第9話:共犯者は、予期せぬ顔
その夜、久美は優斗にすべてを話した。
本社でのこと、片桐への怒りと悔しさ、そしてこの工場に来てからの孤独と焦り。
誰にも語れなかった想いが、堰を切ったように言葉となってこぼれていく。
優斗は黙って耳を傾けていた。時折、小さく頷くだけで、遮ることはなかった。
彼の前では、いつも張り詰めていた心が、ふと緩んでいく。
(この人の前では、鎧を脱いでもいいのかもしれない)
普段は“できる女”を演じていた久美が、ようやく素の自分に戻れた気がした。
話し終えると、優斗は何も言わず、あたたかい缶コーヒーを差し出した。
「…ごめんなさい。つまらない話を長々と」
久美が申し訳なさそうに言うと、彼はふっと笑って言った。
「別に。あんたがただの“鉄の女”じゃないってわかって、ちょっと安心した」
それは、どこか茶化したようで、でも優しい言葉だった。
久美は少しだけ笑った。涙の後に笑ったのは、久しぶりだった。
「一人で頑張りすぎなんだよ、あんたは。もっと周りを頼れって。俺たち、もう“仲間”なんだからさ」
その言葉が、じんわりと胸に沁みた。
仲間——久美がずっと欲しかったもの。
「でも私には、現場の知識がない。企画書が書けても、モノづくりができなきゃ意味がない」
久美がうつむくと、優斗は自信たっぷりに胸を叩いた。
「そんなの、これから覚えりゃいいだろ。それに——あんたには俺がついてる」
「俺、こう見えてパズルを解くのは得意なんだ。あんたの前にある壁も、ただのちょっと難しいパズルってだけ」
その軽い口調に、久美は思わず吹き出した。
(この人の言葉には、変な説得力がある)
「ありがとう」
自然と、素直な感謝の言葉が出た。
それから、久美は変わり始めた。
一人で抱え込むのをやめ、問題があれば優斗や他のメンバーに相談した。
すると、今まで見えなかった解決策が次々と現れ始めた。
抽出技術の再現に苦しめば、優斗が古い文献から新しいヒントを見つけてきた。
それを、元研究職のベテラン社員が現実的な製造工程に落とし込んでくれた。
原材料の調達では、地元農協と顔が利く社員が交渉役を買って出た。
そして最大の課題、古参社員の反発。
久美は一人一人の元を訪れ、頭を下げて協力を求めた。
その誠意が少しずつ伝わり、彼らの態度も軟化していく。
なにより、彼らが信頼する工場長が久美の背中を押したことで、空気が変わった。
『RE-BIRTH』プロジェクトは、次第に部署を超え、立場を超え、工場全体を巻き込むムーブメントへと成長していった。
プロジェクトの中心には、久美と優斗がいた。
久美は「顔」として全体を引っ張り、優斗は「頭脳」として先回りで問題を解決した。
驚くような発想力と緻密な分析で、トラブルの芽を事前に摘んでいく彼の手腕は、もはや「天才的」と言ってよかった。
そんな彼の姿に、久美の中で芽生えたのは、尊敬だけではなかった。
(この人、一体どんな人生を歩んできたの? なぜ、ここにいるの?)
聞きたいことは山ほどあった。
でも、踏み込むのが少し怖かった。
この穏やかな関係が、壊れてしまいそうで。
ある日、久美と優斗は、原材料となる植物のサンプル採取のため、工場の裏山へと足を踏み入れた。
その植物は山奥の限られた場所にしか自生しない、貴重なものだった。
慣れない山道。久美はすぐに息を切らしてしまう。
「ちょ、待って…」
久美が膝に手をついて立ち止まると、先を歩いていた優斗が振り返り、呆れたように笑った。
「だっせぇの。体力ないなー、課長は」
そう言いながら、無造作に手を差し伸べてくる。
その手は大きくて、男らしい感触があった。
一瞬ためらったが、久美は素直にその手を取った。
急な斜面を登るとき、前を歩く彼の背中がすぐそこにあった。
いつもラフなパーカー姿なのに、今日の背中はやけに頼もしく見えた。
胸がどきりと音を立てた。
それが登山のせいなのか、別の理由なのか、自分でもわからなかった。
目的地に着いた頃には、日が傾き始めていた。
帰り道、二人は開けた場所で腰を下ろし、少し休憩することにした。
眼下には工場と、その周囲に広がる田園風景。
のどかな風景に、久美は思わず息を漏らした。
「……きれい」
「だろ? 俺、ここの景色、結構好きなんだよな」
隣に座った優斗が、いつもより穏やかな声で言った。
その横顔を見つめながら、久美は思い切って聞いた。
「ねえ、優斗くん。どうして、あなたほどの人がこの工場にいるの?」
彼は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに誤魔化すように肩をすくめた。
「さぁな。都会の空気が性に合わなかった……とか?」
「本当のことを、教えて」
久美が真っすぐに見つめると、彼は観念したように小さく息をつき、ぽつりと語り始めた。
かつて優斗は、本社の花形部署にいた。
将来を嘱望された、天才データアナリスト。
彼が立案した革新的な戦略は、合理的で、理論的に完璧だった。
だが——「人の感情」という、数値にできない要素を見落としていた。
冷たい戦略は、多くの古参の取引先や顧客の反感を買い、大失敗。
会社は損失を被り、責任の一端を負わされた優斗は、自らの才能を信じられなくなった。
「怖くなったんだよ、また誰かを傷つけるんじゃないかって。だから、全部捨てた。本気でやらないって決めた」
優斗は笑ったが、その笑顔はとても痛々しかった。
久美は、そっと自分の手を彼の手の上に重ねた。
優斗が驚いて顔を向ける。
「ありがとう。話してくれて」
久美は、真っ直ぐに言った。
「あなたの才能は、もう誰も傷つけたりしない。今のあなたは、その力で人を救おうとしてる。私も、その一人」
その言葉に、優斗の目が大きく見開かれた。
夕日が、二人の輪郭をやわらかく染める。
久美はまだ、この気持ちに名前をつけられなかった。
けれど、ひとつだけ確かにわかっていた。
——自分は、この不器用で優しい年下の男に、どうしようもなく、惹かれているのだと。




