第8話:砕かれた熱意の行方
『RE-BIRTH』プロジェクトが正式に動き出した。
だが、それは期待と情熱に満ちたスタートではなかった。
始まりから、久美たちは大きな壁にぶつかった。
最初の試練は、工場長の承認を得ること。
久美は優斗の助言をもとに企画書をさらに磨き上げ、資料を手に工場長室へと向かった。
(このプランが、今のアリュール・ファクトリーを救う。必ず)
その想いを胸に臨んだ交渉だったが——
「相沢課長。気持ちは、わかるよ」
工場長は、眉間にしわを寄せながらも、表情はどこか諦めに近かった。
「だが、これはあまりにもリスクが高い。もし本社、特に片桐部長に知られたら、我々は……」
重々しく言い淀んだその言葉に、久美は痛みを覚えた。
「あなた一人の責任じゃ済まない。現場が潰されるかもしれないんだ」
それは、自分たちの生活を守る責任を背負う、現場トップの言葉だった。
(確かに……正論。でも、このままでは、工場そのものが死ぬ)
久美は静かに息を整え、言葉を選びながら続けた。
「第二ラインの停止が、その証拠です。
このまま何もしなければ、どのみち……この工場は終わります」
言葉に熱を込める。
だが、工場長の表情は動かなかった。
長年本社の圧力と現場の不満の板挟みに耐えてきた人だ。
情熱だけでは動かせない心の重さが、そこにはあった。
部屋の空気が重たく沈む中——
「……あんた、このままでいいわけ?」
不意に、優斗が口を開いた。
気怠げにソファに座っていた彼が、突然顔を上げていた。
「……なんだと?」
工場長が声を低くする。
だが優斗は、眉ひとつ動かさない。
「聞いてんだよ。あんた、本当にこれでいいのかって聞いてんの」
その一言には、どこか静かな怒りと、本物の危機感が滲んでいた。
「片桐みたいな奴に、好き勝手やらせて、黙って見てるだけ?
部下や家族を守りたいって言うなら、ちゃんと立たなきゃ」
その直球すぎる物言いに、久美も工場長も言葉を失った。
(やめて……無茶すぎる)
久美は肘で優斗を制そうとするが、彼は構わず続けた。
「俺には難しいことはわかんねぇ。でも、この企画書は面白い。
やらない理由ばかり並べて、何もしないで沈むくらいなら、挑戦する価値はあると思うけどな」
そう言って、優斗は久美の企画書を工場長の机に「ぽん」と置いた。
「決めるのは、あんたでいい。
けど、俺たちは……もうやるって決めたから」
まるで最後通告のようなその言葉に、工場長は黙り込んだ。
——その帰り道。
「…あんな言い方して、よかったの?」
久美は不安を滲ませて尋ねた。
「いいんだよ。あの人には、ああいう言い方しか通じない。
それに……根は悪い人じゃない。臆病なだけさ」
優斗の言葉には、不思議な確信があった。
久美はその軽口に呆れながらも、なぜか——ほんの少し、救われていた。
午後、部署で進行スケジュールを確認していたその時。
ドアが静かに開き、工場長が神妙な面持ちで現れた。
彼は一歩、二歩と中に入り、皆の前に立った。
そして、深々と頭を下げた。
「……相沢課長。そして、みんな。すまなかった。私が、間違っていた」
空気が止まったように静まり返る。
「私は……この工場の人間だ。このまま黙って潰されていくのを、見過ごすことはできない。
どうか、私にも……そのプロジェクトに参加させてくれないだろうか」
一瞬の沈黙の後、誰かが小さく拍手を始め、それがやがて全体に広がった。
歓声と拍手が、会議室を満たした。
久美は驚きに目を見開いたまま、隣の優斗の方を見やった。
彼は、まるで当然のことのように微笑んでいた。
(……この人、一体どこまで見えてるの?)
久美の中で、優斗という存在への関心が、さらに深まっていった。
だが、戦いは始まったばかりだった。
抽出技術の再現、原材料の確保、ラインの再構築。
山のような課題が待っていた。
さらに厄介だったのは、古参社員たちの反発だった。
「お嬢ちゃんに何がわかる」
「夢物語に付き合う気はない」
会議のたびに浴びせられる冷ややかな言葉。
久美は、データを並べ、計画を説明し、何度も真摯に訴えた。
だが、彼らの心は、固く閉ざされたままだった。
(わかってる……私が本社から来たってだけで、信用されないのよね)
そうして、また一つ、また一つ、心が削れていく。
それでも、久美は立ち止まらなかった。
その夜。誰もいなくなった部署で、久美は一人、パソコンの前に座っていた。
机には資料の山。目は赤く、肩は石のように重い。
「……また、一人で抱え込んでる」
振り向くと、いつの間にか優斗が立っていた。
「仕方ないじゃない。私がやらなきゃ、誰がやるのよ」
かすれた声。
その瞬間、抑えていた感情が決壊した。
涙がこぼれる。止めようとしても、止まらない。
慌てて顔を伏せ、袖でぬぐう。
(見られたくなかったのに……)
だが次の瞬間、優しくあたたかな感触が頭に触れた。
「……!」
見上げると、優斗が何も言わずに頭を撫でていた。
その手は大きく、不器用な動きだったが、なぜかとても安心できた。
久美は声を出さず、ただその優しさに身を委ねた。
(もう……無理して強がらなくても、いいのかもしれない)
この人の前では、少しだけ弱くなっても、いい。
そう、初めて思えた夜だった。




