第19話:あなたの盾になる日
片桐の懲戒解雇は、社内全体に衝撃を与えた。
悪事が暴かれた事実よりも、その裏でアリュール・ファクトリーが独自ブランドを成功させ、会社の期待を裏切らずに結果を出したことのほうが、大きな話題となった。
工場の名は一気に社内で称賛の的となり、『RE-BIRTH』プロジェクトを率いた久美と優斗の名は、役員会でも賞賛の声とともに語られるようになった。
やがて、社長直々の辞令が二人に下された。
久美はアリュール・ファクトリーの正式な工場長に。
そして優斗は、本社に新設された経営戦略室の室長として、経営中枢を担うポジションへと大抜擢された。
この人事に異を唱える者はいなかった。
全員が納得し、工場内では盛大な祝賀会が催された。
だが——その渦中にいた久美の胸は、複雑な思いで揺れていた。
優斗が、本社に戻ってしまう。
また、自分だけがこの場所に取り残される——そんな感覚に、心がきしんだ。
もちろん、彼の栄転は喜ばしい。
久美がその才能を誰よりも認め、応援してきたからこそ、当然の結果とも思えた。
けれど、理屈では理解していても、心がついてこなかった。
彼がいない工場。
彼と会えなくなる日常。
それらが現実として迫ってくると、胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。
—
祝賀会の喧騒を離れ、久美は一人、静かに屋上へと向かった。
そこは、彼と幾度となく心を交わした場所だった。
夜風が冷たく、頬をなでていく。
その感触が、まるで浮ついた思いを正すようで心地よかった。
(強くならなきゃ。私は、もう一人の上司なんだから)
そう自分に言い聞かせながら、空を見上げたとき——
「……やっぱり、ここにいた」
聞き慣れた声に、久美は振り向いた。
そこには、ネクタイを緩めた優斗が、月明かりを背に立っていた。
「どうして……?」
「……あんたが泣いてるんじゃないかと思ってさ」
そう言って彼は、隣に腰を下ろした。
久美は、微かに笑って首を振った。
「泣いてなんか、ないわ」
強がりの声は震えていて、それが嘘だと自分でもすぐにわかった。
「……おめでとう、優斗くん。本社栄転、すごいじゃない」
「……ああ」
「あなたの才能なら当然よ。きっと、もっと大きな仕事が待ってるわ」
「……ああ」
返ってくる返事は、妙に淡白だった。
それが逆に、久美の心に引っかかった。
(どうして、そんな顔するの……?)
二人の間に沈黙が落ちる。
その静けさの中で、久美は胸に抱えた想いをそっと口にした。
「……寂しくなるわね」
たったそれだけの言葉に、張り詰めていたものが溢れ出しそうになる。
優斗は、何も言わずに久美の肩をそっと抱き寄せた。
その不器用な優しさに、久美の涙は堰を切ったようにこぼれた。
「ごめん……ごめんなさい……!
あなたの栄転、喜ばなきゃいけないのに……でも、でも、私……!」
嗚咽とともに、感情があふれてくる。
まるで子供のように泣きじゃくる久美を、優斗は黙って抱きしめ続けていた。
背中を、優しくさすりながら。
やがて、少しだけ涙が収まり始めた頃。
優斗が、静かに口を開いた。
「なあ、久美さん」
「……なに?」
「俺、その辞令、断った」
「えっ……?」
涙で霞む視界の中、久美は優斗を見つめた。
彼はいつものように、悪戯っぽく笑っていた。
「俺は、あんたの隣がいいんだ。
あんたと一緒に、この場所で、これからも何かを作っていきたい」
「でも、それじゃ……あなたのキャリアが……!」
「キャリアなんてどうでもいいよ。
俺、もう嘘つきたくないんだ。
本当の気持ちに、正直でいたい」
そう言って、優斗は久美の頬に残った涙を指先でぬぐった。
「俺は、あんたの“盾”になるって決めたんだ。
だから、これからも、ずっと、そばにいさせてほしい」
その言葉が、どれほど久美の心に響いたことか。
これまでずっと、自分を奮い立たせてきた。
孤独も不安も飲み込んで、前に進んできた。
でも、本当はずっと、誰かに寄りかかりたかった。
弱さを見せてもいい場所が欲しかった。
そのすべてを、彼は見抜いて、受け止めてくれていた。
久美は、涙に濡れた顔で、ふっと笑った。
「……ばか。あなたって、本当に、ばかよ」
けれどその言葉の裏には、計り知れないほどの感謝と愛情が込められていた。
「私の盾になってくれるんでしょう?
だったら、一生、そばにいて、守ってくれなきゃ……許さないから」
「……ああ。約束する」
優斗は、もう一度強く久美を抱きしめた。
その腕の中にあるぬくもりが、久美のすべての不安を溶かしていく。
月明かりの下、二人の影がひとつに重なる。
それは、戦いの終わりと、新しい日々の始まりを告げる、静かな夜だった。




