第4話:最悪のファーストコンタクト
久美の初出勤は、拍子抜けするほど静かだった。
出社しても誰も挨拶を返さず、部署の空気はどこか重苦しい。
社員たちは久美を視界の端に捉えつつも、誰ひとり話しかけようとはしなかった。
書類に目を通すふりをしながら、久美はただ時間が過ぎるのを待っていた。
目を通したのは就業規則、古びた企画書、工場の概要資料。内容は頭に入らなかった。
(歓迎ムードなんて、最初から期待していなかったけれど……)
彼らにとって久美は、本社から送り込まれた“外様”。
一時的な嵐が通り過ぎるのを、ただ黙ってやり過ごそうとしている。
その無言の拒絶が、背中越しに伝わってくる。
終業チャイムが鳴ると、まるで合図でもあったかのように、社員たちは一斉に席を立ち、蜘蛛の子を散らすように帰っていった。
残された静寂が、久美の孤独をさらに際立たせる。
(これが、私の新しい職場……)
本社では、定時後からが“本当の仕事”だった。
あの喧騒と熱気が、今はただ恋しい。
アパートに戻り、コンビニ弁当をレンジで温める。
照明の明かりがやけに白く、寂しさだけが際立っていた。
窓の外には、街灯の少ない暗い道と、人気のない景色。
東京の光に包まれた夜とは、まるで別世界だった。
翌朝、出社した久美は、自分の部署に見慣れない若者がいることに気づく。
窓際のデスク。少し癖のある黒髪。
ゆったりしたパーカーに身を包み、ヘッドフォンをつけてリズムを刻んでいる。
(誰……?)
名簿には載っていなかったはず。久美がじっと見ていると、男が顔を上げた。
いたずらっぽく笑いながら、軽く手を挙げる。
「あ、おはようございまーす」
気の抜けたその声に、久美は思わず眉をひそめた。
「……おはよう。あなたは?」
「一ノ瀬優斗。今日からここに配属されました」
初耳だ。昨日のうちに工場長から何の説明もなかった。
「聞いてないわ。あなた、本当にここの社員?」
問い詰めるような口調に、優斗は肩をすくめて笑いながら、ポケットからくしゃくしゃの辞令を取り出してひらひらと振った。
「ちゃんと紙もらってますって。見ます?」
(この態度……何?)
久美は深く息を吸い、自分のデスクに鞄を置いた。
「一ノ瀬さん。ここは職場です。その格好と態度は、社会人として問題だと思います」
努めて冷静に、課長としての立場から伝える。
だが、優斗はまったく動じなかった。ヘッドフォンを外すと、久美をまじまじと見て言う。
「へぇ。あなたが“例の”課長さんか」
「そうよ。何か?」
「噂どおりの、いかにもできる女って感じ。……しかも、美人」
何のためらいもない物言い。
久美の頬が、怒りで熱を帯びる。
(この男、本気でふざけてるの?)
言い返そうとしたとき、他の社員たちが出社してきた。
「お、優斗くんじゃないか。なんでここに?」
年配の社員が声をかける様子を見るに、どうやら完全な新顔ではないらしい。
「ちょっと気分転換っすよ。今日からよろしくでーす」
朗らかに笑う優斗に、社員たちは苦笑いを浮かべた。
誰も彼を咎めない。
(厄介払いされた問題児ってところね……)
久美は、同じく左遷されてきた自分と優斗が、この部署で出会ってしまった偶然を、皮肉に感じていた。
その日の夕方。
工場長の計らいで、小さな歓迎会が開かれた。
場所は駅前の古びた居酒屋。
乾杯のあと、社員たちは思い思いに酒を注ぎ、くだらない噂話に花を咲かせていた。
久美は輪に入れず、ただウーロン茶のグラスを傾けていた。
笑い声の中で、まるで一人だけ別の場所にいるようだった。
「課長さん、飲んでないじゃん」
向かいの席に、優斗が腰を下ろした。
顔は赤らんでいるが、言葉ははっきりしていた。
「それじゃ、皆と仲良くなれませんよー?」
「私は、飲まない主義なの」
「つまんない。……仕事だけが取り柄って感じ?」
その一言が、胸に突き刺さった。
(本当に、その通りだもの)
久美は黙り込んだ。
東京でがむしゃらに働いてきた。仕事が自分の価値そのものだった。
今、その「仕事」さえ奪われたら、何が残る?
「でもさ」
優斗は、テーブルの端の漬物をつまみながら、軽く言った。
「ツンツンしてたら、誰もついてこないよ。
ここは、エリート嫌いが多いから」
「……あなたに何がわかるのよ」
「わかるさ。俺も、あんたみたいな人、嫌いだから」
悪びれる様子もなく、屈託のない笑顔でそう言った。
久美は言葉を失った。
腹立たしいはずなのに、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
(この人、思ったことをそのまま言ってるだけ……)
「……光栄だわ」
ようやく絞り出した返事は、皮肉でしかなかった。
歓迎会は早々にお開きとなり、久美はひとりで帰路についた。
駅の改札を抜け、静まり返った夜道を歩く。
背後から聞こえてくる、優斗と他の社員たちの笑い声が、やけに遠く感じられた。
彼は、もうすっかりこの場所に溶け込んでいる。
それに比べて自分は——誰とも距離を縮められないまま、ただ浮いている。
(あんな言い方されたけど……)
久美は、自分が誰の心にも届いていないことを痛感していた。
厄介な女。鼻につく女。扱いづらい女。
優斗の言葉は、図星だった。
(この場所で、本当に私はやっていけるの?)
心の奥に冷たいものが広がっていく。
東京で感じた孤独とは、また違う、もっと深く静かな孤独だった。
それは、誰にも気づかれないまま、久美の心をじわじわと蝕み始めていた。




