第5話:沈む船に灯すもの
アリュール・ファクトリーでの最初の一週間は、久美にとって想像以上に過酷だった。
朝、挨拶をしても誰一人まともに返さない。
社員たちは久美の存在を見て見ぬふりしながら、それぞれのルーチンワークに没頭していた。
本社から送られる生産計画をそのまま処理するだけ。創意工夫など皆無。
その無関心さと停滞した空気が、部屋の隅々まで染み渡っていた。
「過去の販売データはありますか?」「市場調査は?」
質問しても返ってくるのは、「さあ」「昔からそうなんで」といった気のない答えばかり。
久美は、彼らが変化を恐れているのだと感じた。
本社から来た“やる気のある”上司など、面倒な存在でしかないのだろう。
優斗に対する苛立ちも募っていた。
毎日違うパーカーを着て現れ、定時ぴったりに誰よりも早く帰る。
昼間はヘッドフォンで音楽を聴き、時には机に突っ伏して眠っていることもあった。
だが、不思議なことに、彼は年配の社員たちと妙にうまくやっていた。
休憩時間には談笑する姿があり、そこには本社出身の久美には入り込めない距離があった。
(どうして誰も注意しないの?)
この工場は、全体が腐っている——久美は、そう結論づけた。
週末、久美はアパートにこもり、何度も自問した。
(このまま何もせず、ただ時間だけを過ごすの?)
それだけは耐えられなかった。
片桐の思惑通りに、自分のキャリアが終わっていくなんて認めたくなかった。
悔しさと怒りを抱えながら、久美は資料を広げた。
過去の生産実績、原価表、却下された企画書、山のような紙の束。
ページをめくる指先が止まる。
——生産コストの急激な上昇、特定の原材料の異常な廃棄率。
その裏にある、ひとつの技術レポートが目に留まった。
地元で採れる植物を使った、独自の抽出法。
画期的な内容だったにもかかわらず、却下理由はどこにも記されていなかった。
(何かがおかしい)
久美の胸に、久しく感じていなかった好奇心が芽を出した。
週明け、久美は工場長に直接尋ねた。
「この抽出技術について、お聞きしたいのですが——」
「そんなレポート、ありましたかねぇ」
工場長は首をひねるばかりで、答えになっていなかった。
「コストのことは、まあ、慢性的な課題でして」
「廃棄率?いちいち気にしてたら、回りませんよ」
(やっぱり、表向きはそう言うか)
久美はあきらめた。これ以上話しても無駄だ。
自分で見るしかない。
その日の午後、久美は一人で工場内を回り始めた。
床に響く機械の振動。
油のにおいが混じる湿った空気。
ベルトコンベアの横で働く作業員たちの額には、汗が光っていた。
(化粧品って、こんなにも人の手で作られていたんだ……)
本社で数字ばかり見ていた頃には、想像もしなかった光景。
それが今、自分の目の前にあった。
作業員に話しかけようとするが、皆一様に硬い表情を崩さない。
スーツ姿の“外の人間”に、警戒心をむき出しにしている。
(何かを、隠してる?)
久美は疑念を深めた。
工場の奥、品質管理室の掲示板に一枚の張り紙があった。
『来月限りで、第二ラインは稼働を停止します』
久美は足を止めた。
その言葉が意味するものを理解するのに、時間はかからなかった。
第二ラインは、古い設備ながら、長年工場の生産を支えてきた中核だ。
それを止めるということは——リストラが本格化するということだ。
(この工場、本当に、沈むのか……)
一人の社員の顔が、次にその家族の顔が脳裏に浮かぶ。
久美は、思わず拳を握った。
(私は、この船に乗っているんだ。逃げるわけにはいかない)
東京での栄光、片桐への怒り、失意、孤独。
すべてを背負って、それでも、ここで踏みとどまる理由があった。
目の前にある現実は、醜く、重たい。
けれど、立ち向かうことでしか、未来は変えられない。
久美は張り紙をじっと見つめた。
目の奥に、静かな炎が灯っていた。
(私がやらなきゃ、誰がやるの?)
ここで終わるつもりはない。
終わらせてたまるものか。
この沈みゆく船を、もう一度浮かび上がらせるために。
自分の手で、この場所を再び動かすために。
久美の本当の戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。




