第3話:雨の景色と最悪の朝
初出勤の日。
久美がアリュール・ファクトリーのオフィスに足を踏み入れた瞬間、肌で感じたのは“無音”だった。
誰も挨拶を返さない。視線を向けられるが、そこに関心はない。ただ、距離感だけが突き刺さる。
(歓迎ムードなんて期待してなかった。でも、これは……)
久美は黙って自分の席に座り、資料をめくるふりをして時が過ぎるのを待った。
就業規則、古びた企画書、工場の概要資料。
どれも頭には入ってこなかった。重苦しい空気の中では、活字すら心に染み込まない。
チャイムが鳴った瞬間、まるで合図だったかのように、社員たちは一斉に立ち上がり、足早にオフィスを後にした。
誰ひとり、久美に声をかける者はいなかった。
——残されたのは、静寂と自分だけ。
アパートに戻り、電子レンジで温めたコンビニ弁当を口に運ぶ。
白く冷たい蛍光灯の光が、ただ部屋の無機質さを際立たせていた。
窓の外には、人気のない暗い通り。
東京の煌めきとは、まるで別世界だ。
「ここで、やっていけるの?」
誰にも聞かれない問いが、胸の奥に沈んでいく。
—
翌朝。
出社すると、見覚えのない若者がデスクに座っていた。
パーカーにヘッドフォン、黒髪に無造作な癖。
無言でリズムを刻む彼の姿は、オフィスという空間にまるで似つかわしくない。
(誰……?)
名簿にはそんな名前はなかった。じっと見ていると、彼が気づいて顔を上げた。
「おはようございまーす」
気の抜けた挨拶に、久美は思わず眉をひそめる。
「……あなたは?」
「一ノ瀬優斗。今日から配属されました」
そう言って、くしゃくしゃの辞令をポケットから出してひらひらと見せた。
(なんて無礼な……)
「ここは職場よ。その服装と態度、社会人としてどうかしら?」
冷静に注意する久美に、彼はまるで効いていない様子で、にやりと笑った。
「へぇ……あんたが“例の”課長さんか。噂どおり、できる女って感じ。しかも、美人」
その無遠慮な言葉に、久美の頬が熱くなる。怒りか羞恥か、わからない。
(ふざけてる……)
言い返そうとしたそのとき、他の社員が出社してきた。
「優斗くんじゃないか。なんでここに?」
慣れた調子で声をかける姿に、彼が完全な新顔でないことを知る。
「気分転換っすよー。よろしくでーす」
軽い笑顔に、周囲の社員たちも苦笑いで応じる。
誰も彼を咎めない。その様子に、久美はますます違和感を覚える。
(問題児の厄介払い……)
まるで過去の自分を見るようだった。
——この部署に送り込まれた者同士。最悪の出会い方だった。
—
夕方。
工場長の計らいで、駅前の居酒屋にてささやかな歓迎会が開かれた。
古びた暖簾をくぐったその店は、年季の入ったテーブルと、ちょっと古臭いポスターが貼られた壁に囲まれ、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。
乾杯が済むと、社員たちはあっという間に砕けた空気になり、あちこちで笑い声が上がる。
酒が進むにつれ、東京ではあり得なかったような雑談や冗談が飛び交った。
久美は、その輪の外にいた。
ウーロン茶を片手に、ただ静かにグラスの中を見つめていた。
「課長さん、飲んでないじゃん」
目の前に現れたのは、またしても一ノ瀬優斗。
顔を少し赤らめながらも、言葉ははっきりしている。
「皆と仲良くなるには、酒、飲まなきゃ損っすよー?」
「私は、飲まない主義なの」
きっぱりと答えると、彼は肩をすくめた。
「つまんないなぁ。仕事だけが取り柄って感じ?」
その一言が、思いのほか鋭く胸に突き刺さった。
(本当に、そうなのかもしれない……)
仕事に生き、仕事に価値を見出してきた。
それが“異動”という形で奪われた今、自分には何が残るのだろう。
「でもさ」
漬物をつまみながら、彼は続けた。
「ツンツンしてたら、誰もついてこないっすよ?
ここ、エリート嫌い多いから」
「……あなたに何がわかるのよ」
「わかるさ。俺も、そういう人、嫌いだから」
さらりと、悪びれる様子もなく言った。
久美は呆れ、同時にわずかな驚きを覚えた。
この男、たぶん何の計算もなく、ただ思ったことを口にしているだけ——。
「……光栄だわ」
皮肉交じりに返すと、彼はケロリと笑って席を立った。
—
歓迎会のあと、久美はひとり、静かな夜道を歩いていた。
駅の改札を抜けた先には、人影の少ない路地と、湿ったアスファルトの匂い。
背後には、まだ明るい笑い声。
その中には、優斗の声もあった。
(彼は……もうすっかりこの場所に馴染んでる)
自分とは対照的に。
胸に広がるのは、じわじわと冷たく沈むような孤独。
東京で感じた孤独とは違う。
もっと根深く、どこか自分の存在を否定されるような感覚だった。
——この場所で、私は何を築けるのだろう。
考えるほどに答えは遠く、夜の闇だけが静かに包み込んでいった。




