担ぎ方さえ工夫すれば、別に一人で持てない重さじゃない。むしろ、ここでカートを持っていく方が場所を取って目立つし、騒がしくなる。……ここは大人しく、サッと担いで出発した方が『普通』だ)
悠作の基準は、10年の歳月を経て、もはや人類の限界値を大きく踏み越えていた。
彼はコンテナに近づくと、重心を見極め、それを1つの巨大な背負い袋へとまとめ上げた。
「……じゃあ、行きますか」
悠作は「よっこいしょ」と、腰を痛めないための最小限の力を込めて立ち上がった。
その瞬間、ロビーにいた数百人の探索者たちの視線が、釘付けになった。
120kg。
成人男性2人を背負っているのと同じ重さを、悠作は何の気負いもなく、まるで空のリュックでも背負うかのような軽やかな動作で持ち上げたからだ。
「な……!? お、おい、今あいつ、あの量を……」
「嘘だろ。膝も震えてないぞ……。どんなバフ魔法をかけてるんだ?」
周囲がざわつき始める。
悠作は、その喧騒を「あー、やっぱり朝のギルドは人が多くて騒がしいな」と、完全に勘違いして受け取っていた。
「おい! 待て! 俺様の前を歩くんじゃねえ!」
烈が顔を真っ赤にして怒鳴る。
悠作が荷物を背負ったまま、あまりにもスムーズに歩き出し、リーダーである烈を追い越しそうになったからだ。
配信者にとって、常に画面の中央にいるのは自分自身でなければならない。荷物持ちごときが主役より先に進むなど、許し難い屈辱だった。
「……ああ、すみません。ペースを合わせます」
悠作は歩幅を調整し、烈の3歩後ろへと下がった。
リュックのストラップが肩に食い込む感覚がある。だが、悠作にとってその痛みは、「角煮が柔らかくなるまでの待機時間」を物理的にカウントしているようなものだった。
(……今頃、鍋の中では豚肉の繊維がほぐれ、あの黄金色のスープがじっくりと中に染み込んでいるはずだ。120kgのこれを運ぶ労力は、すべてあの角煮へのスパイスに過ぎない。……早く終わらせて帰ろう)
悠作の瞳には、ダンジョンへの恐怖も、パーティメンバーへの怒りもなかった。
ただただ、保温調理器の中で完成を待つ、至高の豚の角煮への純粋な情熱だけが宿っていた。
「おい、鈴木! 返事がないぞ! 俺様の勇姿をしっかり目に焼き付けておけよ!」
「……はい、烈様。見てますよ」
悠作は適当な返事を返し、ダンジョン『嘆きの谷』へと向かう一行の最後尾についた。
周囲の探索者たちが、重さを感じさせないその超人的な足取りを、戦慄しながら見送っていることなど、彼は1ミリも気づいていなかった。
鈴木悠作。
自身の規格外の筋力と技術を「ポーターの平均」だと思い込む男の、ある意味で最悪の1日が、こうして幕を開けた。




