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婚約破棄、結構です──氷の公爵令嬢は溺愛される

作者: 葉月透子
掲載日:2026/02/24

 あの夜のことを、私はきっと死ぬまで忘れないだろう。


 王国最大の祝祭、建国記念の大舞踏会。シャンデリアの光が床の大理石に乱反射して、会場全体がまるで宝石箱の中にいるようにきらめいていた。私――アリシア=フォン=ヴァルトハイムは、水色のドレスの裾をそっと持ち上げながら、壁際の柱の陰に立っていた。


 社交の場が嫌いというわけではない。ただ、少し疲れていた。


 三年間、ずっと疲れていた。


 婚約者であるクライン王太子殿下のそばにいることで、私がどれほど気を張っていたか。笑顔を絶やさないように。言葉を選ぶように。侯爵家の令嬢として、将来の王妃として、恥ずかしくない振る舞いをするように。


 それなのに、だ。


「アリシア。ちょうどよかった、ここにいたのか」


 聞き慣れた声に、私は壁際から一歩踏み出した。クライン殿下が近づいてくる。金色の髪に青い瞳、確かに絵に描いたような美男子だけれど、今夜の彼の表情はどこか固い。


 そして、その後ろに。


 ふわふわとした亜麻色の巻き毛に、いつも潤んだような茶色の瞳。ソフィア=レイン、男爵家の次女。最近、殿下の取り巻きに加わったと聞いていたが。


「舞踏会の場でこのようなことを言うのは本意ではないが」


と、クライン殿下は咳払いをした。


「……婚約を破棄させてほしい」


 周囲がざわつく。当然だ。大舞踏会の中央ホール、大勢の貴族が見ている前で、王太子が婚約者に婚約破棄を告げているのだから。


 私は一拍置いて、彼の顔を見つめた。


「……理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「アリシア、君は優秀だ。家柄も申し分ない。だが、君は冷たすぎる」クライン殿下は言った。「笑顔は作り物で、言葉は計算されていて、人の心がないようだ。ソフィアのように、素直に感情を表せる人間のそばにいたい」


 ソフィアが私をちらりと見て、すぐに目を伏せた。申し訳なさそうな顔をしているが、殿下の腕にしっかりとしがみついている。


 なるほど、と私は思った。


 人の心がない、か。


 三年間、どれほど心を砕いてきたか。殿下の好みの料理を覚えて、お茶会のたびに特別に用意させた。殿下が苦手な科目の勉強を手伝うために、家庭教師を雇って先に習得した。殿下が疲れているときには話しかけず、殿下が落ち込んでいるときには好みの話題で気を紛らわせた。


 全部、全部、「計算」に見えていたのか。


 おかしいな、と思う。笑いたいような、泣きたいような、でもどちらの感情も、今は遠い。


「わかりました。婚約破棄をお受けします」


 殿下が少し目を見張る。

もっと泣くとか、喚くとか、思っていたのかもしれない。


「ただ、正式な手続きは、後日書面で行っていただく必要があります。今夜は舞踏会を楽しんでください、殿下。ソフィア嬢も」


 私はドレスの裾を持ち上げて、深く礼をした。完璧な礼だ。王妃教育で徹底的に仕込まれた、一点の乱れもない礼。

 そして踵を返して、歩き出した。


 背後からざわめきが追いかけてくる。でも私の足は止まらない。柱の間を抜けて、廊下へ出て、外の夜風の中へ。


 庭へ出たところで、私はようやく足を止めた。

 ばか、と思った。誰に向けてかは、わからない。

 月が綺麗だった。


 * * *


 翌朝、起きてすぐに父に呼ばれた。

 ヴァルトハイム侯爵家の当主である父は、書斎の椅子に深く腰かけて、昨夜の報告書をすでに読んでいた。社交界の情報網というのは恐ろしく早い。


「アリシア。昨夜のことは聞いた」

「はい、お父様」

「……辛くはないか」


 その一言が、意外だった。父は感情を表に出すタイプではない。私が「冷たい」と言われるのは、たぶん父に似たからだ。


「辛いかどうか、正直まだよくわかりません」


と私は答えた。


「ただ……少し、解放されたような気もしています」


 父がふっと息をついた。


「そうか」

「婚約破棄の手続きについて、法務顧問に確認しておきます。何か問題が起きましたら、すぐにご報告を」

「アリシア」

「はい」

「しばらく、領地に帰るか」


 私は少し考えた。


 ヴァルトハイム領。北方の、冬が長くて雪深い土地。幼い頃に過ごして、王都に上がってきてからはほとんど帰っていない。


「……そうしたいと思います」


 父は頷いた。


「二、三ヶ月でいい。王都の空気が変わる頃に戻ってこい。お前が悪いわけではないということは、わかっている者にはわかる」


 わかっている者にはわかる。

 その言葉が、じわりと胸に染みた。泣きたいのかもしれない、と思ったけれど、やっぱり涙は出なかった。

 私はきっと、本当に少し壊れているのかもしれない。


 * * *


 出発は一週間後。その間、王太子殿下からは一切連絡がなかった。書面での正式な婚約破棄通知は、五日後に届いた。とても事務的な文書だった。


 社交界ではすでに噂が広まっている。「氷の令嬢が王太子殿下に振られた」という話が、尾ひれをつけて広がっていた。「あの冷たさでは当然だ」「殿下もよく三年も我慢した」「ソフィア嬢のほうがずっと可愛らしい」。


 私の耳にも入ってくる。侍女たちが気を遣って隠そうとしているのが、かえってわかった。


 氷の令嬢、という二つ名は、婚約する前からあった。感情が顔に出ない、笑顔が冷たい、常に計算している、と言われてきた。社交界での評価としては悪くない。怖がられるくらいのほうが、令嬢としては舐められなくていい。


 でも今は、その二つ名が私自身にも刺さる。


 人の心がない。


 本当にそうなのかな、と、荷造りをしながら思う。荷物は少なくていい、と侍女たちに言った。領地は質素な生活だから、華やかなドレスはいらない。実用的なものだけ持っていく。


 侍女頭のマリアが、そっと手を握ってきた。


「お嬢様」

「なに、マリア」

「……お嬢様は、ちゃんとお優しい方です」


 私は少し目を瞬かせた。


「お嬢様が冷たいなんて、嘘です。ただ、表に出すのが苦手なだけです。私たちはちゃんと知っています」


 今度こそ、少し目が熱くなった。


「……ありがとう」


 声が少しだけ掠れた。マリアが気づかないふりをしてくれたのが、ありがたかった。


 * * *


 ヴァルトハイム領に着いたのは、出発から四日後だった。


 雪はまだ残っていないが、空気は王都とは比べものにならないくらい澄んでいて、冷たくて、深く息を吸い込むと肺の奥まで洗われるような気がした。


 懐かしい、と思う。


 領地を治める家令のヴィルヘルムが出迎えてくれた。白髪で小柄な老人だが、目は鋭くて頭が切れる。父が絶大な信頼を置いている人物だ。


「お嬢様、よくぞお越しくださいました。長旅でお疲れでしょう。お部屋の準備は整っております」

「ありがとう、ヴィルヘルム。王都の件は聞いていますか」

「……はい。耳に入っております」

「気を遣わなくていいです。私は元気ですから」


 ヴィルヘルムが少し眉を下げた。


「……お嬢様らしいお言葉で」


 何がおかしいのか、老家令はかすかに口元をほころばせた。


 翌日から、私は領地の仕事を手伝い始めた。もともと領地経営には興味があって、父の書類仕事を見ながら学んでいたのだ。ここなら、余計なことを考えなくていい。計算と、数字と、現実の問題だけを見ていればいい。


 三日目の朝のことだ。

 朝食を終えて庭を散歩していると、見知らぬ馬車が門の前に止まった。紋章を見て、私は思わず足を止めた。


 黒地に銀の双頭の鷹。

 あれは――。


「失礼いたします」


 馬車から降りてきたのは、随行の騎士たちと、そして一人の男性だった。

 背が高い。肩が広い。漆黒の髪に、暗い灰色の瞳。年齢は二十代後半くらいだろうか。整った顔立ちをしているが、表情がまったくない。彫刻のように、感情の読めない顔。


 エアハルト公爵、と私はすぐにわかった。

 エアハルト公爵家。北の国境を守る名門中の名門。「北の盾」と呼ばれる、王国でも最高位の貴族の一つ。当主のレオンハルト=フォン=エアハルトは、「鉄の公爵」という二つ名を持つ。感情がなく、冷酷で、しかし政治的手腕は王国随一、と評されている人物だ。

 なぜそんな人が、ヴァルトハイム領に。


「ヴァルトハイム侯爵令嬢でいらっしゃいますか」


 低い声だった。感情が乗っていない、事務的な声。


「はい、アリシア=フォン=ヴァルトハイムです。エアハルト公爵でいらっしゃいますね。ご訪問はうかがっておりませんでしたが」

「急で失礼いたしました。ヴァルトハイム侯爵閣下に用があったのですが、王都に戻られているとのこと。令嬢に話を伺えますか」

「父の代理ということでよければ」


 レオンハルト公爵が、じっと私を見た。品定めするような視線、というわけではない。ただ、何かを確認するような目だった。


「では、中で話しましょう」


 * * *


 応接室で向かい合った。

 話の内容は、領地の境界線に関する問題だった。ヴァルトハイム領とエアハルト領の間を流れる川の流路が変わり、両家で共同管理していた水利権の再調整が必要になっているという。


 なるほど、と私は頷いた。技術的な問題だが、難しくはない。私は父の仕事を手伝っていたので、この件については書類を読んだことがある。


「この件については、三つの案が考えられます」


 私はすぐに整理して説明した。新しい流路に基づいて水利権を再配分する案、共同管理の範囲を拡大する案、そして独立した水利組合を設立する案。それぞれのメリットとデメリット、費用と時間。


 説明している間、レオンハルト公爵はじっと私の顔を見ていた。


「……詳しいですね」

「父の補佐をしておりましたので」

「婚約が破棄されたばかりと聞いていましたが」


 唐突な言葉に、私は少し眉を上げた。


「その情報が、どうかしましたか」

「いえ」


とレオンハルト公爵は言った。


「失礼しました。関係のないことを」


 でも彼の目は、まだ私を見ている。その視線が不思議と嫌ではなかった。さっきから感じているのだが、彼の目には侮りがない。値踏みがない。ただ、フラットに、私という人間を見ている。


「先ほどの三案について、どれが現実的とお考えですか」

「個人的には、第三案が長期的に最も合理的です。ただし初期費用がかかりますので、両家の合意が必要になります」

「同意見です」


レオンハルト公爵は頷いた。


「正式な交渉の場を設けたい。後日、侯爵閣下にも同席をお願いできますか」

「父に伝えます」


 立ち上がりかけた彼が、ふと止まった。


「……一つ、伺ってもよいですか。個人的な質問ですが」

「内容によっては」

「令嬢は、王都に戻るつもりですか」


 私は少し考えた。


「父は二、三ヶ月と言いましたが、正直、まだわかりません。ここの空気が、性に合っているかもしれないと感じています」

「そうですか」


 彼はそれだけ言って、今度こそ立ち上がった。随行の騎士たちを伴って、応接室を出ていく。


 見送りながら、私は少し首を傾げた。


 なんだろう、あの人。「鉄の公爵」という二つ名があるくらいだから、冷たい人間だと思っていた。確かに表情はほとんどなかったし、言葉も少ない。でも、話していて嫌な感じがしなかった。それどころか、不思議と居心地がよかった。


 こちらに無理な感情を求めてこない人、というのだろうか。

 私みたいな、と思って、少し可笑しくなった。


 * * *


 それから二週間が経った。


 ヴァルトハイム領に本格的な雪が降り始めた。王都では考えられないくらいの雪で、朝起きると窓の外が一面白くなっている。それが毎朝、不思議と嬉しかった。


 私は領地の仕事にすっかり夢中になっていた。農業水利だけでなく、北方特産の毛皮の取引、鉱山の管理、冬の備蓄計画。問題が山積みで、解決するたびに達成感があった。こんなに毎日が充実したのはいつぶりだろう。


 婚約者のそばで作り笑いをしていたあの三年間が、遠い夢のように思える。


 父から手紙が届いた。「元気そうで安心した。エアハルト公爵から連絡があった、来月正式な交渉の場を設けるとのこと。お前が同席してもよいか」という内容だった。


 喜んで、と私は手紙を書いた。


 そして翌日。

 馬車の音がして庭に出ると、また見慣れた黒と銀の紋章があった。


「またお会いしましたね、公爵」


 レオンハルト公爵は馬から降りた。今日は随行が少ない、護衛騎士が二人だけだ。


「少し早い訪問を許してください。来月の交渉の前に、現地を確認したいと思いまして」

「川の流路ですか。ご案内しましょうか」


 彼は少し目を瞬かせた。令嬢自らが案内するとは思っていなかったのかもしれない。


「……よろしいですか」

「馬に乗れますよ。北の領地出身ですから」


 そう言って私は馬を用意させた。厚手の外套を着て、手袋をはめて、慣れた手つきで鞍に乗る。

 レオンハルト公爵が何か言いたそうな顔をした。表情が薄い人だけれど、最近、少しだけ彼の顔が読めるようになってきた気がする。今は――驚いている。


「何かおかしいですか」

「いえ」


彼は馬に乗りながら言った。


「……ご立派だと思いまして」


 褒め言葉が照れくさくて、私は前を向いた。


 川沿いを二人で馬を並べて進んだ。雪が降り積もっているから、足元が白くて眩しい。風はあるけれど、それほど寒くない。


「公爵はこの領地に来られたことは」

「幼い頃に一度だけ。父に連れられて」

「では雪道には慣れていらっしゃいますね。エアハルト領も北方ですから」

「はい。雪は嫌いではありません」


 短い答えだった。でも、嫌いではないと言った。私と同じだ。


「令嬢は……、王都での暮らしは、どうでしたか」


 珍しく、個人的な質問だ。


「……疲れていました」


と私は正直に答えた。


「常に気を張っていなければならなくて。ここにいると、呼吸が楽です」

「婚約者の前では、特に」


 どきり、とした。


「……そうですね」

「令嬢が冷たいというのは、王都での噂ですが」


レオンハルト公爵は真っ直ぐ前を見ながら言った。


「私には、そう見えません」


 私は思わず彼の顔を見た。


「今日、馬に乗って案内してくださった。先日、詳しい資料をすぐに出してくださった。領地の仕事を熱心にされていると、ヴィルヘルム殿から聞きました。それは冷たい人間のすることではない」


 ヴィルヘルムと話したのか、と思った。いつの間に。


「……ありがとうございます」

「事実を言っただけです」


 そう言いながら、レオンハルト公爵の頬が、ほんの少しだけ赤いような気がした。寒さのせいかもしれないけれど。


 * * *


 翌月、父から急ぎの手紙が届いた。

 王都が騒がしくなっているという。クライン殿下とソフィア嬢の関係が、正式な発表前に暴露されてしまったのだ。ソフィア嬢が平民出身だとか、父親の男爵位は金で買ったものだとか、そういった情報が流れて、王族との交際に反対の声が上がっているとか。


 さらに。クライン殿下が私に婚約破棄を告げた舞踏会の夜、私の立ち居振る舞いが「完璧すぎて美しかった」という話が広まっているらしい。大勢の目の前で婚約を破棄されながら、一点の乱れもなく礼をして去っていった令嬢の話。


「氷の令嬢の本当の姿だったのかもしれない、という人もいますし、実は泣くのを堪えていたのかもしれない、という人もいます。いずれにせよ、アリシア様への同情と評価が高まっています」と、マリアが手紙を読み上げながら言った。


 私は少し眉を寄せた。


「どちらでも構いませんが」

「ですが、お嬢様。クライン殿下のほうから、謝罪の申し入れがあったそうです」

「断ってください」


 マリアが目を丸くした。


「よろしいのですか」

「謝られても困ります。破棄するという決断は、殿下がされたことですから、それは殿下の自由です。私は怒っていませんし、謝罪を受け入れる理由もない」


 それより、と私は立ち上がった。


「エアハルト公爵との交渉の準備をしましょう。書類を持ってきてください」


 交渉は、父も交えて三日間行われた。


 私は父の補佐として同席したが、話し合いが難航した場面では何度か口を出させてもらった。父も、レオンハルト公爵も、私が意見を述べることを遮らなかった。それが嬉しかった。


 三日目の夕方、合意書に両家の当主が署名して、交渉は終わった。水利組合を設立する、第三案が採用された。

 父が「よくやった」と短く言ってくれた。それだけで十分だった。


 その夜、晩餐の席でレオンハルト公爵が私の隣に座った。配席を決めるのは父だから、父が意図的にそうしたのかもしれないけれど。


「三日間、ありがとうございました」


と彼は言った。


「令嬢の助言は的確でした」

「お役に立てたならよかったです」


 しばらく食事を続けていると、彼がまた口を開いた。


「令嬢。一つ、伺ってもよいですか」

「はい」

「エアハルト家では、現在、当主の妻を必要としております」


 私はナイフを、静かに置いた。


「……続けてください」

「突然で非礼は承知しています。ただ、令嬢のことを一月半、拝見してきて。領地経営の能力、交渉における冷静さ、そして……」


レオンハルト公爵はほんの少し間を置いた。


「雪道を馬で案内してくださったときの、楽しそうなお顔。全て含めて、ふさわしい方だと判断しました」

「プロポーズ、でしょうか」

「そのつもりです。返事は今でなくていい。時間をかけて考えてください」


 私は彼の顔を見た。

 感情が読みにくいと言われる人だけれど、今夜の彼は少し違う。緊張している。わずかに、でも確かに。


「一つ、聞いてもいいですか」

「何でも」

「私が、冷たいと言われる人間でも構いませんか」


 レオンハルト公爵は少し目を見開いた。そして、ゆっくりと首を振った。


「私も同じだと言われ続けてきました。鉄の公爵、鉄仮面、感情がない。令嬢の冷たさは、私には冷たく見えない。ただ、誠実で、正確で、信頼できると見える」


 じわり、と胸の奥が温かくなった。


 不思議だ。泣きたいとか、笑いたいとか、そういう感情がちゃんとある。ちゃんと私には感情がある。ただ、どうやら私は、安心できる場所でないと、それが外に出てこないらしい。


「……少し、時間をください」

「もちろんです」


 * * *


 二週間後。


 朝の散歩のついでに、私は馬を走らせてエアハルト領との境の川まで行った。水利組合の工事が始まっていて、職人たちが測量をしていた。


 空は青くて、雪は白くて、遠くにエアハルト家の城館が見えた。


 私はそこで、一つのことを思った。

 婚約者だった三年間、私は一度も、あの人のことを好きだと思ったことがなかった。

 いや、それは正確ではない。最初は好きだったかもしれない。でも、頑張るほどに、努力するほどに、冷たいと言われるほどに、だんだんと自分を見失っていって。最後には、好きとか嫌いとか、そういう感情すらわからなくなっていた。


 なのに今は。

 エアハルト公爵のことが頭にある。雪道を並んで馬を走らせたこと。感情の乗っていない声で、でも確かに「ご立派だと思いまして」と言ってくれたこと。プロポーズの夜の、緊張したほんの少しの表情。


 これが「好き」なのかどうか、私にはまだわからない。


 でも、一緒にいたいと思っている。


 私は馬を返した。

 エアハルト公爵に手紙を出した。今日、お時間をいただけますか、と。


 午後、彼は来た。応接室で向かい合う。


「返事を聞いてもらえますか」

「はい」

「お受けします」


と私は言った。


「ただし、条件があります」

「何でしょう」

「私は感情を表すのが苦手です。たぶん、これからも笑顔が少なくて、言葉が少なくて、冷たく見えることがあると思います。それでも構いませんか」

「構いません」


と彼はすぐに言った。


「私も同じですから」

「もう一つ。領地の仕事に、引き続き関わりたいと思っています。ヴァルトハイムの、エアハルトの、両方に」

「それは願ってもないことです」

「では、もう一つ」


 レオンハルト公爵が少し目を細めた。


「条件が多いですね」

「最後の一つです」

「どうぞ」


 私は少し息を吸った。


「……あなたのことを、ちゃんと知りたいと思っています。時間がかかるかもしれませんが、焦らないでいただけますか」


 しばらく沈黙があった。

 そしてレオンハルト公爵は、この一ヶ月で初めて、ちゃんと笑った。


 感情が薄いと言われる人が、確かに笑った。目の端に少しだけ皺ができて、唇の端が持ち上がる、ほんの少しの笑顔。でも私にはそれが、世界で一番きれいなものに見えた。


「私も、あなたのことをちゃんと知りたい。時間は、いくらでもあります」


 * * *


 王都に戻ったのは、桜が散った後だった。

 婚約発表は静かに、でも確実に広まった。ヴァルトハイム侯爵令嬢とエアハルト公爵の縁談。氷の令嬢と鉄の公爵。

 面白いほど、話題になった。


 クライン殿下とソフィア嬢の関係は、結局、王室の反対によって正式な婚約には至らなかった。殿下は別の貴族令嬢との婚約を進めているという。ソフィア嬢は男爵家に戻ったと聞いた。それぞれの人生があるだろう。私は特に、何も思わない。


 社交界での私への視線が変わった。「氷の令嬢」という二つ名は変わらないけれど、その意味が少し変わった気がする。「あの公爵を射止めたのだから、只者ではない」という視線。まあ、どうでもいいことだ。


 変わったことが一つある。


 エアハルト公爵、レオンハルトと過ごす時間が増えるほどに、私は少しずつ、表情が出るようになってきた。自分でも驚くくらいに。彼が何か言葉少なに褒めると、頬が温かくなる。彼が珍しく冗談を言うと、笑ってしまう。


 先日、マリアに「お嬢様、最近よく笑われますね」と言われた。

 そうかもしれない、と思った。


 レオンハルトは変わらず表情が薄い。でも私には、今では彼の表情が手に取るようにわかる。困っている、嬉しい、怒っている、照れている。彼もきっと、私のことがわかるようになってきていると思う。


 この前、二人で川沿いを歩いていたとき、彼が言った。


「あなたの笑顔は、北の雪みたいだと思っている」


 私は思わず立ち止まった。


「それは、どういう意味ですか」

「滅多に降らないから、降ったときに特別だと思う」


 私は少し考えて、それからちゃんと笑った。


「……褒め上手になりましたね」

「あなたが教えてくれましたから」


 違う、と私は思った。あなたが、私に笑い方を思い出させてくれた。


 氷の令嬢と鉄の公爵。感情が薄いと言われ続けた二人が、少しずつ、お互いの前でだけ、溶けていく。

 それで十分だ。


 それ以上のことを、私は望まない。

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