第7話:たった一枚の、命綱
翌朝、始業のチャイムが鳴ると同時に、久美は新たに仕上げた企画書を片手に会議スペースへ向かった。
机の上に資料を並べ、社員たちに声をかける。
「皆さん、少しだけ、お時間をください」
その静かな声に、最初は戸惑いの色を浮かべていた社員たちも、やがて黙ってテーブルの周囲に集まった。
だが一人、優斗だけは、隅のデスクでまだ眠っていた。久美は起こさなかった。いや、起こさなかったのではなく、あえて起こさなかったのだ。
彼女は視線を皆に向け直し、言った。
「今日は、この工場の現状と、これからについて、お話ししたいと思います」
久美の話は、淡々としていた。だが、その一言一言には、鋭く突き刺さるような確信があった。
工場が抱える経営上の問題、そして片桐部長が仕入れルートを私物化している実態——久美が自分の足で集めた事実を、すべて包み隠さず語った。
最初は静かだった空気が、次第にざわつき始める。
「まさか…そんなことが…」
「嘘だろ…俺たち、ずっと騙されてたのか…?」
多くの社員は長年この工場で働いてきた。汗水流して支えてきた職場が、一人の私利私欲のために利用されていた。
怒りとショックが入り混じったような、重たい沈黙が場を支配した。
久美は手元の資料をテーブル中央に置く。そこには、彼女が徹夜で仕上げた『RE-BIRTH』プロジェクトの企画書があった。
「でも……希望は、まだあります。この工場には、眠っていた技術と、可能性がある。そして、皆さんには、知恵と経験がある」
言葉を続ける久美の声は、震えていなかった。
その瞳には、ただまっすぐな信念が宿っていた。
「私一人ではできません。けれど、皆さんとなら、やれると思っています。どうか――力を貸してください」
深く頭を下げる久美。
頭を上げたその表情には、見栄もプライドもなかった。ただ、一人の人間として、仲間に支えを求める姿だった。
会議室には再び沈黙が訪れる。
社員たちは目を合わせず、うつむいていた。心は揺れている。だが、その一歩が踏み出せない。
(もし、この企画が失敗すれば? 本社の怒りを買ったら?)
そんな思いが、長年染みついた事なかれ主義とともに、彼らの判断を鈍らせていた。
その沈黙を破ったのは、意外な人物だった。
「……面白そうじゃん、それ」
低く、けれどはっきりとした声。
誰かが驚いて振り返ると、優斗が大きくあくびをしながら立ち上がっていた。
「ちゃんと起きてたのか?」
「まあね。さっきの話、ぜんぶ聞いてたよ」
彼はゆっくりと歩いてきて、無言で企画書を手に取った。ページをめくる手はゆっくりだったが、その目は真剣そのものだった。
「ふむふむ……悪くない。コンセプトも実現性も、結構しっかりしてる」
そう呟いたかと思うと、彼は備え付けのペンを取り、余白に数式を書き込み始めた。
「でも、ここの需要予測はちょっと甘い。ターゲット層を20代後半にも広げれば、初期ロットの調整でリスクも下げられる。ほら、こんな感じで……」
彼の手は止まらない。数式、グラフ、想定数値。それらが企画書の空白を埋めていく。
久美は、言葉を失っていた。
これは、ただの思いつきではない。理論と実務の両面を理解していなければできない調整だった。
周囲の社員たちも、ただ呆然とその手元を見つめている。
普段はやる気がないと見られていた優斗が、今や誰よりも集中し、目の前の問題に立ち向かっている。
すべてを書き終えた優斗は、企画書をパタンと閉じ、にやりと笑った。
「うん、これならイケるんじゃない?」
久美は、ようやく声を振り絞った。
「……あなた、一体、何者なの?」
彼は肩をすくめると、軽く笑って言った。
「ただの、数学がちょっと得意なだけのダメ社員ですよ、課長」
答えになっているようで、なっていない。
だが久美は、それ以上追及しようとは思わなかった。
大事なのは彼の肩書きでも過去でもない。
彼がこの企画を「イケる」と断言した。その事実だけで、十分だった。
優斗の一言が、空気を一変させた。
「……相沢さん。俺たちも、もう後がないんですよ」
沈黙を破ったのは、最年長の社員だった。
「どうせ沈むなら、あんたの船に乗ってみるのも悪くねえ」
その言葉に、次々と頷く声が上がる。
「俺も賛成だ」
「やるだけやってやろうぜ。どうせ黙ってても潰される」
彼らの表情には、久しぶりに闘志の光が戻っていた。
久美の目にも、熱いものが込み上げる。
「……ありがとうございます」
声が震えた。それ以上、言葉を続けることができなかった。
この日、久美の“たった一人の戦い”は終わりを迎えた。
そして『RE-BIRTH』プロジェクトは、商品企画部全員による“共同戦線”として歩み始めた。
久美の隣には、確かな仲間がいる。
そしてその中心には、まだ多くの謎を抱えながらも、並外れた才能を隠し持つ、一ノ瀬優斗という男がいた。
久美はふと、窓辺でヘッドフォンをつけて外を眺める優斗の横顔を見た。
相変わらず気だるそうな姿だが、もう彼のことを“ただのダメ社員”だとは思わなかった。
久美の「再生の物語」は、ようやく本当の意味で幕を開けたのだった。




